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エピローグ 猫とお嬢様

 あの別邸での戦いから数日が経っていた。そして私のその後はと言うと、

「あんたに部下を与えるわ」

「……それはどうも」

 体裁上は出世していた。


                ▼


 ソフィアと旧交を暖めたあの夜ののち、私達は疲れ切った体を休めるべく泥のように眠った。それからほんの少しの間、たったの一日だけだが休日を邸宅で楽しむという優雅に浸ることができた。しかし、それは本当に少しの間のこと。日付は八月三十一日。

 一部の学生と黒スーツが宿題という現実を突きつけられる日であり、私の人生を大きく変えた日でもあった。なぜかと言えば、私までもがお嬢の通う学校に通わされるハメになったからだ。というよりは、最初からそういうことだったらしい。

 五稜館学園の異性の付き人必須という特殊な校風は、つまり要人の従者たる者も相応の教養を身に付けるべきであるとの考えに基づいているせいだった。てっきり送り迎えだけしていれば良いものかと思っていたのだが、考えが甘かったのだと気付かされる。

 それにしたって同性であればいいだろう、と訴えたかったのだが、どうやら主従をペアにして男女間における礼節やらなんやらを学ばせるという本当にどうでもいい理由もあったようで、私の訴えは虚空の彼方に消えていった。故に男女比を考えて異性に限定されている。

 新学期早々、転校生のように(まあ実際そうなのだが)紹介された私をジロジロと見ては一体何日持つのかという賭けを始める始末で、お嬢の数少ない友人はいい性格をしているようだ。

 唯一の救いは主従で一緒くたになって授業を受ける時間はごく稀で、普段はそういう趣向の授業はないらしい。しかしやはりというかお嬢の付き人というものはそれなりに目立つ肩書きらしく、遠巻きに私を眺めるどこのドイツだかの付き人達の視線には辟易していた。


                ▼


 まあそれなりに楽しめたイベントはあったのだが、色々と問題も起きた。

 その腹いせなのか、こうして私の前に用意された部下とやらは、ゴロゴロと絨毯の上を転がっていた。

「ほらほら、あのデッカイのが上司でしゅよー。きちんとご挨拶なさい」

「「「にゃー」」」

 にゃー、ときたか。もはや人類ですらない。大中小とわかり易いサイズの三匹の猫科生物、猫が私を見上げている。大の三毛、中の黒、小の白。仲はそれなりに良さそうだ。

 そして私の部屋の扉にはプレートが張られ、そこには『ネコの部屋』と書かれている。まあ確かに色々な意味で間違ってはいない。がしかしだ、早速そこら中を縦横無尽に暴れ始めた部下達を前に物申したくなるのは自然というものだろう。

「全くあれしきのことで根に持つとは、心の狭いご主人だ」

「あんだけ恥かかせといて何をヌケヌケと……」

 ちなみに眉毛の件ではない。

 お嬢の背後が陽炎のように揺らぐほど、様々な感情をすっ飛ばして殺意を漲らせていた。

 はっきり言うと自業自得もいいところなのだが、お嬢には人間の常識とかそういう一切は通用しないのだと、ここ数日で学んだことを反芻していた。


                ▼


 九月一日、五稜館学園始業式。

 当然の如く学生が、ごく一部の例外を除いてほぼ全員高級車に乗ってやってきていた。

「ブルジョワここに極まれり、だな」

「あんた大人しくしてなさいよ? それでなくてもウチの人間は目立つんだから」

 いつも騒いでいるのはお嬢の方なのだが、コイツの脳ミソは今日も晴れ模様らしく現実を正しく把握できていないようだった。少しばかり可哀相な子なので温めの視線で見守ってやって欲しい。

 そんなお嬢の脳内天気予報はさておき、ここは本当に学校なのかと疑いたくなる。その敷地もさることながら、校舎はどこぞの石油王が建てたリゾートホテルかと見紛うほどに立派で、ガラス越しに見える内部はやはりどこぞの宮殿を模していた。金持ちというのはつくづく宮殿じみた建築様式が好きらしい。まあ確かに格調高い雰囲気は出ているので、ある意味必然なのかもしれない。

 ゆったりと進む車の列に並びながら外に視線を泳がせていると、国際色豊かな各種施設が所々に確認できる。一応それなりにまとめてはいるようで、広々としたターフの向こうにはゴルフ場やらクラブハウスとおぼしきものが存在している。武道場系の施設は節操がなく、まるで格闘技の万国博覧会のようになっていた。

 一応郊外ではあるが、本当に都内なのか疑問に思えるほどの敷地面積。東京ドームの数で計測するのがバカらしくなってくる広大さだった。なにより全校生徒全員がリムジンで登校しても楽々収容可能な駐車場、というのが最早バカの極みとしか言いようがない。

「ではお嬢様、ネコ君、お気を付けていってらっしゃいませ」

 もちろん運転していたのは帯刀さんだ。以前からこうして登下校時の送迎も行っているそうだが、この学校は運転手に対する配慮も十二分に行き届かせているのだと聞いた。休憩施設から遊技場、図書館の解放等々色々と暇潰しが完備されているらしい。運転技術向上のためのドライビングコースも地下にあるということで、学生、付き人、運転手に至る全てに異常とも言えるほどサービスが充実していた。

 それもこれも五稜の一角である一之瀬の、リゾート開発の一環として実験的に設置している施設だというのだから、きっとそいつもろくでもない高級志向に違いない。

 お嬢の話では、五稜に名を連ねる五家全ての子息令嬢が高等部に所属しているということらしく、その内お目にかかることもあるだろう。お嬢を見る限りマトモな神経をした人間がいるとは考え難いが、偏見はいけない。私も精神的に一回り成長したようで、害さえ及ぼさなければそれでいいと思えるようになってきていた。毒されてきたとも言う。

 発する言葉の全てに広大な、という形容を付けてそれでもまだ物足りない校舎内を歩き、辿り着いたのは舞踏会場に迷い込んだかと思わせる赤絨毯の講堂。

 そうして、眠気を誘う高等部学長のおべっか混じりの挨拶等お約束事を居眠りでやり過し、のちに案内された教室でお嬢のネーミングセンスが皆無だということが露見し、クスクスと失笑が起きることに、普通の神経をした人間もいるのだと安堵する私はもうどこかおかしくなっているのかもしれない。

 もう紹介するのも面倒なほどたくさんの施設と、その意図と目的がさっぱりわからない名称の教室やらとにかく目まぐるしかったということだけは覚えている。九月一日に防災訓練を行うという考えもないようで、しかしそれは五稜館の警備員の大規模演習を行うことで代わりとしているらしい。帯刀さんは特別顧問として召集されていた。


 ところで私の本名についてだ。記憶が戻って以降ちゃんと自己紹介をするのを忘れていた。名をジークフリート・ヴァン・クロフトという。一応きちんとした戸籍も持っている。

 しかしながら私はいつの間にか架空の戸籍を取得し、勝手に改名されていた。全く不本意も甚だしいのだが、水那上家の権力の強大さを改めて知ることとなる。苗字は考えるのが面倒臭かったらしく水那上の名前を冠することになってしまい、あらぬ誤解を受けたりもした。

 お嬢にも名を告げ記憶が戻ったことを説明したのだが、何も聞かなかったかのようにあっさりと無視された。あくまで私の名前はネコだと言い張るつもりらしい。

 そして私がちょっと特殊な体をしていることは、念のため隠している。もしもお嬢に知られようものなら、なにをされるか想像がつかない。ソフィアにもよく言って聞かせようと誓った。

 まあそれは忘れよう。

 小腹が空いたついでにソフィアの様子でも見にいこうと食堂に寄ってみると、確かにそこにソフィアはいた。どうやら名物シェフとして結構な人気を博しているらしい。私の記憶する限りでは味の方も問題ない。彼女を越える料理人には未だ出会ったことがなかった。

 カウンター越しに親しげに話していると、あらゆる角度からヌラついた嫉妬の視線を感じ、メニューに載っていない気まぐれシェフの思いつき定食は確実に狙ってやっただろうハート型にライスが盛られていて、ここでもあらぬ疑いを呼んでいた。

 コック帽をかぶった仕事仲間らしい男がソフィアにどういう関係なのか尋ねると、

「うーん……、愛人?」

 などと、ふざけたことをわざと周囲に聞こえるような声で告げていた。もちろんそのような事実はない。

 厨房の下に隠れて笑っているコイツはこういう悪戯が好きなのだ。もっと平和に生きたいものだと祈ろうとするが、包丁を握るシェフ達の誤解を解くことを優先した。まあ無実を主張したものの、トレイを持ったまま即座に逃げ出したので誤解はおそらく深まっている。

 そんなこんなで腹ごしらえをすることもままならずに帰宅の途に着いたのだが、この日はどうやら厄日だったらしい。まだ安息の時は訪れてはくれなかった。


「おかえりなさいませ、あなた」


 櫛田さんが白無垢を着て待ち構えていた。

「……おい蒼一郎、なぜ止めなかった」

「……止められるわけないじゃないか」

 まるでストラップのように櫛田さんの腰に引っ付いている半泣きの蒼一郎を見て、無駄だとわかっていて止めようとしたその心意気だけは評価することにした。

「お食事の前になさいますか? 後になさいますか? それともお風呂で?」

 何をする気だ。聞くのは怖いのであえて何も言わず、慣れた手つきで白無垢を脱ぎ始めた櫛田さんをヨソに私は一目散に駆け出していた。

 とりあえず神野さんに連絡を取り、屋敷内に変質者がいるとだけ伝えて、そうしてようやく一日の終わりを実感することができた。後半は逃げてばかりだった気がする。


                ▼


 とまあそんな一日だったわけだ。これだけで十分普通の学生生活であるとは言い難い、道楽主義者達の楽園であることがおわかり頂けるだろう。

 で、だ。お嬢の不機嫌のタネ明かしをすると、そうして初日を無事やり過したものの、悲劇は翌日からはじまることとなったからだ。覚えておいでだろうか、夏休みの宿題プレゼンテッドバイ黒スーツ。

 八月三十一日の夜、何とか全てやり終えた彼らはお嬢の下に宿題のデータを提出しに来ていた。目の下にクマが目立ったが、仕事を成し遂げた(おとこ)の顔をしていたように思う。

 そこで私は一計を案じたのだ、念のためとお嬢が中身を確認しようとしていたところを手で制し、こう言ってやった。

「お嬢、部下を信頼しろ。彼らの頑張りを疑う気か」

「う……、そ、それもそうね。よくやったわ、あんた達」

「ネコの旦那……、お嬢様……」

 その不名誉な呼び方は勘弁して欲しいが、単純バカは私の策に乗っかってそのまま宿題を提出した。黒スーツ達は感涙を流していて、暑苦しいことこの上ない。


 その結果九月二日、お嬢は見事に担任に呼び出され、宿題についての申し開きをさせられた。紙媒体を使わないことから筆跡などの心配はなかったが、問題の正誤、あからさまな男喋りの語調、お嬢のそれまでの成績との比較等々、はっきり別人がやったとわかる内容で、おまけに笑いを取ろうとしているとしか考えられない酷い解答だった。

 そしてその矛先が今私に向けられ、こうした地味で陰険な嫌がらせを受けている。まあこの三匹の猫に罪はないし、どうやら足下に擦り寄って来ていることからも懐いてくれたらしく、仲良くやっていけそうだった。

 当然だが黒スーツ達も罰を受けている。

「クールビズよ」

 と言われ彼らに支給された新しいスーツは、それまでの物をただハサミで切り取っただけのノースリーブと短パンと化していた。ネクタイは頭に巻きつけ、靴下は限界まで上に上げておくようにと指示されている。

 しかしながらその格好で外を出歩いていると、お巡りさんから不審人物とみなされ頻繁に職務質問を受けるということなので、実際は邸内だけという罰ゲームであった。侍女達の含み笑いだけでも羞恥を煽るのには十分である。

 私はと言えば、この地味な嫌がらせの他は人間としての尊厳は保たれていた。ただそれはお嬢が寛容なわけではなく、傍にいることの多い私にまでそんな格好をさせては、お嬢にも被害が及びかねないからだろう。まあハタから見ている分には楽しめるが、そんな物着ろと言われても絶対に従う気はなかった。

「フフン、あんたにはお似合いの部下ね。まあ獣同士仲良くするといいわ」

「お前達、ご主人様が構って欲しいそうだ」

「「にゃー!」」

「え、ちょ、ちょっと、や、こら、やめなさウワー!」

 一番大きい三毛は本当に猫にしては大きめ、というかかなり太めで貫禄すらあるのだが、お嬢の小さな体ではあの巨体に圧し掛かられただけでも結構なお荷物になるだろう。黒と白の連携もなかなかのもので、絨毯の上に倒れたお嬢をペシペシと肉球と尻尾で叩いている。

「優秀な部下を頂き誠にありがとうございます、お嬢様」

「「にゃー」」

「バカな事言ってないで止めなさウハハハハハハハ!」

 難点は『にゃー』としか言わないことか。意思疎通が難しい。しかしながら本当に優秀で、尻尾の先でお嬢の脇をくすぐっていたり、首筋をザラザラしてるだろう舌で舐め回したりとお嬢をくすぐり地獄へと陥れていた。

「は、早く止め、ちょ、イヤー!」

 大体私だってコイツには散々迷惑をかけられたのだ。これくらいの仕返しで罰が当たろうはずもない。

「早く止めなさいよバカッ!」

「慕われているのだからいいだろう」

 猫達はお嬢の貧弱な胸に三匹まとめて抱えられていた。ゼイゼイと呼気荒く息を吐いているお嬢の顔は、笑い疲れて引き()っている。

 まあ今が楽しくないと言えば嘘になる。退屈とはほど遠い生活だし、食事は相変わらず美味い。帯刀さんという理解者を得て、黒スーツ達も色々と飽きさせない。

 そしてこの、小さなご主人もそれなりに楽しませてくれている。

「何笑ってんのよ? そんなにご主人様のピンチが嬉しいのかしら?」

 どうやらまた意図せずに笑みが零れていたようだ。

「面白、いや微笑ましい光景だったと思ってな」

「わざとよね!? 今わざと間違えたわよね!?」

 なんだかんだと言って、頬を染めながら猫達を大事そうに抱えるお嬢は微笑ましかった。

 獣は自分に向けられる感情には敏感なのだ。三毛も黒も白も、気持ち良さそうにお嬢の平坦な胸に抱かれ、寄り添っていた。

「お嬢」

「何よ?」

 まあ不本意ではあるが、これでも雇い主だ。とりあえずはご機嫌取りでもして、今後の生活を円滑に進められるよう努力するとしようか。コイツは素直な謝辞と笑顔にはとても弱いのだ。一月にも満たない間をともに過ごしただけの間柄だが、時折見せるお嬢の本質。

「ありがとう」

「ンバッ! ババババカじゃないの! いきなり何よ!」

 顔を真っ赤に染め上げ私を見上げるお嬢は、誤魔化すように目を逸らす。猫と変わらないその小動物ぶりに思わず手を出してしまい、いつの間にかその小さな頭を撫でていた。

「ご主人様を撫でるなっ!」

 そう言いつつもされるがままで、気持ちよさそうにしている。全く素直じゃない。

「ハ、ハハン! まあいいわ! ええ、感謝しなさい! せいぜい頑張ってあたしに尽くすことね。なんたって世界を手に入れる最強のご主人様よ!」

 相変わらずこの図々しさに満ち溢れた物言いには、呆れを通り越して敬意すら覚える。

「せいぜい頑張って世界征服を目指してくれ」

 適当に応える。マトモに相手をするだけムダだ。

「いいえ、むしろ世界がそうなるように動くのよ」

 首をかしげ、更に自信満々のお嬢が口を開くのを待つ。


「世界は私のためにあるんだから! 当たり前よ!」


 どうやら、私が最初に抱いた印象は間違っていなかったようだ。

 はたしてこれから先、このお嬢様はどんなことをやらかしてくれるのだろうか。

 猫とお嬢様の頭を撫でてやりながら、未来の波乱を楽しみにしている自分に苦笑していた。



                     おしまい

 とりあえずの完結を迎えることができました。

 最後まで読んで下さって本当にありがとうございます。

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