第一節 〇〇ストーリーは突然に
ープロローグー
朝、蛇口を捻って手を洗う。
両の手を包む柔らかな水を冷たく感じないことで、俺は夏が来たことを確信した。
今日は4月28日、つい先日新たな年度がスタートした春真っ盛りなわけなのだが、暦の上では数日後に立夏なのだから、この時期既に夏を感じていても、そうおかしなことではないだろう。
おかしいおかしくないと言えば、俺がこんなところにビーチサンダル姿で佇んでいることの方がよっぽどおかしいのである。
そう、俺はいま——
中世ヨーロッパの雰囲気漂う、明らかに異世界であろう街の往来で、愉快なビーチサンダルを履き、阿呆のように立ち尽くしているのだ。
第一節 〇〇ストーリーは突然に
「あぁ、そんな異世界、行ってみてぇ」
「もう、あんたはまたそんな子供じみたことを言って。いいからさっさとご飯食べてよね。お皿洗いたいから」
「わーったよ。分かったから急かすなっての」
「もうそれ咥えて行ったら? その食パン」
「そんな器用なことできねーって、実際」
「パンを咥えて走って登校。十字路を曲がったらゴッツンコ! 『アタタタ〜』尻もちをつき額を抑える俺、『痛ったぁ〜』正面から同じようなセリフを吐く甘い声が聞こえた。なんとそこには可愛い女の子が! みたいな出会いがあるかもよ?」
「ねーよ。あんた人のこと言えねーな」
「エヴァ最終回は不朽の名作よ」
「母さん……、俺みたいな青年が言うのならまだしも、いい歳こいたおばさんがその様なことを言うのは、相当痛いと思うのだが?」
「そうかしら? オタクは永遠に不滅よ。さっ、もういいから、それを咥えてサッサと行きなさい」
「え……? えぇ?!」
とまぁ、このようなくだらないやり取りをして追い出されるようにして家を出るのが俺の日常となっているわけなのだが、このくだらないやり取りがなくなれば俺の日常には何も残らないのかと思うと、このくだらないやりとりですら愛おしくも思えてくる今日この頃である。
そんなことを考えながら、今日も俺はポリさんの目を気にしながら、学校へとひたすらチャリンコを漕ぐのだ。
「よっ、おはようベン」
「うっす、おはよう」
と、少々浸り気味になっている俺に軽く挨拶をしてきたのは同じクラスの北山だ。
ベンというのは俺のあだ名だ。
俺の妹の名前は愛姫と書いて「めごひめ」と読む。戦国武将マニアの親父が名付けたへんてこな名前である。
「愛姫」は伊達政宗の正室なのだから実に日本的で由緒正しい名前だろうと親父は言うが、今の時代、このような古い和名は逆にキラキラネームでしかないと思うのは俺だけであろうか。
俺が愛姫を呼ぶ姿を見た北山が、「めご」を「ビゴー」と聞き間違えて、イギリスのコメディアンであるViggo Venn を連想してしまったことで、めでたく俺のあだ名は「ベン」となったのだ。
地味で没個性的な俺の外見からは想像ができない欧米風ネームに最初は中々戸惑いもしたのだが、俺以外のほとんどの生徒がキラキラネームという奇妙な学級において、ごくごく普通で常識的な俺の名前は、逆に異様で非常識な名前であり、そのような完全に場違いな環境において、この欧米風ニックネームは中々便利なのかもしれないと、今は納得して使っている。
そうこう言っている間に気がつけば学校の正門を通過していた俺は、靴箱から上履きを取り出し、長い廊下の一番奥の階段を駆け上がると、あまり開きたくもないクラスの戸を開き、そそくさと自分の席に着席した。
俺の席は後方二列目の窓際で、それだけ聞けば文句なしのVIP席なのだが、俺の目の前にいる二人の存在が、そのVIP席を普通席、いいや、立ち見席に変えてしまっていることは言うまでもない。
俺の前の席右側に座る男子は、「右翼」と書いて「みぎ つばさ」と読む。名前の通り、ゴリゴリの保守的思想を持った面倒臭いやつだ。
とは言え、こいつは馬鹿みたいに頭が良い。いつも宿題を写させてもらっている手前、なかなか文句を言えないのが俺の弱みでもある。
そして俺の前の席左側に座る女子は、これまた神様のいたずらであろうか、はたまた悪魔の罠であろうか、きっと後者であろう「左寄りの子=左寄子」と書いて「ひだり よりこ」と読む。言うまでもないがゴリゴリのリベラル女だ。
艶のある紫紺の長髪を頭の両側で結えたツインテールで、少し釣り上がった二重の目に整った鼻、一見するとテンプレ美少女高校生なのだが、何かと政治色がプンプンする少しイタい奴である。
こいつらが織りなす騒がしい口論のせいで、本来は先生の視界の端であり、サボっていても寝ていても大抵気付かれることのない極上のVIP席が、常に教師から目をつけられる居眠りどころかあくび一つできない最安の立ち見席になってしまったというわけだ。
まぁ、だが相反する思想を持つ個性派生徒二人の観察は意外に面白いもので、いつしか俺はこの環境を極上の物見席と錯覚するようになっていた。
俺はこの二人の口論を今後、第三者目線で観察し、この物語の語り部となる予定だ。




