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第五章

 嵐が去った後の朝は、残酷なほどに静かだった。


 昨夜の狂乱が嘘のように、空は高く、どこまでも澄み渡っている。

 窓を開けると、洗われたばかりの街の空気が流れ込んできた。けれど、その清涼な空気さえ、今の私の肺には鋭すぎる刃物のように感じられた。


 リビングの床には、乾きかけの黒い染みが点々と残っている。

 瀬尾さんが連れてきた、雨の痕跡だ。

 

 彼はもう、ここにはいない。

 夜が明ける直前、彼はひどく静かな手つきで服を整え、「すまない」とも「さよなら」とも言わずに部屋を出て行った。

 残されたのは、わずかに乱れたソファのクッションと、部屋の隅に置き去りにされた、あの湿った建築雑誌だけだった。


 私は、冷めきったキッチンに立ち、お湯を沸かす。

 規則的に鳴るケトルの音が、私の輪郭を少しずつ、現実へと引き戻していく。

 

 スマホの画面には、真由からの着信が十数件と、短いメッセージが入っていた。

『瀬尾さんと連絡がつかないの。何か知らない?』

『雨がすごすぎて、なんだか怖くなっちゃった』

 

 彼女の言葉は、相変わらず無垢で、真っ直ぐだ。

 私はそれを指先でなぞりながら、自分がもう二度と、あの「白」の世界には戻れないことを、ひどく客観的に理解していた。


 私たちは、結ばれたわけではない。

 愛という名前をつけるには、昨夜の出来事はあまりに痛々しく、自虐的すぎた。

 私たちはただ、互いの体を使って、自分たちが守ってきた「正しさ」を徹底的に破壊しただけなのだ。


 鏡を見ると、首筋には、あの日から消えない熱の記憶が、薄い痣のように残っていた。

 スカーフを巻けば隠せる程度の、けれど一生消えることのない、私と彼の共犯の証。


 私は、震える指で真由への返信を打ち始める。

 これから始まるのは、嘘を真実として上書きしていく、果てしない翻訳の作業だ。



 瀬尾さんは、あの日を境に忽然と姿を消した。


 結婚式を二週間後に控えた、嵐の明けた月曜日。彼は職場にも、真由との新居にも、実家にも戻らなかった。警察に届けが出され、事故や事件の可能性が洗われたけれど、遺留品ひとつ見つからない。

 彼はただ、雨上がりの水たまりが蒸発するように、この世界から輪郭を消してしまったのだ。


「……ねえ、紗季。どうしてかしら」


 憔悴しきった真由は、毎日のように私の部屋を訪れた。

 彼女は私の膝に頭を乗せて泣き、私はその細い肩を抱きながら、ありふれた慰めの言葉をかけ続けた。「彼は混乱していただけよ」「きっとどこかで生きているわ」。

 私の口から滑り出す言葉は、どれも磨き上げられた石のように滑らかで、その実、中身は空洞だった。


 けれど、別れは唐突に、そして静かに訪れた。


 真由が、瀬尾さんの部屋に残されていた段ボール箱の整理を終えた日のことだ。彼女の手には、一冊の建築雑誌が握られていた。あの日、彼が私の部屋へ「忘れ物」として取りに来たはずの、あの雑誌だ。


「これ、瀬尾さんの部屋のクローゼットの奥にあったの。……変よね。あの日、彼はこれをあなたの部屋に取りに行ったはずなのに」


 私は、心臓が凍りつく音を聞いた。

 

「それにね、紗季。あのドレスの試着室でのこと、ずっと考えていたの」


 真由が、ふっと視線を落とした。その横顔には、執着にも似た静かな鋭さが宿っている。


「あなたが私の姿を見て、完璧な言葉で褒めてくれた時。……あなたは私のドレスを見ていたんじゃない。鏡に映る自分を見ていたのよね。正確には、鏡の中の自分を通して、誰か別の人の手触りを確認しているような、そんな目をしてた」


 心臓の鼓動が、耳の奥で爆音を立てる。

 私は、自分の呼吸が不自然に止まるのを感じた。


「あの時、私の肌に触れたあなたの指先が、微かに震えていたのを覚えてる。それは親友の結婚を喜ぶ震えじゃなくて、もっと生々しい、何かを奪った後の高揚と恐怖に満ちた震えだった」


 真由の視線が、ゆっくりと私の首筋へ移動した。

 スカーフで隠したその場所には、もう痣なんて残っていないはずなのに、彼女の瞳はすべてを透過して、あの夜の熱を暴き出していく。


「あの日、あなたは私を真っ直ぐに見なかった。翻訳の仕事をする時みたいに、脳内で一番正しい正解を選んで、それを声に出していただけ。……ねえ、紗季。あの雑誌を取りに来た彼は、あなたの部屋で何を忘れていったの? それとも、あなたが何かを奪ったの?」


 真由の声はどこまでも穏やかで、だからこそ、逃げ場のない刃となって私の胸を切り裂いた。

 

 私は、答えることができなかった。

 何かを言い繕おうとするたびに、脳内の語彙ごいが砂のように崩れていく。

 どれほど美しい言葉を並べても、真由の混じりけのない直感の前では、それはただの無機質な記号に過ぎなかった。

 真実を語れば、彼女を永遠に破壊してしまう。けれど、嘘を重ねるための言葉は、もう私の喉にこびりついて出てこない。


「あなたの言葉は、全部偽物だったのね」


 真由は、ただ一言そう告げて、部屋を出て行った。

 追いかけることはできなかった。

 私の足元には、彼女が置いていった建築雑誌が、修復不能な亀裂のように転がっているだけだった。



 真由が去ってから、私の世界からは何かが消えた。


 仕事の依頼はすべて断った。ディスプレイに向かっても、文字列がただの黒い虫の這い跡にしか見えなくなったからだ。他人の感情を別の言語に置き換えるという高尚な作業は、自分自身の言葉を、真実を、切り売りすることで成り立っていたのだと今さら気づく。


 瀬尾さんの消息は、依然として不明なままだった。

 彼は真由という純白の正義からも、私という泥濘の情熱からも、等しく逃げ出したのだ。それは彼が選んだ、彼なりの「罰」だったのかもしれない。


 ある雨の午後。

 私は、かつて彼と出会ったあのバーを訪れた。


 カウンターの隅に座り、あの夜と同じシャブリを注文する。

 グラスの脚を指でなぞると、冷たい感触が伝わってくる。けれど、どれだけ喉を潤しても、心臓の奥にある乾きは癒えない。


 ふと、隣に誰かが座る気配がした。

 反射的に首筋をなぞる。そこにはもう、彼の指の熱も、真由の鋭い視線も残っていない。ただ、滑らかで冷たい、何も語らない私の皮膚があるだけだ。


 私はバッグから、使い古した辞書を取り出した。

 ページをめくり、「孤独」や「裏切り」、「愛」という単語を眺める。

 かつては血の通った意味を持っていたそれらの言葉は、今や冷え切った標本のようになっていた。


 窓の外では、雨が降り続いている。

 この雨が、街の汚れを洗い流し、すべての罪を無に帰してくれることはない。

 私はこれからも、翻訳不能な空白を抱えたまま、意味を失った言葉の残骸を拾い集めて生きていく。


 ふいに、店内のスピーカーから古いシャンソンが流れ始めた。

 意味の分からない外国語の調べが、今の私には一番心地よかった。


 私は最後の一口を飲み干し、席を立つ。

 重いドアを開けると、雨の匂いが鼻腔を突いた。

 

 傘を差さずに、私は歩き出す。

 

 濡れていく肩先に、もはや誰の体温も感じない。

 ただ、降りしきる雨の音だけが、私の新しい、そして唯一の言語だった。



最後までお読みいただきありがとうございました。

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