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第四章

 サロンを出てからの数日間、私は狂ったように仕事に没頭した。

 

 言葉の海に深く潜っていれば、あの「白」の眩しさも、指先に残る「熱」の記憶も、すべて洗い流せるような気がしたからだ。

 けれど、翻訳機のように淡々と文字を追っていても、ふとした瞬間に真由の純粋な笑顔と、瀬尾さんの掠れた声が混じり合い、思考の糸を無残に引き千切る。


 部屋をどんなに清潔に整えても、内側の空洞が埋まることはない。

 一輪挿しの花を替え、リネンのシーツを張り替えても、私の肌はあの湿った夜の感覚を執拗に求めている。

 

 窓の外では、季節外れの台風がじわじわと近づいていた。

 

 気圧の変化に伴って、古傷が痛むように心がざわつく。

 テレビが映し出す進路予想図は、まるで巨大な怪物が日常を飲み込もうと口を開けているようで、私は薄暗い部屋の中でただ一人、激しくなる風の音を聞いていた。


 予感があった。

 この嵐が、中途半端に保たれた私たちの秩序を、根こそぎ奪い去ってしまうのではないかという、恐ろしくも甘い予感だ。

 

 私は、自分が壊れていくのを、どこか遠い場所から眺めているような、奇妙な静けさの中にいた。



 深夜、風の咆哮が最高潮に達した。


 窓ガラスが激しく震え、建物の隙間からひゅ、ひゅ、と喉の鳴るような音が漏れる。

 世界が暴力的にかき乱されている。

 私は照明を消したリビングで、ただ一人、暴風に身を竦ませていた。


 その時だった。

 風の音に混じって、玄関のインターホンが鳴った。


 ――こんな夜に、誰が。


 心臓が不吉なリズムを刻み始める。

 私は祈るような思いで玄関へ向かい、震える指でドアの覗き穴を覗き込んだ。


 そこにいたのは、ずぶ濡れの男だった。


 鍵を開け、ドアを細く開いた瞬間に、湿った冷気が室内の清潔な空気を一気に塗り替えた。

 

「……瀬尾さん」


 傘も差さずに来たのだろうか。

 彼は言葉を失うほどに濡れ鼠だった。

 上質なシャツは肌に張り付き、整えられていたはずの髪からは、顎のラインを伝って雫が絶え間なく床に落ちている。


 私の、完璧に整えられた玄関のたたきが、黒い水たまりで汚されていく。

 けれど、それを不快だと思う余裕さえなかった。


 彼は肩で荒い息をつきながら、見開いた私の瞳を真っ向から射抜いた。

 その瞳は、真由の前で見せる穏やかな婚約者のものでも、バーで見せる知的な友人のものでもなかった。

 

 濁流のような情念を剥き出しにした、ただの、ひとりの男の目だった。


「……もう、あいつのところには帰れない」


 掠れたその声が、嵐の音を突き抜けて私の胸に突き刺さる。

 

 彼は濡れた一歩を踏み出し、私の「聖域」へと無理やり入り込んできた。

 外の荒れ狂う嵐を、その身に纏ったままで。


 私は、震える手でドアのノブを握り直した。

 冷たい水滴が私の足元にまで広がり、お気に入りのスリッパの先を濡らしていく。


「どうして……。今夜は真由と、式の打ち合わせをしていたはずじゃ……」


 彼は答える代わりに、ひどく重い足取りで上がりかまちに足をかけた。

 その瞳の奥には、彼自身の理性さえも焼き尽くしてしまったような、昏い疲弊の色が滲んでいる。


「……あいつは、引き出しを整理していたんだ。新居に持っていくものを、楽しそうに」


 瀬尾さんの声は、雨に削られた石のようにざらついていた。


「そこで、あいつが高校生の頃から使っている古い日記帳を見つけた。……その隣に、君と真由が一緒に撮った写真が何枚も挟まっていて。あいつ、それを一枚ずつ指でなぞりながら、君がいかに大切な存在かを、僕に語り続けたんだ」


 喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。

 真由の、あの屈託のない、眩しすぎる信頼。


「君が選んでくれたドレスがどれほど誇らしかったか、紗季のような親友を持てて、自分は世界で一番幸せだって。……あいつが君を語る言葉は、どれも真っ白で、鋭利だった。それを聞き続けるうちに、自分がどれほど汚れた場所に立っているのか、突きつけられた気がしたんだ」


 瀬尾さんが一歩、私に近づく。

 彼から放たれる熱気が、冷たい雨の匂いを蒸発させて、私の肌に纏わりつく。


「あいつの隣に座って、その笑顔に応えようとするたびに、頭の中には雨の日の君のことばかりが浮かんだ。あのバーで飲んだシャブリの温度、君の手の震え、首筋の匂い……。もう、嘘がつけなかった」


 彼は狂おしげに、自分の顔を両手で覆った。


「真由を愛そうとすればするほど、君を求めてしまう自分がいる。あいつの隣にいることが、あいつに対する最大の冒涜だと気づいた。……嵐が強くなって、気づいたら、家を飛び出していたんだ。もう、戻る道なんてどこにも残っていないのに」


 それは、彼の誠実さが生み出した、最悪の告白だった。

 あまりに真面目で、あまりに自分勝手で。

 

 私は彼を責めるべきだった。

 今すぐ真由の元へ帰れと、平手打ちを食らわせるべきだった。


 けれど、私の唇は、そんな言葉を一文字も紡ぎ出せない。

 私の中にあった「親友への忠誠」という最後の堤防が、彼の絶望という濁流に飲み込まれ、音を立てて崩壊していくのが分かった。


 「……帰って、瀬尾さん。お願いだから」


 私は、自分の声が情けないほど震えているのを自覚した。

 彼の胸を押し返そうとするけれど、掌に伝わる濡れたシャツの冷たさと、その奥にある心臓の激しい鼓動に、指先が痺れて動かない。


「今ならまだ、間に合うわ。嵐のせいで混乱しただけだって、そう言って真由のところへ戻って。あなたはあの子を、幸せにしなくちゃいけない人なのよ」


 必死に絞り出した言葉は、皮肉にも翻訳の仕事で扱う「正しい」だけの文章のように、虚空に滑り落ちていった。

 私は真由を守りたいのか。それとも、これ以上自分を汚したくないだけなのか。

 

 瀬尾さんが私の手首を掴んだ。

 その指の強さは、逃げることを許さないほどに強引で、痛みさえ伴っていた。


「間に合うはずがないだろう。僕たちは、最初から間違えていたんだ」


「違う、間違えてなんていなかった。私たちは、ただの雨の日の友人だったはずよ。そう決めたじゃない……!」


 叫ぶように告げると、視界が涙で滲んだ。

 私は彼を拒絶することで、辛うじて自分の形を保とうとしていた。

 彼を受け入れてしまえば、私が愛した知的な孤独も、清潔な日常も、親友としての誇りも、すべてが泥濘に沈んで消えてしまう。


 けれど、私の身体は、私の心に鮮やかに反旗を翻した。


 彼に掴まれた箇所から、熱が、毒のように全身へ回っていく。

 首筋を、あの夜の感触が、狂おしいほどの記憶となって駆け抜けた。

 

 瀬尾さんの顔が近づく。

 雨に濡れた彼の睫毛が、私の頬に触れる。

 その瞬間、私は、自分がどれほど彼に触れられることを渇望していたかを、残酷なまでに思い知らされた。


「……だめ。だめなのよ、瀬尾さん」


 拒絶の言葉は、もう声にならなかった。

 吐息とともに零れ落ちたそれは、降伏の合図に等しかった。


 私は、彼の手首を握り返していた。

 爪が彼の肌に食い込む。

 それは、親友を裏切る痛みであり、同時に、私が生まれて初めて手にした、生々しい「命」の感触だった。


 外では、嵐が窓を叩き続けている。

 私たちの罪を祝福するように、あるいは、すべてを破壊し尽くすために。



 私たちは、溺れる者が互いの体にしがみつくような、無様な格好でリビングのソファへと崩れ落ちた。


 重なり合った瞬間、唇から漏れたのは吐息ではなく、悲鳴に近い掠れた音だった。

 

 彼の唇は冷たく、けれど口内の熱は恐ろしいほどに高い。

 交わされる接吻は、甘やかな愛の営みなどでは到底なかった。

 それは、互いの存在を使って、自分自身を深く傷つけ、破滅させるための自傷行為に似ていた。


 瀬尾さんの手が、私の背中を強く抱きしめる。

 骨が軋むようなその痛みさえ、今は救いだった。

 痛ければ痛いほど、自分が真由の親友ではなく、ただの罪深い一人の女としてここに存在していることを実感できるからだ。


 私が守ってきた清潔な日常。

 リネンのシーツも、お気に入りの一輪挿しも、知的な翻訳家の矜持も。

 彼が濡れた体で私の肌をなぞるたびに、それらすべてが砂の城のように脆く崩れ、濁流に流されていく。


 視界の端で、窓の外を狂ったように走る雷光が見えた。

 一瞬だけ白く照らし出された瀬尾さんの顔は、ひどく泣き出しそうな、苦痛に満ちた表情をしていた。

 

 彼も、壊れているのだ。

 誠実であろうとした報いに、自分を一番無惨に破壊できるこの場所を選んで、私を求めている。


「……紗季、すまない」


 耳元で繰り返されるその言葉は、謝罪ではなく、逃れられない呪縛として私の鼓膜に焼き付く。

 

 私は彼の首筋に顔を埋め、その肌の匂いを深く吸い込んだ。

 雨と、体温と、絶望の匂い。

 

 私たちは、もう二度と元には戻れない。

 明日になれば、真由を失い、居場所を失い、世界から指を刺される未来が待っているだろう。

 けれど、嵐が窓を叩きつけるこの暗闇の中だけは、私たちは互いの痛みを分け合うことで、かろうじて呼吸を繋いでいた。


 心臓の鼓動が、激しく重なり合う。

 それは祝福の鐘の音ではなく、私たちの日常が完全に息絶えたことを告げる、弔鐘のようだった。




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