第八章 狙われた首、引き裂かれる陣
山頂からの偵察行を終えてアジトへと戻った二人に、猶予の時間はほとんど残されていなかった。 カシラたちの動向を察知したか、あるいは前哨戦の敗北による組織の威信にかけてか、敵対組織「黒狼団」の本隊が総力を挙げてカシラの縄張りを完全に壊滅させるための「大規模攻勢」を仕掛けてきたのだ。
その日の夜半。 静寂を切り裂くように、アジトの周囲を取り囲む山林のあちこちから一斉に狼煙が上がり、凄まじい地鳴りのような進軍の足音が響き渡った。 黒狼団の本隊――その数は優に百を超える精鋭たちだった。前回の奇襲とは比べ物にならない圧倒的な物量と殺気が、石造りのアジトを文字通り四方から押し潰そうと殺到してくる。
「総員、迎撃の準備をしろ――ッ! 一匹たりとも生かして通すな!」
アジトの中央広場で、カシラが巨大な漆黒の長斧を高々と掲げながら野太い怒号を飛ばす。 その圧倒的な威圧感に呼応するように、盗賊団の男たちも武器を握りしめて戦闘態勢に入る。だが、押し寄せる黒狼団の戦力差は歴然だった。夜闇に紛れて放たれる無数の毒矢が雨のように降り注ぎ、前衛の部下たちが次々と地面に倒れ伏していく。戦闘は、一瞬にして泥沼の混戦へと突入した。「殺せええっ! 頭領の首を獲った者には、次の裏社会の支配権を与えるぞ!」黒狼団の副官格である巨漢の戦士が、血走った目を剥き出しにしながら突撃の指揮を執る。 その激戦の只中で、シルカの姿は風のように疾走していた。カシラから授かった漆黒の小剣を両手に携え、敵の陣形を死角から切り崩していく。 だが、今回の敵は一筋縄ではいなかった。黒狼団の本隊には、通常の荒くれ者だけでなく、人間の心理の隙を突く罠や、遠隔から致命的な一撃を狙う闇の術士たちが巧妙に組み込まれていた。
(……動きがおかしい。正面の敵が、わざと後退している……?)
戦闘の最中、シルカの冷徹な戦闘勘が不気味な違和感を捉えていた。 黒狼団の先鋭たちが、まるで大きな網に獲物を誘い込むかのように、カシラのいる中央の広場から彼をあえて引き離すような陣形移動を繰り返していたのだ。 罠――それも、盗賊頭領であるカシラ一人を完全に孤立させるための、周到に仕組まれた殺害計画。
「カシラ――っ!」
シルカが危険を察知し、血塗れの戦場を蹴って叫び声を上げた瞬間だった。 ドォンッ! と、カシラの足元の地面が突然爆発を起こした。爆風と舞い散る土砂が周囲の視界を完全に遮る。 その混乱に乗じて、黒狼団の精鋭の中から選び抜かれた数名の暗殺者たちが、気配を完全に殺した状態で一斉に影から飛び出した。彼らが狙っていたのは雑魚の首ではない。唯一人、敵陣の中心で暴れていたカシラその人の首だった。
「もらった、盗賊の頭領……!」
爆煙のなかに飛び込んだ暗殺者のリーダーが、毒を塗った巨大な斬馬刀を渾身の力で振り下ろす。 足場を奪われ、視界を塞がれた絶妙のタイミング。長年の実戦勘でそれを躱そうとしたカシラの巨体が、わずかに石畳の罠に足を取られてバランスを崩した。 ――その一瞬の隙。ゴアッ、と鈍い肉の裂ける音が響いた。 背後から回り込んだ別の暗殺者の投げた重い鉄の鎖がカシラの巨体を絡め取り、その自由な腕の動きを完全に封じ込める。さらに、正面から突進してきた敵の刃が、カシラの強靭な肩口を深く抉り、鮮血が夜の空中に激しく飛び散った。
「カシラ……ッ!」
周囲にいた部下たちが助けに入ろうとするが、黒狼団の厚い壁に阻まれて誰も近づけない。 絶体絶命の窮地。 カシラを討ち取らんと言わんばかりに、敵の首魁の冷酷な刃が、宙に浮いたカシラの無防備な頸椎めがけて容赦なく振り下ろされた。――間に合わない。 誰もがそう絶望し、血の気が引いたその瞬間だった。空間を引き裂くような、獣の絶叫に似た少女の咆哮が戦場の空気を切り裂いた。
「――ふざけるな……っ!!」
視界を埋め尽くすほどの硝煙と血煙のなかを、一筋の銀色の閃光が文字通り「旋風」となって割り込んだ。 シルカだった。彼女は敵の包囲網を無視し、己の肉体の限界を超える跳躍で空中を飛んでいた。その手には、カシラから貰った漆黒の小剣が、まるで死神の鎌のように冷たく禍々しい光を放っている。敵の刃がカシラの首筋に触れる、ほんの数ミリ手前。 空中で身を捻ったシルカの全身の力が、その一撃へと凝縮された。
「その首は……私以外の誰にも渡さない……っ!」
狂気の相貌を浮かべた赤い瞳が、目の前の暗殺者を射抜く。 ガキィイイイインッ!! と、耳を劈くような凄まじい金属音が戦場に響き渡った。 シルカの振るった漆黒の小剣が、カシラの首を狙っていた敵の刃を文字通り叩き折り、その勢いのまま、敵の腕の付け根を鮮やかに、そして残酷なまでに深く両断した。
「ぐあぁああっ……俺の腕が……!?」
鮮血の噴水とともに、武器を握ったままの敵の腕が宙を舞う。 突然の乱入と、あまりにも常軌を逸した少女の殺気に、周囲の黒狼団の男たちは反射的に後じさった。血まみれの石畳の上に降り立ったシルカは、負傷したカシラの前に一歩も引かぬ姿勢で立ちふさがった。その小さな背中は、敵の大軍勢に向かって剥き出しの牙を向け、震えるどころか、むしろ歓喜に満ちた狂気的な闘志をたぎらせていた。
「……シルカ」
背後から聞こえた、低く地を這うようなカシラの声。 傷を負いながらも、その瞳には失われていない圧倒的な野生の光が蘇っていた。
「……下がりろ、カシラ」
シルカは振り返りもせず、漆黒の小剣から滴る血をそのままに、冷徹に言い放った。 その顔は返り血と泥にまみれていたが、恐怖の色など一片もなく、ただ目の前の敵をすべて根絶やしにするための死神の美しさをまとっていた。
「この雑魚どもの首は、私がすべて狩り尽くす。……だから、指一本でも触れる奴は、私が全員ここで殺す」
殺意と、血にまみれた忠誠。 引き裂かれかけた陣の中心で、二人の狂気的な絆が極限の熱量を帯びて再び噛み合った瞬間だった。




