第七章 残された過去と重なる瞳
夜明け前の蒼い静寂が、血と鉄の匂いが残るアジトを静かに包み込んでいた。 東の空がわずかに白み始める頃、重厚な馬の足音が岩道を揺らし、カシラ率いる本隊がアジトへと帰還した。 門をくぐったカシラたちが目にしたのは、無惨に壊壊された正面門と、そこに積み上げられた敵対勢力「黒狼団」の残兵たちの夥しい死体の山だった。「……な、なんだこれは……」 「アジトが襲撃されたのか!? だが……この死体の山は一体……」幹部たちが息を呑み、動揺を隠せない中、カシラだけは静かに馬を降り、血の海の中心へと歩みを進めた。 死体の山の頂点。そこに、返り血で銀髪を赤黒く染めた少女が、膝の上に砕けかけた短剣を置き、静かに腰掛けていた。 かつて路地裏のゴミ箱をあさり、風が吹けば倒れそうだった浮浪児の面影は、もはやそこにはない。栄養を蓄え、過酷な鍛錬を重ね、さらには数十の死線を潜り抜けたシルカの身体は、小さくも「凄絶な戦う者」としての確かな輪郭を整え始めていた。カシラはシルカの足元まで歩み寄り、巨躯をかがめることなく見下ろした。 シルカもまた、疲弊しきった赤い瞳をゆっくりと持ち上げ、主の顔を見つめ返す。「カシラ。……留守中、鼠が入ってきた。……掃除した」 「……そうか」カシラは短く答えると、足元に転がっている黒狼団の幹部格の生首を皮足袋でコツンと突いた。自分の不在を狙った手厳しく完璧な奇襲。それを、この痩せた少女がたった一人で返り討ちにし、アジトの壊滅を食い止めたという事実。 カシラの巨大な口元が、静かに、しかし深く吊り上がった。「立派に牙を磨いたな、シルカ。……だが、そんななまくらでは、いずれお前の腕ごと折れる」カシラは腰の鞘から、一振りの小剣を引き抜くと、それをシルカの膝元へと無造作に放り投げた。 カチリ、と硬い金属音が響く。 それは、名のある鍛冶師が漆黒の鋼を鍛え上げて作った、一級の暗殺用小剣だった。刃紋は冷たく研ぎ澄まされ、手元には滑り止めの魔獣の革が丁寧に巻き付けられている。「……これ」 「黒狼団の幹部から奪った業物だ。お前のような虫ケラには分不相応だが……俺の首を狙うなら、それくらいの刃を持て」シルカはその小剣をそっと手に取り、柄を握りしめた。手に吸い付くような重みと、吸い込まれそうな漆黒の刃。 シルカはそれを愛おしむように胸に抱くと、カシラを見上げて小さく頷いた。「……ありがとう。この刃で、あんたの首を斬る」 「はっ、抜かせ」翌日、アジトの復旧が急速に進められる中、カシラはシルカ一人だけを伴い、アジトを後にした。 目的は、アジトを急襲した「黒狼団」の残存拠点および本隊の極秘視察。広大な敵陣の配置を直に確かめ、次なる大攻勢の芽を事前に摘むための秘密裏の偵察行だった。二人は馬を一頭だけ連れ、人の踏み込まない険しい山道を静かに進んでいた。 二一五センチメートルの圧倒的な巨体を持つ男と、その影に隠れるように歩く小さな少女。あまりにも対極的な二人の道行には、他人が踏み込むことのできない密やかな静寂が流れていた。「……カシラ」山頂に近い崖の淵で小休止を取った際、シルカがふと口を開いた。 眼前には、遠く雲海に沈む貧困街と、そのさらに向こうに広がる巨大な王都のシルエットが広がっていた。「あんたは、昔からそんなに強かったの?」めったに他人に過去を尋ねないシルカの素朴な問い。 カシラは崖の岩場に腰掛け、干し肉を噛みちぎりながら、遠くの空を冷めた目で見つめた。
「……最初から強い奴などいない。俺も昔は、お前と同じドブネズミだった」
カシラの地鳴りのような低い声が、谷風に流れていく。
「名前も、親も、家もねぇ。食うものがなければ泥を舐め、生き残るために隣のガキの喉を叩き切るような場所で育った。……世の中の奴らは、俺たちのような存在を『人間』とは呼ばねぇ。ただの風景か、邪魔な害虫だ」
カシラは巨大な手をかざし、目の前の景色を握りつぶすように拳を握りしめた。
「だから俺は、圧倒的な力を手に入れた。誰も俺を無視できないように。俺の存在を、この世界に力づくで刻み込むためにな。……盗賊の頭領になろうが、王になろうが関係ない。俺は俺の理でしか生きん」
淡々と語られるカシラの原点。 シルカはその横顔を、じっと見つめていた。胸の奥が、小さく熱くなるのを感じていた。 自分と同じだったのだ。戸籍もなく、存在を無視され、社会のシステムから完全に切り捨てられた「存在しない人間」。絶望の底で冷たい泥を舐めながら、ただ存在価値を求めて生きてきた者。
(……だから、この人は私を『ガキ』ではなく、『シルカ』と呼んでくれた)
貧困街の人々はシルカを「ドブネズミ」と呼び、街の兵士たちは「害虫」として追い払った。誰一人として、彼女を一人の人間として正視した者などいなかった。 だが、このカシラという男だけは違った。 自分を本気で殺しにきた狂気を受け止め、名前を与え、飯を喰わせ、一級の武器を預け、自らの命を狙う対等な存在――「ひとりの人間」として、初めて正面から直視してくれたのだ。「……カシラ」 「なんだ」 「あんたの首を刈るのは、私だ。絶対に、他の誰にも渡さない」シルカはカシラから貰った漆黒の小剣を硬く握りしめ、強い眼差しで告げた。 それは単なる殺意の表明ではなかった。カシラという存在への、狂おしいほどの感謝と、世界で唯一の理解者に対する絶対的な執着の誓いだった。カシラは一瞬、呆れたように目を細めたが、やがて野獣のような低い笑いを漏らした。
「……ふん。口だけは一人前になったな。なら、せいぜい死に損なうなよ、シルカ」
夕闇が二人の影を長く引き伸ばしていく。 殺意と絶望で固く結ばれた二人の瞳は、重なる過去の傷痕を抱えたまま、次なる死線が待つ敵陣の暗雲へと向けられていた。




