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モブは主役になれますか? ⑤

「森部、悪いけどこのデータを探してほしい」

「わかりました」

 データの種類がいくつか走り書きされたメモを受け取って内容を確認する。それほど時間がかからずに集められそうだ。

 潤理は仕事中には「椎」から「森部」に戻り、これが大人の切り替えか、と感心した。引き締まった表情はぴりっとした緊張感があって、しっかり仕事モードだ。ミディアムグレーのスーツ姿をちらりと盗み見る。

 それに対して自分は、潤理にどう接したらいいのかわからない。一応彼は椎の恋人なのだから、社内恋愛ということになる。まるで主役のような秘密のどきどき感に激しく戸惑う。世の中の社内恋愛経験者はこんなにそわそわした気分をいつもいだいているのかと思うと、それなのに顔に出さないことを心の底から尊敬する。

 それほどに慣れない感覚に惑わされている。まさか恋愛指導という名のもとでも、恋人がいる自分なんて想像もできない。

 でも今、恋人がいる。

 考えただけで頬が熱くなった。ついでに一昨日の手を握った感覚まで思い出してしまい、デスクに額をぶつけた。

「なにやってるんだ」

「……すみません」

 本当に「すみません」だ。潤理のことばかり考えている。

「パソコンには頭突きするなよ」

「パソコンの心配ですか」

「当然だろ」

 普段の仕事中と同じ彼の様子はやはり大人の切り替えがされていて、土曜日にあれほど甘やかしてくれたのが嘘のようだ。

 ぼんやりしていたら、デスクにころんとひと口チョコレートがふたつ置かれた。いつものチョコだ。

「好きだろ」

「はい……。ありがとうございます」

 ふと、どうして椎の好きな食べものがチョコレートだとこの人が知っているのか不思議に思う。潤理はちら、と椎を見ただけで自分のデスクに戻ってしまったので聞けなかった。

 個包装をひとつ破ってチョコを口に入れ、パソコンに向き直る。口に広がる甘さに、また土曜日のことを思い出した。

 一昨日、一時間ぴったり手をつないだあとに、のんびりと公園を散歩した。通りすぎる風が気持ちよくて、隣には甘い微笑みを向けてくれる恋人――脳みそが溶けるかと思った。彼の微笑みはチョコレートより甘かった。

 渡されたメモにある在庫データを抽出していると視線を感じた。顔をあげたら潤理が椎を見ていて、目があうと彼は少しだけ口もとを綻ばせた。うわ、と慌てて顔を伏せるが激しい心拍がおさまらない。主役は大変だ、と胸もとを押さえて深呼吸をする。

「一星主任は苦手だったはずなのに」

「苦手で悪かったな」

「え……」

 ひとり言に答えがあって驚く。顔をあげるとまわりのデスクはすでに無人で、ひとり残っている潤理がまた椎を見ている。

「あ、もうお昼なんですね」

 気がつかなかった。パソコンをシャットダウンすると潤理が立ちあがった。

「ランチ行くぞ」

「えっ……え?」

 当然のようにビルの向かいにある定食屋に連れていかれた。

 ざわつく店内はランチタイムなので混んでいる。スーツ姿の男性や女性が次々と席に案内されて行くのをぼんやり見ていたら、潤理と椎も同じようにふたり掛けのテーブル席へ通された。

「森部は社内恋愛に向かないな。顔にも口にも出てる」

「すみません……」

 恥ずかしくて縮こまる。なにごともないようにできる潤理がおかしいと思っていたが、全部丸見えの椎のほうがおかしいらしい。社内恋愛どころか、恋人がいること自体はじめてで、常識やルールがわからない。

 惣菜を食べながら思わずため息が出た。こんな調子で本当に主役になれるのだろうか。潤理は椎の様子などたいして気にしていないような瞳をしている。またあの感情が読めない瞳だ。

「まあ、いいんだけど」

「いいんですか? 関係がばれたら主任にも迷惑がかかりますよね?」

「そんなことは気にしなくていい。責任持って、森部が主役の恋ができるようにしてやる」

 嬉しい言葉をくれる潤理を見たら、苦手なんて言って悪かったと思う。こんなにも椎のことを考えてくれているのだから、いくら感謝しても足りない。

「ありがとうございます」

 でも潤理の期待するような主役になれる自信があるかと聞かれたら、「はい」とは答えられない。基本がモブなのだから、どうやってもそこから抜け出すのが難しい。それでも彼が味方だと心強く、頑張ろうという気持ちになれる。

「え、待ってください。どうして俺の分まで」

「いいだろ。俺の特権だ」

「部下のランチ代を支払うことのどこが特権ですか。むしろ罰ゲームでしょう」

 当然のように椎の分まで支払った潤理は、どこか満足そうだ。椎は財布から小銭一枚も出させてもらえなかった。

「なにかお礼を」

「じゃあ、またデートしよう?」

「……デート……」

 あれはデートだったのか、と聞き慣れない単語に拍動が速まった。「そうだ」と言うように潤理から綺麗な微笑みを向けられ、頬がぽうっとなる。笑顔の威力がすごい。

「あ、ありがとうございます」

 頑張って潤理の期待に応えられるような主役になろう。少し顔をあげてみると、柔らかな陽射しがビル群を照らしていた。

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