モブは主役になれますか? ⑥
週のはじめである今日も一日が無事に終わった。まっすぐ帰ろう、と会社のビルを出たらなぜか出入り口の脇に潤理がいる。
「行くぞ」
「え?」
「待ってたんだ。食事に行こう」
椎の背後に立ち、「さあ歩け」と急かすように威圧してくるので逆らえるはずがない。そのとおりに歩き出すと潤理が隣に並んだ。
「少しでも早く椎に自覚を持ってもらわないといけないからな」
とん、と背中を叩かれ、気持ちが引き締まる、が。
「なんの自覚ですか?」
それがわからない。社会人としての自覚は、これでも一応持っているつもりだ。
「俺の恋人だって自覚」
潤理の口から出たのは椎が想像してみることもできないような、とんでもない自覚だった。それはたしかに持てていないが、練習なのにそこまで張りきっていいものか。そうは思うのに頬が熱くなり、潤理の目が見られない。自分がこんなに素敵な男性の恋人なんて、まだ信じられない。
「うまい店があるから行こう」
手を引かれそうになって慌てて逃げる。誰も気にしないかもしれないが、それでもこんなところで手をつなぐなんて心臓が止まる。その反応を見て苦笑した潤理は、すぐに諦めた様子で隣を歩いてくれた。
火照る頬を涼しい風が冷やす。けれど、潤理の出方次第で椎など簡単に燃え尽きるまで顔から火をあげそうになる。恋愛初心者を相手にしているという自覚を、ぜひ潤理には持ってもらいたい。
帰宅する途中だろうスーツ姿の会社員たちと歩調をあわせながら交差点を渡った。少し歩いて路地を入り、こんなところに食べるお店なんてあるのだろうかとついていく。今日は潤理が椎の歩幅にあわせてくれるので、ゆっくり歩いてもきちんと彼と並んでいた。それもなんだか申し訳なくて早足にすると、潤理に肩を掴まれた。
「ゆっくり歩こう」
「でも主任は足が長いから歩きにくいでしょう?」
ここは自分があわせないと、と思うのに相手は首を横に振る。
「『主任』じゃないだろ。こういう時間を楽しむことも大事なんだよ」
「そういうものですか」
新たな知識を得てひとつ利口になったので、言われたとおりにゆっくり歩く。根っこから主役に向いていない自分を痛感するたびに椎は落ち込む。
「ここですか?」
「そう。うまいよ」
こぢんまりとしたパスタ屋について潤理を見あげると、相変わらず背が高い。身長を分けてほしいとねだってしまいそうだ。そんなもの欲しそうな視線だとは気がついていない彼が穏やかな笑みを浮かべ、椎は自分の思考が恥ずかしくなった。
潤理が店のドアを開けてくれたらにんにくを炒める香ばしいにおいがして、椎のお腹が鳴る。
「本当にいいタイミングで鳴るな」
「そんなことに感心しないでください」
恥ずかしすぎて埋まってしまいたい。頬が熱い椎を潤理が先に促すので、店に入った。
店内は可愛らしい雰囲気で、グリーンのチェック柄のカフェカーテンが窓にかかっている。木のテーブルと椅子が温かみを感じさせて居心地がよさそうだ。全部で十五ほどの客席は半分ほど埋まっている。
「なににする?」
「ペスカトーレがおいしそうですが、あさりの大葉バターも気になります」
メニューで悩むことは椎にはよくある。特に今はお腹が空いていて、あれもこれもおいしそうに見えるから余計に決まらない。
「じゃあ、そのふたつ頼んでシェアしよう。あとサラダな」
「えっ。シェアなんて、モブにはハードル高すぎます」
潤理の眼光が鋭くなり、まずい、と口を噤んだが遅かった。
「モブって言ったな?」
「……言いました」
「罰ゲーム。『あーん』しろ」
「は⁉」
それはハードルが高いどころか、天にも続く壁ほどにレベルが違う。それに潤理の相手が椎なんて、おこがましすぎる。
「で、できませ――」
「おい。主役」
魔法のように唱えられて姿勢を正す。
「椎はモブじゃないんだ。やれ」
「は、はい」
すごまれて身体がすくんだ。つい縮こまってしまうのも主役らしくないけれど仕方がない。椎は本質からモブなのだ。
どきどきと心音が鼓膜を叩くのを聞きながら料理を待つ。少しして注文したものが運ばれてきて、ついに、と唾を飲む。
「ど、どれを……その、したらいいですか?」
「あーん?」
「そういう恥ずかしい言葉をさらっと言わないでください……!」
耳に響くだけでくらくらするほど恥ずかしい。そんな椎を見た潤理は呆れたような顔をするが、呆れられてもどうしようもない。これが椎だ。
「初心者だからな。これ」
潤理がサラダのプチトマトを指さす。震える手でフォークを握ったけれど、落としそうになった。笑われるかと思ったのに優しく見つめられていて、逆にいたたまれない。恐る恐るプチトマトをフォークで刺す。
「あ、あの、口を……」
「『あーん』って言ってみろ」
「ひっ」
怯えた椎の反応に潤理の眉が寄り、それも怖い。でも他にどんな反応をしろと言うのか。
主役は普段こういうときにはどうするのだろう。モブにはわからない――わかるわけがない。性質が違うのだ。
「『ひっ』てなんだよ」
「だって俺は……」
「主役だよな?」
言い聞かせるような声に「はい」とびくびくしながら頷く。頬だけでなく首も耳も額も熱いし、指先は緊張しすぎて震えている。店内を見まわしてみるが、みんな他人のことなど気にしていないから、それを理由に逃げることはできなかった。
「あ、あーん」
消えてしまいたいくらい恥ずかしい。椎の反応を楽しむように、潤理はゆっくりとプチトマトを口に含んだ。早まわししたいと本気で思った。
「うん。うまい」
「そ、それはなによりです」
終わった、と力が抜けた。もう食事どころではない。水を飲んで気持ちを落ちつける椎の口もとに、フォークに綺麗に巻かれたパスタが差し出される。思わず潤理を凝視すると、穏やかな微笑みが向けられた。
「俺も。あーん」
「っ……⁉」
お返しは考えていなかった。口を開けと言うのか。本気か、正気か。
「早く」
「くっ」
仕方がない。勇気を出して口を開くと、パスタが優しく口内に運ばれた。味なんてわかるはずがなく、必死で咀嚼する。
「椎は面白いな」
「え?」
「赤くなって青くなって赤くなった」
「そういうところは見ないでください……」
全身全霊で戦い抜いて疲れきった。ぐったりする椎に、潤理が取り皿に分けたパスタを差し出してくれた。受け取ったものを食べたらようやく味がして、おいしくてほっとした。




