モブは主役になれますか? ④
「椎」
はっとして顔をあげると、見える景色が止まっていて、あれ、と思う。
椎の自宅から車で二十分ほどのところにあった、こぢんまりとした和食屋で食事をした。「少しのんびりしようか」と車を走らせてくれた潤理は郊外にある大きな森林公園に向かった。おいしい昼食の満腹感が眠気を呼び寄せ、うとうとしてきたところまでは覚えている。うとうとしたということは、そのまま眠ってしまったのか。
車は広い駐車場に停まり、周囲は眠る前と違い緑が多い。まさに森林公園だ。
潤理が椎の顔を覗き込んでいるので頭を引いたら、ヘッドレストに後頭部をぶつけた。
「なにやってるんだ。眠いのか?」
「……少しだけ」
寝顔だったり間抜けなことをしたり、恥ずかしいところばかり見られている。けれど潤理はそんなことを気にした様子ではない。興味がないのかもしれない。
「じゃあ、このままのんびりするか」
軽く伸びをしながら潤理が椎を見て微笑む。ただ笑っているだけなのに絶景すぎないか――助手席は魔の場所だ。潤理が普段以上に恰好よく見える。
「あのさ」
「なんですか?」
潤理が少し迷うような瞳を見せた。急にどうしたのだろう、と首をかしげる。そんな椎の反応をじっと見たあと、彼はもう一度口を開いた。
「椎はゲイのコミュニティとか参加するのか?」
「はい?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わず、少し声がうわずった。どうしてそのような話題が急に出たのかわからない。手のひらにじわりと汗をかいた。
「あれ、違った?」
「いえ。……違いませんが」
どういう反応が返ってくるか想像もできないが、ここは正直になったほうがよさそうな気がした。もしかしたら昨日の会話などからばれたのかもしれない。
「ど、どうして俺がゲイだって……」
「仲間はわかる」
「え?」
仲間とはなんだ。首を傾けると、潤理は困ったような顔で微笑んだ。その表情もまた綺麗だった。
「仲間って言ってるんだから気づけよ」
「えっと……?」
それはまさか。
「俺もゲイだ」
椎は動きが一瞬止まって、呼吸も止まったように感じた。潤理がゲイなんて、そんなことがあるのか。でも嘘をついているような目をしていない。澄んだ瞳は真剣に椎を見ている。
そういうことか、と力が抜けた。脱力したら先ほどまでの緊張がおかしくなった。
「どうした?」
急に口もとを緩めたことを不思議そうにされ、「いえ」と頭を軽く振る。
「主任、女性にもてるのに」
「だから『主任』はやめろ。もてたって女に興味がないんだ」
ひとつ息をついた潤理は、すっきりしたような表情を浮かべた。隠していることが重荷だったのかもしれない。その気持ちは椎にもわかる。言ってしまえたら楽なのに、と思うことがある。家族は椎がゲイだと知っているが、それ以外の人には隠している。そんな状態がときどき息苦しい。でも偏見を向けられたら、耐えられる強さはない。
「あ。なるほど」
椎の好みのタイプを聞いたり、なんとなく距離が近かったり、事実を知るとそういうことなのかと彼の言動に合点がいった。椎の納得に潤理は眉を寄せる。
「それはなにに対しての納得だ?」
「とりあえず手もとのモブでよかった理由がわかったな、と」
そう考えると恋愛指導を引き受けてくれたことも、あまり深い意味はないのかもしれない。考えすぎて逆に難しくなっていたようだ。
潤理は「あのな」と表情に怒りを滲ませる。
「次に自分のことモブって言ったら罰ゲーム受けてもらうからな」
「え……」
それは嫌すぎるけれど、言わない自信がないほどに椎はモブなのだ。
「自分は主役だと言ってみろ」
「言えません」
「罰ゲーム」
「モブだと言ってないですよ!」
罰ゲームという響きは怖くてよろしくない。逃れるために言い募ると、潤理は意地悪に微笑む。
「気持ちがモブだった」
それはずるい。気持ちの面を言うなら、椎は一生罰ゲームだ。主役にしてくれるということも、まだ半信半疑なのだから。
潤理が椎に手を差し出すので、その手のひらを見て潤理の顔を見る。なんだろう。
「罰ゲーム。俺の手握ってみろ」
「はい⁉」
「それくらいできるだろ」
手をひらひらと揺らされ、頬がどんどん熱くなっていく。揺れる手は爪の形まで整っていて、恰好いい以外に言いようがない。
「ほら」
さらに手を伸ばされ、目の前で振られる。勇気を出して握ってみると、雷に打たれたような衝撃を受けた。
「こ、これは……」
「なに?」
「……非常に恥ずかしいですね」
顔が猛烈に熱くて火照りが止まらない。握った手は温かく、見るよりもずっとしっかりしていて大きい。
「主役はみんなこんなことをするんですか? 心臓が持たないです」
溺れかけのようにあっぷあっぷしそうになるほど、呼吸がままならない。こんなのは恥ずかしさの極みだ。街中で平然と手をつないでいる主役たちを尊敬する。
「椎だって今主役だろ?」
「やっぱり俺は――」
「諦めるな」
手を握り返され、驚きで肩が上下した。握っている手が動いたことが衝撃的で、本当に自分以外の人の手なのだとわかる。そんな当たり前なことさえ再認識しないと理解できないくらいに混乱していた。
頬がどんどん熱くなってきて倒れそうだ。火照る頬を空いた手で扇ぐと、潤理が笑った。椎がこんなにも精根尽き果てているのに、彼はなんでもないことのように余裕さを見せる。事実、手をつなぐ程度は彼にはなんでもないことなのだろう。
「純粋すぎて心配になる」
「これでも潤理さんの意地悪のおかげで、すれた気持ちになります」
「それはそれは」
また笑われて、椎はそのことさえ恥ずかしくなる。ほんの少しまぜた嫌味さえさらりと躱され、子どもっぽかったかと自分の発言を反省した。
「もう離していいですか?」
限界だ、と白旗をあげると、顔を覗き込まれた。距離が近くて頭を引いたら、先ほどと同じようにヘッドレストにぶつけた。
「離したいのか?」
また頬が熱くなり、椎が思わず目を逸らすと「減点」と言われた。
「そこは見つめ返せ」
無理難題を口にするのは、潤理には難しいことではないからだろう。それは彼が主役だからであって、モブには見つめあうという行為がどれだけ大変かわかっていない。なにしろ経験がないのだから、できる気がしない。
「そんなこと……だって」
「だって?」
「潤理さん、顔だけはいいから」
真実を言ったのに、潤理の綺麗な顔が歪んで眉が寄った。発言を間違えたことは、鈍い椎にもすぐにわかった。
「顔だけかよ」
「自覚ないんですか?」
手をきつく握られ、心臓が大きく跳ねる。どうして力を込めるのか、と聞こうとしたが、手の甲を指の腹で撫でられて頬に激しく熱が集まってしまい、言葉にならなかった。
「傷ついた。罰として一時間手をつなげ」
「えっ」
「主役になるにはこれくらいやらないと」
もう自分に主役など無理なのではないかと降参したいが、隣の男は諦めていないようだ。それならば期待に応えないといけない。自分に気合いを入れる。
「が、頑張ります……が」
「が?」
「心臓がおかしくなりそうです」
激しく脈打つ心臓は今にも壊れそうで、こんな心拍を感じたことは今までにないほどにあきらかに異常だ。主役の人たちは心臓がおかしくならないのだろうか。
「そういうとこ」
「え?」
「……」
「なんですか?」
潤理が窓の外に視線を移し、その頬がわずかに赤い。
「潤理さん?」
「なんでもない」
「……?」
なんでもなさそうには思えなかったが、本人がそう言うので気にしないことにした。
手をつないだままだと時間が経つのが遅い。一秒がとても長くて、いつまで経っても一時間にならなそうだ。
「そういえば、この恋愛指導はいつまでですか?」
「期限はない」
「それだとずっと潤理さんのお世話になり続けてしまいます。期限をつけてください」
一か月とか二か月とか、一週間でも、彼が定めてくれた期間できちんと主役になれるように頑張ろう。根底からモブの自分には、いっときでも主役を味わえるだけでとても貴重な体験だ。
「じゃあ……そうだな。椎が俺を好きになったら終わりだ」
悩むように唇を引き結んでいた潤理が口を開く。言葉にしながら、まだ迷っているようにも見える。そんなにも真剣に考えてくれているなんて、本当に頭があがらない。
「わかりました。迷惑をかけすぎないためにも、早く潤理さんを好きになります」
椎が宣言すると、なにを考えているのかわからない黒い瞳が細められた。その瞳がわずかに揺れているように感じたのは、椎の気のせいだろう。