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モブは主役になれますか? ②

「森部さん、お疲れさまです。お先に失礼します」

「お疲れさまです」

 男性社員に声をかけられ、椎はひとつ頭をさげてその背を見送る。

 終業後の椎はまっすぐ帰宅する。それはみんなが浮足立つ週末でも変わらない。理由は「一緒に飲みに行くような人がいないから」だ。誘われるときはほとんどが人数あわせで、どこまでもモブな自分にも、もうすっかり慣れた。

 椅子を立つと、部署内には椎の他には潤理しかいない。

「森部、帰るのか?」

 デスクに腰を預けた潤理は、妙に真剣な表情で声をかけてきた。

「残業する必要もありませんし」

 もしかしてなにか仕事が残っていただろうか。潤理の顔を見ると、すっと視線を逸らされた。不自然な目の動きから、残業をさせたいのだと理解した。

「残業申請出してないんですが」

 今からだとビルの管理室にも残業の旨を伝えにいかなくてはいけない。行くなら急ごう、と一度手に持った通勤バッグをデスクに戻した。

「誰が残業しろなんて言った?」

「違うんですか?」

 それならばなんだろう。首を傾けていると、大きなため息をつかれた。

「察しろよ」

「なにをですか?」

 今にも舌打ちが出てきそうなほど表情を歪めて眉を寄せた潤理が、椎の通勤バッグを持ちあげる。今度はなんだ、と顔を見あげると、また目があって逸らされた。

「飲みに行かないか?」

 そこまで真剣な顔で言うことでもないのに、まるで誰かの命でもかかっているかのような険しい面持ちだった。なにか重要な話でもあるのだろうか――誰にも聞かれたくないのかもしれない。

「いいですけど」

「けど?」

 潤理がさらに眉を寄せるのを見て、つい「しわになりそうだ」と思った。

「モブは話がうまくないので、楽しい会話は期待しないでください」

「だから自分でモブって言うな」

 肩を小突かれて、よろけそうになった体勢を留める。

「一星主任は言うじゃないですか」

「俺はいいんだよ」

 意味がわからない。疑問符を浮かべるが、潤理はそんな椎の脳内など知らずに顔を覗き込んでくる。距離が近くて椎は一歩うしろにさがった。

「それでどうなんだ? 飲みにいくの、オーケーなのか嫌なのか」

「嫌なんて」

「じゃあオーケーだな。行くぞ」

 椎のバッグを持ちあげた潤理がさっさと歩き出すので追いかけるけれど、早足で歩いてもその背に追いつくのがやっとだ。

「どこに行くんですか?」

「飲み」

「どこで?」

「うまい店」

 早足で追いかける椎と、余裕の歩調で進む潤理――どうしてこうも差があるのか。ため息が零れ出た。

 涼しい春の夜風の中、先導する潤理を追いかけて到着したのは小洒落た居酒屋だった。路地をいくつも曲がったところにあり、椎ひとりでは絶対に辿りつけない。炉端焼きのメニューが店の入り口に出ている。早足で歩いていたから少し息が切れている椎に、潤理は観察するように目を細める。

「ここですか?」

「そう。ほら」

 店の引き戸を開けてくれた潤理に促され、そろりと足を踏み入れた。

 店内はジャズが流れていて居酒屋特有のざわつきがない。テーブル席が十ほどとカウンター席で、奥には二階に続くと思われる階段がある。どの客もしっとりとお酒と料理を楽しんでいて、大人の店だとすぐにわかった。

 さすが主役が連れていってくれる店は、椎が知っている店とはまったく違う。椎の中で居酒屋といったら、大声で「いらっしゃいませ」と迎えてくれる印象だ。

 カウンター内の囲炉裏に太い串に刺さった魚がいくつも並んでいるのを興味深く見ていると、四人掛けのテーブル席に案内された。潤理に上座を譲って向かいあって座り、なんとなく緊張する。主任と一対一でいることなどほとんどないのだから当然か、と椎は力を抜くように軽く肩を動かした。

「なに飲む? 日本酒と梅酒の種類が多くておすすめだ」

「じゃあ、梅酒のソーダ割りがいいです」

「梅酒って言ってもこれだけあるからな」

 ドリンクメニューの梅酒一覧を見せられて、思わず「えっ」と声が出た。そこには縦一列にずらりと梅酒の名前が並んでいる。銘柄などわからないし、飲み比べても椎の平凡な舌ではどれも同じだろう。

「主任のおすすめがいいです」

 ここはわかる人に任せるのが正解だ。潤理に委ねると、相手はメニューを見ながら頷いた。

「飲みやすいのと重めなのだとどっちがいい?」

「飲みやすいのがいいです」

「わかった」

 潤理が店員を呼んで、自分の黒ビールと、椎の梅酒のソーダ割りを注文してくれた。梅酒の名前は呪文にしか聞こえなくて、よくわからなかった。メニューには黒糖梅酒や緑茶梅酒など変わった名前もあり、どんな味だろうと椎は首をかしげた。スーパーやコンビニで売っているようなメジャーな梅酒以外は知らない。

「お疲れさま」

「お疲れさまです」

 乾杯してグラスに口をつけると、飲みやすくておいしい。炭酸がしゅわっと舌の上で弾けて心地よかった。

「おいしいです」

「よかった。料理もうまいから」

 取り分けてくれた茶色の焼きものを食べてみると、こりこりしゃりしゃりした楽しい食感と黒胡椒の辛みがぴったりで驚いた。こんなものは食べたことがない。

「これはなんですか?」

「鶏の砂肝の黒胡椒焼き」

「はじめて食べました。こっちは?」

 オレンジ色のなにかが小鉢に入っている。ディップして食べるようだ。

「海老みそ」

「おお……。濃厚ですね」

「これは軟骨入りつくねの柚子胡椒焼きだ」

「最高です」

 すすめられるまま食べていてはっとする。慌てて口内のものを嚥下し、姿勢を正して潤理の顔を見た。

「どうした?」

 椎が突然居住まいを正したことに驚いたようで、潤理は目を軽く見開いた。

「なにかお話があるんですよね?」

「は?」

「あんなに真剣な様子で誘ってくれたということは、誰にも聞かれたくない重要な話が――」

「はあ?」

 向かいあう男の表情が呆れたものに変わり、なぜだ、と首を傾けた。

「こんなところで重要な話なんてするか」

「そうなんですか?」

 当たり前だろ、と言うように大きなため息をついた潤理はビールを呷った。動く喉仏が男らしくて色っぽく、つい凝視してしまう。

「ほんとにモブ頭だな」

「モブ頭ははじめて言われました」

 感心すると、また呆れた顔をされた。そんなに呆れられるほどのことを言ったつもりはなかったので、少し気恥ずかしい。

「ただ一緒に飲みたかっただけだ」

「なぜモブと」

「だから自分でモブって言うな」

 潤理の表情がほどけ、笑顔が可愛い。こんなふうに笑うこともあるのか、とどきりとして、どきりはまずい、と小さく頭を振った。この人は主役で自分はモブ、ときめくなど過分だ。

「ほんと、森部っておかしい」

 整った顔をくしゃくしゃにして笑う潤理に、またどきりとする。椎は自分の太腿をつねって「それはだめだ」と自戒した。でも思いのほか強くつねってしまい、痛みに涙が滲んだ。

「どうした?」

「え?」

「泣きそうな顔してる」

「いえ……。なんでもないです」

 椎の表情の変化など見ていて楽しいものではないだろうに、しっかりと見られていて恥ずかしい。まさか自分でつねったところが痛いとは言えない。

 遅れて運ばれてきたマグロのカマ焼きをテーブルの中央に移動させた潤理が、視線を彷徨わせる。

「まあ、聞きたいことはあるかな」

「頼まれたデータ入力なら、月曜の昼までにお渡しできます」

「違う」

 潤理が椎に聞きたいことなんて仕事の進捗以外に思い浮かばなかったが、違ったみたいでまた呆れられた。この表情を今日だけで何度見ただろう。

「森部はつきあってるやつはいるのか?」

「いません」

 即答すると、軽く目を見開いた潤理が「本当に?」と問いを重ねる。はっきりと頷いた椎に、潤理は「ふうん」と答えただけでビールをひと口飲んだ。就業中の問いかけと同じようにそこに深い意味はないようで、それならばなぜ問いを重ねてまで聞いたのかと不思議に思う。

「俺みたいなのは嫌いだって言ってたけど、他に好みはあるのか?」

 さぐるような瞳が椎をとらえる。そんなに見られてもなにも出てこない。

「ありますよ。言いませんが」

「教えろよ」

 グラスを手に取ると、氷がからんと音を立てた。少し薄くなった梅酒ソーダは炭酸も弱くなり、舌の上で控えめに跳びはねる。

「モブの好みのタイプなんて聞いて、なんの得があるんですか?」

「だから」

「だって本当にモブですもん」

 どんなに夢見て変わろうとしてもモブのまま。頑張ったところで実らないのなら、ともうとっくに諦めた。

 拗ねた感情はそのまま顔に出た。

「いいから話してみろ」

「……笑いませんか?」

「笑うわけないだろ」

 相手が真剣なので、ここは自分も真面目に答えなくては失礼だ、と軽く背筋を伸ばす。笑わないという言葉を信じて、促されるまま身にそぐわない好みのタイプを話した。

「――それから、見た目より中身が素敵な人がいいです。主任のようにモブモブ言わなくて、俺を大切にしてくれたら幸せです」

 そこまで話してはっとする。自分がゲイだとばれていないだろうか。

 発言を思い返してみるが、一度も「男性」とは言っていないし、包容力のある女性が好みだと思われるくらいか、と気がつかれないように安堵の息を小さく零した。

「中身が素敵な人、ね」

 感情の読めない瞳をした潤理に居心地が悪くなり、椎は意識を逸らすようにグラスに口をつける。溶けた氷で薄まって、もう梅酒の味はしない。ぼんやりした味は目立たない自分のようだ。

 潤理はときおりこういう目をする。なにを考えているのかわからなくて、椎は密かにそこにも苦手意識を持っている。神秘的な黒い瞳が深い暗闇にも見えて、怖いとさえ感じるのだ。本人が深く考えていようがいまいが、椎は得体の知れないものだと思っている。たとえふざけたことが頭の中にあっても、こんな目をされたら誰だって身がまえるだろう。

「なあ、森部」

「はい」

「今まで森部がつきあった相手ってどんなやつだ?」

 瞳に色が戻ったかと思ったら、妙に険しい表情で問いかけられた。そんなせつないことを聞くのか、と椎は瞼を伏せる。

「モブは主役にはなれません」

「は?」

「いつも片想いで終わります」

 潤理と椎のあいだに沈黙が流れ、なんとも答えづらいことを言ってしまった、と反省する。潤理がなにも言わないので椎も口を開けず、手の中でグラスを軽く揺らす。小さな欠片となった氷でからからと涼しい音が鳴った。

「俺が主役になれるような恋がしてみたいです」

「したらいい」

 簡単に言うが、それは潤理が主役だからそんなことを言えるのだ。モブが主役になることがどれだけ大変かわかっていない。

「できないことがわかってるので、もう諦めました」

 それでも、もしできたらいつか、と夢を見るのは仕方がない。誰だって心が蕩けるような恋がしたいものだ。

「枯れるには早い」

 ビールを飲んだ潤理の唇が濡れていて男の色気を感じさせ、慌てて視線を逸らした。

「俺が教えてやろうか?」

「なにをですか?」

「主役になれる恋」

 言われている意味がわからず首をかしげる椎に、潤理が微笑む。

「俺が森部を主役にしてやる」

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