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滞在先の宿で、私は地図を広げ、思考の海に沈んでいた。
「良い負け方」
その奇妙な言葉が、私の頭の中を支配していた。
この戦は、すでに詰んでいる。
東の大国の心臓部である都が、すでに末期症状であることは、この目で確認した。
皇帝のすぐ側で仕える役人たちでさえ、魔薬の毒に魅了され、その流通に手を貸している始末。
こんな腐敗しきった状況で、魔薬の流通をこの国の中から完全に断つことなど、土台無理な話だ。
私がどれだけ完璧な流通阻止の体制を組もうと、内側から腐った役人たちが必ずやその足を引っ張るだろう。
私にはこの東の地に地の利がない。
ウィリアムのように、時間をかけてじっくりと根を張ったわけでもない。
無理に介入すれば、泥沼にはまり込むのがオチだ。
非効率極まりない。
ならば、負けると分かっている戦で、いかにして実りを拾うか。
私が思考を深めていると、コンコン、と控えめなノックの音がした。
入室してきた諜報員の部下は、私の許可を待たず緊張した面持ちで口を開いた。
「リリス様。魔薬が流入している港を発見しました」
その一言に、私の思考は現実へと引き戻される。
私は静かに顔を上げ、先を促した。
「詳しく聞かせて」
「はっ。魔薬はどうやら海外から、この国南東部に位置する一つの港に、海路で集中して密輸されている模様です。一度、港に隣接する巨大な倉庫群に集積され、そこから国内の各地へ運搬されている形跡を掴みました」
なるほど。
一点に集中させているわけね。
管理がしやすい反面、そこを叩かれれば全てを失う、諸刃の剣。
部下は、さらに重要な情報を付け加えた。
「港から少し離れた沖合に、ウィリアムの国の所属と思われる軍船が複数、停泊しているのを確認しております。おそらく、戦争が本格的に激化した際には、そこが真っ先に戦場になるかと」
そして、私が最も聞きたかった言葉を続ける。
「そこに、ウィリアムの手下はいるの?」
「ウィリアムの直属の手下かどうかまでは断定できません。ですが、倉庫には東の国の人間ではない、隣国の者と思われる集団が常駐し、荷の差配を行っていることを確認いたしました」
それを聞き、私の口元から、思わず笑みがこぼれ落ちた。
東の国に地の利が元々なかったのは、ウィリアムも同じこと。
だからこそ、金の流れや物の差配といった、最も重要な心臓部には自分の息のかかった人間を置かざるを得なかった。
これこそが、あの完璧な男が見せたわずかな綻び。
そして、私にとっては、この膠着した盤面をひっくり返すための唯一の勝機。
私はゆっくりと立ち上がった。
窓の外では、活気を失った街が灰色の空の下で沈黙している。
「全て燃やしてしまいましょうか」
私のその静かな呟きに、部下は深く、そして恭しく頭を垂れた。
◇◇◇◇
数日後の夜。
目的の港は深い闇と静寂に包まれていた。
潮の香りに混じって、微かにあの甘ったるい魔薬の匂いが漂ってくる。
私と選りすぐりの部下たちは音もなく闇に溶け込み、巨大な倉庫群へと近づいていた。
「初めはボヤに見えるように、小さな火を付けて」
私の囁きに、部下の一人が無言で頷く。
彼は手際よく、倉庫の壁際に積まれた廃材に火種を落とした。
乾いた木材は、パチパチと小さな音を立てて燃え上がり、赤い炎が闇を舐めるように広がっていく。
煙が立ち上り始めると、予想通り、倉庫の中から慌ただしい人影が現れた。
「火事だ! 火を消せ!」
消火のために駆けつけてくる男たちを、私たちは物陰から、一人、また一人と、音もなく闇へと引きずり込んでいく。
抵抗する間もなく意識を刈り取られ、積み荷の影へと転がされていく哀れな駒たち。
やがて、その中に、明らかに他の者たちとは違う空気をまとった男が現れた。
東の国の者ではない、隣国の言葉で部下たちに指示を飛ばしている。
間違いない。ウィリアムの手下だ。
部下たちは、細心の注意を払い、複数の方向から同時にその男へと近づく。
男が異変に気づいた時には、すでに遅かった。
後頭部への一撃で、その体は糸が切れたように崩れ落ちる。
おそらく、こいつはウィリアムの直属の部下。
直接捕まえることができたのは初めてね……
私は内心でほくそ笑む。
これで、尋問次第ではウィリアムの計画の全貌さえも暴けるかもしれない。
「倉庫に本格的な火を付けなさい」
捕虜を荷馬車の荷台へと乱暴に放り込み、私は最後の指示を出す。
部下たちが倉庫の各所に油を撒き、火を放つ。
炎は一瞬にして巨大な火柱となり、夜空を焦がすかのように燃え盛った。
「逃げるわよ」
燃え盛る倉庫を背に、私たちは馬車を走らせる。
その、まさにその時だった。
ドドォォォォンッ!
港の方角から地響きを伴う巨大な爆撃音が轟いた。
振り返ると、沖合に停泊していたウィリアムの軍船が港に向かって一斉に砲撃を開始していた。
闇を切り裂く閃光が、次々と港湾施設に着弾し、巨大な水柱と爆炎を巻き上げる。
魔薬を燃やす倉庫の火が、皮肉にも、海戦の開始を告げる狼煙となったのだ。
証拠隠滅も兼ねているのでしょうけど、今回はちゃんと尻尾を捕まえられて良かったわ――
私は荷台でぐったりと気を失っている男を一瞥し、笑みを浮かべる。
この男から引き出せる情報の価値は計り知れない。
◇◇◇◇
この事件は、隣国と東の大国との戦争を一気に本格的なものへと激化させた。
しかし、魔薬によって指導者層から民衆に至るまで骨抜きにされた東の大国に、もはや反撃する力は残されていなかった。
加えて、ウィリアムの国が所有する最新式の魔導船の圧倒的な火力の前に、東の大国の艦隊はなすすべもなく壊滅。
海戦は、わずか数日で決着した。
そして、開戦から一ヶ月というあまりに短い期間で終戦した。
しかしながら、東の大国の無条件降伏ではなく両国で対話が持たれ、条約が結ばれた結果だった。
条約と言っても、東の大国に対して完全に不平等な条約であった。
――東の大国は内部から完全に崩壊し、長きにわたり、ウィリアムの国の傀儡国家としての歴史を歩むのだ。
そして、魔薬の蔓延を期に始まったこの戦争は、後に『第一次魔薬戦争』と呼ばれることになる。
◇◇◇◇
あの一件から数日後。
私は再び、東の大国の城を訪れていた。
廊下を歩けばすれ違う役人たちの誰もが私に刺すような視線を向けてくる。
怨嗟と、侮蔑と、そしてわずかな恐怖。
様々な負の感情が混じり合った、実に不愉快な視線だった。
……まあ、無理もない。
私が魔薬の倉庫を焼き払ったことで、隣国を本気で怒らせてしまった。
彼らにとっては私がこの国を滅亡へと導いた元凶にしか見えないのだろう。
謁見の間に通されると、玉座に座る皇帝が同じように苦々しい顔で私を睨みつけていた。
「ずいぶんと派手にやってくれたようじゃないか。確かに魔薬の蔓延を阻止してほしいとは言ったが、まさか焼き払うような暴挙に出るとは思わなかった。これでこの国も蹂躙されて終わりだろう」
その絶望に染まった顔に、私は何も答えず、抱えていた分厚い紙束を彼の足元へと投げ渡した。
バサリ、と乾いた音が静かな謁見の間に響く。
皇帝は訝しげに眉をひそめながらも、その書類を拾い上げた。
そして、その中身を確認するにつれて、その目を驚愕に見開いていく。
そこに記されているのは、先日捕らえたウィリアムの部下から引き出した、魔薬に関する全ての情報。
この国に張り巡らされた流通経路、仲介する事業者、そして汚職に手を染めた役人たちのリスト。
魔薬の流入を水際で断つために必要な、あらゆる情報がそこにはあった。
「……これは……」
言葉を失う皇帝を、私は冷ややかに見下ろす。
「ウィリアムの国と対話の機会を設けなさい。私も同席するわ。負け戦の損失を最小限にしてあげるわ」




