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東の大国、と聞いて私が思い浮かべるのは、異国情緒あふれる活気だった。
木の格子窓からは甘い茶の湯気が漏れる。
軒先に吊るされた赤ちょうちんがゆらりと風に揺れる。
天秤棒を担いだ商人が行き交い、色鮮やかな旗がはためく下で、威勢の良い売り声がそこかしこから聞こえてくる。
そんな賑わいと、どこか懐かしいような温かみが共存する土地。
――しかし、私の馬車が到着した都の光景は、そのイメージとは異なるものだった。
建物こそ昔ながらの異国情緒を保っているものの、そこに宿るはずの活気はすっかりと色褪せている。
道行く人々の足取りは重く、その表情は一様に暗い。
まるで街全体が分厚い灰色の雲に覆われているかのようだ。
護衛を連れ、馬車を降りて街を歩く。
表通りですらこの有様だ。裏路地は、と足を踏み入れた瞬間、空気ががらりと変わった。
鼻をつくのは甘ったるい匂いと、腐敗臭が混じったような異臭。
壁にもたれかかるようにして、何人もの人間が地面に座り込んでいる。
その誰もが、焦点の合わない虚ろな目で、恍惚とした表情を浮かべていた。
中には、ぴくりとも動かない者もいる。
おそらく、本当に命の灯火が消えている。
さらに奥の建物からは、怪しげな紫色の煙がゆらゆらと立ち上る。
長い煙管を手に、けだるそうに煙をくゆらせる人々の影。
――魔薬。
ウィリアムが生み出した、人の魂を内側から蝕む悪魔の薬。
その毒は思っていた以上に深く、この国の隅々まで浸透しているらしい。
その時、巡回中らしき役人が二人、通り過ぎていった。
しかし、彼らはこの惨状に目を向けない。
路上に転がる人々もまた、役人に気づいたそぶりも見せない。
それは、この絶望的な光景が、権力によって黙認された日常であることを、雄弁に物語っていた。
(正直、ここまでだとは思っていなかったわね……)
この国の心臓部である都が、すでに末期症状。
ならば地方の惨状は、想像するまでもないだろう。
私は静かに踵を返し、馬車へと戻った。
◇◇◇◇
王宮の謁見の間は、街の喧騒とは裏腹に、しんと静まり返っていた。
玉座に座る皇帝は、年の頃はまだ四十代のはずだが、その顔には深い疲労と絶望の色が刻まれている。まるで生気を吸い取られたかのように、その肩は力なく落ちていた。
形式的な挨拶を済ませると、私は単刀直入に切り出した。
「陛下。王宮へ参る前に、街を少し散策させていただきました。……ひどい有様ですわね」
私の言葉に、皇帝はただ黙って目を伏せる。その沈黙が、何よりの肯定だった。
「すでに内部から、根深く蝕まれている。……『魔薬』に」
その単語を口にした瞬間、皇帝が勢いよく顔を上げた。
その瞳には、驚愕と、そしてわずかな希望の光が宿る。
「……あの薬を、ご存じなのか!?」
「ええ。そして、その薬を生み出した男のことも。ウィリアム・マセリン……私とは浅からぬ因縁のある相手ですわ」
私はウィリアムとの経緯、そして魔薬がもたらす本当の恐怖について、知りうる情報を簡潔に皇帝へと伝えた。人の理性を破壊し、決して満たされることのない渇望だけを残す悪魔の薬。
それがもたらすのは、緩やかで、しかし確実な国家の死。
私の説明を聞き終えた皇帝は、震える手で顔を覆った。
その姿は、一国の長というより、ただの無力な一人の男だった。
やがて、彼は最後の望みを託すように、私に懇願してきた。
「リリス殿……どうか、我が国を救ってはくれまいか。もし、この魔薬の蔓延を食い止めてくれるのであれば、我が国は貴国との間に、いかなる優先的な取引を行うことも厭わん」
その必死の言葉に、私は静かに首を横に振った。
「陛下、私は慈善家ではございません。この戦は、あまりにも分が悪い。すでに手遅れと言っても過言ではないでしょう」
私の冷徹な言葉に、皇帝の顔が再び絶望に染まる。
しかし、私は言葉を続けた。
「ですが、取引には応じましょう。……ただし、私が約束できるのは、魔薬の『根絶』ではございません。侵入や影響を、可能な限り阻止する。それだけですわ」
「……それで、十分だ」
皇帝は、絞り出すような声でそう言った。
私は軽く一礼し、静かに謁見の間を退出した。
◇◇◇◇
城を出るため、だだっ広い廊下を歩く。
すると、どこからともなく数名の役人たちが、まるで壁から湧き出るかのように私の前に姿を現した。
彼らの目は、街で見た中毒者たちと同じように、どこか焦点が合っていない。
「リリス様……。我々も、ささやかながら貿易の差配を司っておりましてな。どうか、我々が扱う『商品』の流通を、黙認していただきたく……」
一人の男がそう言うと、震える手で私の袖の下に小さな革袋を滑り込ませてきた。
ずしりとした、金貨の重み。
他の役人たちも、次々と同様の行動をとる。
(……ここに立っているだけで、金儲けになりそうね)
内心で、私は乾いた笑みを浮かべた。
しかし、こんなはした金を受け取って、私が満足するはずもない。
――この国の腐敗は、私の想像を遥かに超えていた。
皇帝のすぐ側で仕える役人たちまでもが、魔薬の毒に魅了されている。
これでは戦争など待つまでもなく、この国は自滅するだろう。
魔薬の流通を阻止するなど、土台無理な話だ。
馬車に乗り込み、王都を離れる。
窓の外では、活気を失った街並みがゆっくりと後ろへと流れていった。
私は静かに目を閉じる。
この戦は、必ず負ける。
それは、揺るぎようのない事実。
ウィリアムは、武力ではなく、人の欲望そのものを兵器として、この国をすでに征服し終えているのだ。
だが、負けると分かっている戦でも、ただ無様に負けるつもりはない。
どうすれば、より良い負け方ができるのか。
どうすれば、この敗北を、次なる戦いへの布石とできるのか。
私の思考は、すでに次の盤面へと移っていた。
馬車の規則正しい揺れだけが、私の冷徹な思考に寄り添うように、静かに続いていた。




