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レイヴンとの別れに、らしくもなく感傷的になっていたのも束の間だった。
帰りの馬車の中でも私の時間は仕事に食い潰される。
街道を並走する馬の上から、部下たちが次々と決裁を求めてくるのだ。
まったく、私の帰りすら待てないのかしら……?
移動ぐらいゆっくりさせてほしい。
私の馬車はいつだって移動執務室に早変わりする。
おかげでレイヴンとの別れ際に感じた奇妙なもの悲しさも、王都に着く頃にはすっかりインクの匂いにかき消されていたのは事実だった。
そして王都に帰還してから数週間が過ぎた。
北の海で起こした一騒動が嘘のように、私の日常は驚くほど平穏だった。
執務室の机には今日も報告書の山が築かれ、私の事業が叩き出した莫大な黒字を物語っている。
ウィリアム・マセリンとの宣戦布告以来、彼我の闘争は水面下で静かに続いていた。
彼が旧貴族連合と接触する様子があれば私は先回りして資金源を断ち、彼が新たな交易路を開拓しようとすれば私は関税の壁を築き上げる。
すべては私の計算通りに進んでいるはずだった。
――その平穏が、一本の報告によって音を立てて崩れ去るまでは。
コンコンと執務室の扉が控えめにノックされる。
「入りなさい」
短く応じると、情報部門を統括する部下の一人がいつになく険しい表情で入室してきた。
その手には緊急の通信文を示す赤い封筒が握られている。
「リリス様。極東の大国に対し、隣国が宣戦を布告しました」
その報告に、私はペンを走らせていた手をぴたりと止めた。
東の大国。
広大な領土と豊かな資源を持つが、近年は政情不安が囁かれている国。
私の影響力が直接には及びにくい遠方の地。
「……そう」
私は短く応じて思考を巡らせる。
一見すれば私とは無関係な遠い国の戦争だが、その報告を聞いた瞬間に私の頭の片隅で忘れかけていた小さな情報が警鐘を鳴らした。
確か、しばらく前の新聞に……。
そう、ジェームズが開発した『魔導式印刷機』が刷り上げた新聞の一面に記事が載っていたはずだ。
『極東の大国で治安が悪化、交易ルートに懸念』
あの時は読み流してしまった。
だが隣国の宣戦布告という新たな情報と結びついた瞬間、私の頭の中でパズルのピースが組み上がっていく。
私の張り巡らせた情報網や物流網は周辺国家を覆うほどに広く、そして強固だ。
そして私が動かせる富はもはや国家予算を遥かに凌駕する。
裏社会へのコネクションも他の誰よりも強い。
この私の牙城である王国や周辺国家へ、ウィリアムが『魔薬』を大々的に広めることは容易ではないはずだ。
私がすぐにその芽を摘み取ってしまうだろうから。
だからこそ彼はまず私の手の届かない場所を狙ったのではないか?
極東の大国は私の影響が薄い。
そして政情が不安定で、民衆の不満も溜まっている。
『魔薬』という劇薬を投じるにはこれ以上なく最適な土壌。
まず魔薬を用いて東の大国の治安を内側から崩壊させ、国が混乱しきったところで隣国を唆して戦争を仕掛けさせる。
そして弱り切った大国を傀儡とし、その富を根こそぎしゃぶりつくす算段なのではないか?
富の面での私の優位を遠隔地から崩そうというわけだ。
そう考えると、これまでの情報や、この数ヶ月のウィリアムの静かな動きも全て得心がいく。
彼が旧貴族連合へ送っていた秋波は、私の注意を国内に引きつけておくための陽動だったとしたら……?
本命は最初から東の大国だったのだ。
混沌を好み、破滅さえも自由と嘯くあの男らしい実に悪趣味なやり口。
……やられたわね。
唇の端から乾いた笑みが漏れる。
ようやく彼の尻尾を掴んだが、遅すぎたかもしれない。
すでに隣国が宣戦布告をしたということは、ウィリアムの準備が十分に整ったという証左に他ならない。東の大国はすでに彼の思想と魔薬によって、内側から蝕まれきっている可能性が高い。
今から私が介入したところで、どこまで戦況を覆せるか。
「はあ……」
船を作って、遊んでいる場合でもなかったわね……。
先日、北の海で起こした一連の騒動も必要なことではあったけれど、ほんの少しだけ後悔の念が胸をよぎった。
けれど心の奥底で、血が沸き立つような興奮を覚えている自分にも気づいていた。
――退屈な平穏を壊してくれたことには少しだけ感謝してあげましょうか、ウィリアム。
私は思考を切り替え、険しい顔で固唾を呑んで私を見つめる部下へと向き直る。
感傷に浸っている暇などない。
やるべきことは、ただ一つ。
「東へ向かいましょう」
私のその静かな一言に部下は深く力強く頷いた。
「はっ!」
次の戦いの舞台は、極東の大国。
今、好敵手ウィリアムとの新たなチェスの駒が盤上へと置かれたのだ。




