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こめかみを押さえるところから一日が始まった。
原因は執務室の机に置かれた一通の手紙。差出人は私が新たな領主として据えたあの漁師ディノからだった。
羊皮紙に踊る、勢いだけは良い乱雑な文字。
その内容は彼の行動力と致命的なまでの計画性のなさを雄弁に物語っていた。
『リリス! 俺たちの船団がついに北の氷河地帯のすぐ近くに、とんでもねぇ漁場を見つけたぜ! 毎日、笑いが止まらねぇくらいの大漁だ! あんたにもぜひその目で見てほしい!』
私は手紙を机に置き、深くため息をついた。
(私を、一体何だと思っているのかしら……)
王都を一日空けるだけでも、どれだけの決裁が滞るか。
この私が、そう気軽に「はい、そうですか」と視察に行ける立場だと、本気で思っているのだろうか。
あの男の脳内は、魚と海と、あと筋肉で構成されているに違いない。
しかし、問題はそこではなかった。
彼が漁場を開拓したという、北の氷河地帯。
その海域は、私の記憶が正しければ、極めて厄介な場所のはずだった。
(北方の海は、海賊が多くて大変だったはずだけれど……)
事実、私の組織が誇る広大な物流網も、海路においては北の氷河地帯までは伸びていない。
理由は単純明快。海賊による襲撃と略奪のリスクが高すぎたからだ。
もちろん、本気を出せば彼らを討伐し、航路の安全を確保することなど造作もない。
だが、そこまでして物流網を広げるほどの旨味がない。
単純に、採算が合わないのだ。
ビジネスとは、慈善事業ではない。
リスクとリターンを天秤にかけ、割に合わないと判断したわけだ。
しかし、ディノはその危険な海域で大漁に沸いているらしい。
彼が率いるのは、元は私の組織に借金を抱えていた『債務者』たちで構成された寄せ集めの船団だ。
命知らずの荒くれ者が多いとはいえ、海賊相手にまともに対抗できるほどの戦力はないはず。
……無視すると問題が起こりかねない。厄介極まりない。
それに、何より気がかりなのは、あの男の存在。
ウィリアム・マセリン。
『魔薬』を用いて、我が王国に混沌をもたらそうと画策する私の宿敵。
彼がこの状況を好機と捉え、北の海賊たちと手を結ぶ可能性は決して低くない。
彼がすでに北の海賊たちを掌握し、この地を支配下に置いているとしたら?
そうなれば、この新たな漁場は我が国に『魔薬』を流入させるための格好の足掛かりになりかねない。
ディノの船団は知らず知らずのうちに、その巨大な悪意の渦の中心に飛び込んでしまったことになる。
考えたくもないが、最悪のシナリオだ。
私の組織の人間が、ウィリアムにつけ入る隙を与えるなど、あってはならないこと。
(……やはり一度、この目で見ておいた方が良いかしら?)
面倒だ。
実に面倒で、非効率極まりない。
しかし、放置して大きな問題に発展するよりはマシ……
私が頭を抱えていたのは、そういうわけだった。
私が北方への視察に迷っていた、まさにその時だった。
コンコン、と執務室の扉が控えめにノックされる。
「リリス様、失礼いたします。ジェームズ様達が開発しておりました例の品、完成いたしました」
入ってきたのは、私の側近の一人。
その手には、見慣れない銀色の容器が恭しく捧げ持たれている。
先日、ジェームズたちが「開け方が分からない」と大騒ぎしていた、あの『缶詰』の改良版。
「あら、仕事が早いのね」
「はい。軍への納品も滞りなく進んでおります。兵士たちの間ではもはや『聖女の恵み』と呼ばれているとか」
聖女。
ずいぶんと笑えない冗談だ。
私がその缶詰を手に取ると、側近はさらに言葉を続けた。
「それから、リリス様。先日ディノ様より献上されたマグロですが、こちらも試作品として缶詰に加工してみました。軍に納品する前に一度ご賞味いただきたく」
その言葉に、私の眉がぴくりと動く。
マグロ。
そう、あの、ディノが善意として送りつけてくる、銀色の巨大な塊。
屋敷の食卓を占拠し、料理人たちの創造力を枯渇させた諸悪の根源。
食べきれない分は、ジェームズ達が開発した缶詰の技術を応用して軍の糧食として横流しにしていた。
もちろんディノ本人には了承など得ていない。
彼が汗水流して獲ってきた最高級のマグロが、名前も知らない兵士たちの胃袋に収まっているなど、知ったらどう思うだろうか。
……まあ、どうもしないだろうけれど。
あの男のことだ。「兵隊さんたちが喜んでくれるなら何よりだ!」と豪快に笑う姿が目に浮かぶ。
だが、それでも。
私の心には、なんとなくの後ろめたさが、澱のように小さく、しかし確実に溜まっていた。
(……仕方ないわね)
私は、目の前のツナ缶と、ディノからの手紙を交互に見つめる。
陸路で行けば、道中で仕事をこなしつつ部下に指示を出しながら移動できるかしら……
北へ向かうのは、組織の安全管理のため。
決して、このツナ缶に対する罪滅ぼしではない。
断じて、違う。
私は、自分自身にそう強く言い聞かせた。
しかし、私の背中を最後にひと押ししたのが、この銀色の缶詰が放つ微かな罪悪感の光だったという事実は、否定しようもなかった。
こうして、私の、面倒で、非効率で、そして少しだけ後ろめたい北方への旅は決定したのだった。




