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「リリス様、お任せください」
リリスの護衛の声。
しかし、絶望の淵にいたジェームズとピーターにとっては、神の救いの声のように聞こえた。
護衛の男はリリスが持っていた缶詰を、白い手袋をした手で丁重に受け取る。
そして、執務室の床に傷がつかないよう、そっとハンカチを敷いた。
その上に缶詰を置くと、彼は腰のホルスターから漆黒の魔導銃を抜き放った。
その、あまりに滑らかで淀みのない一連の動作。
ジェームズとピーターが呆気に取られている間に、彼は銃口を寸分の狂いもなく缶詰へと向ける。
パンッ!
鼓膜を叩く、乾いた発砲音。
銃口から放たれた弾は、ブリキの蓋を見事に撃ち抜き執務室の壁に深々と突き刺さった。
銃声の残響が消えやらぬ中、蜂蜜の甘い香りが硝煙の匂いと共にふわりと広がる。
護衛は何事もなかったかのように魔導銃をホルスターに納める。
そして、半分ほど蓋が吹き飛んだ缶詰を拾い上げた。
「どうぞ、リリス様」
彼はその無残な姿になった缶詰を、銀盆に乗せてリリスへと差し出す。
中では、衝撃で半分ほど砕けてしまった桃が、黄金色の蜜の中で悲しげに揺れていた。
リリスはその光景をしばらく無言で見つめていたが、くすりと悪戯っぽく笑った。
「これは、少し野蛮よね」
その言葉に、ジェームズとピーターの肩がびくりと震える。
しかし、リリスはすぐに、その瞳にいつもの冷徹な光を宿して続けた。
「でも、常に銃がある環境……そうね。例えば、軍の糧食などには使えるのではないかしら?」
その一言が、新たな歴史の歯車を大きく回転させることになる。
◇◇◇◇
リリスのその着想は、驚異的な速度で現実のものとなった。
缶詰技術は、軍用の携帯食糧に、まさしく革命をもたらしたのである。
これまで、王国の兵士たちが口にする兵糧といえば、石のように硬い乾パンと、塩辛いだけの干し肉が全てだった。
栄養は偏り、味は劣悪。
それが士気の低下と、兵士たちの健康を蝕む大きな原因となっていた。
しかし、『缶詰』はその全てを過去のものとした。
そして、その革命を力強く後押ししたのが、皮肉にも悩みの種であったあの男。
漁師ディノ。
彼の狂信的とさえ言えるおびただしい量の新鮮な魚介類。
特に、旬を迎えたマグロは、もはや屋敷の倉庫だけでは到底さばききれない量に達していた。
「このマグロ、全て缶詰になさい」
リリスの鶴の一声で、ヴォルテクス公爵家の広大な中庭の一角は、一夜にして臨時の軍用缶詰製造所へと姿を変えた。
水揚げされたばかりの新鮮なマグロが、次々と解体される。
加熱殺菌の後、ブリキの缶へと詰められていく。
その作業は、リリスの組織が誇る効率的な管理システムの下、二十四時間体制で行われた。
完成したマグロの油漬けの缶詰は、すぐさま最前線の兵士たちの元へと届けられた。
初めて缶詰を口にした兵士たちの反応は、感動、という言葉では生ぬるいほどだった。
「う、うめえ……! なんだこれは! まるで、港町の食堂で食ってるみてえだ!」
「乾パンじゃない……! 柔らかくて、味のしっかりした魚が食えるなんて……!」
劣悪だった兵糧事情は、劇的に改善された。
栄養状態が良くなった兵士たちの士気は爆発的に上がる。
王国の軍事力は、わずか数ヶ月で飛躍的に向上した。
そして、いつしか兵士たちの間で、一つの噂が囁かれるようになる。
この画期的な缶詰技術は、ある慈悲深き令嬢によって開発されたのだ、と。
彼女は過酷な戦場に身を置く兵士たちの身を案じ、この奇跡の食料を授けてくださったのだ、と。
兵士たちは、感謝と畏敬の念を込めて、その名も知らぬ令嬢を、陰でこう呼ぶようになった。
――『軍神の寵愛を受けし聖女』、と。
もちろん、その聖女の正体が、裏社会を牛耳る『悪役令嬢』リリス・ヴォルテクスであるという事実は歴史の闇に葬られた。
一方で、缶詰の『開け方』に関する問題は、奇妙な形で発展を遂げていた。
あの日、リリスの執務室で魔導銃が火を噴いてから数日後。
ジェームズとピーターは、顔に深い隈を刻み、リリスの前に再びひざまずいていた。
「リリス様! この度の不手際、誠に申し訳ございませんでした! つきましては、缶詰を安全かつ容易に開封するための、専用の道具を開発いたしました!」
彼らが血の滲むような努力の末に生み出したのは、てこの原理を応用した小さな金属製の道具。
後に『缶切り』と呼ばれることになる、偉大な発明の原型だ。
しかし、その画期的な道具はなぜかリリス専用の道具ということになってしまった。
そもそも屋敷で缶詰を開けるのはリリスくらいのもの。
他の誰も使う機会がなかったからだ。
結果として、その真新しい缶切りは、特に誰が言うでもなく彼女の物として、執務室の片隅にそっと置かれることになった。
その背景から、軍の兵士たちの間では一つの謎の常識が恐るべき速度で広まっていた。
「缶詰は、銃で開けるものだ」
考えてみれば、それは兵士にとって極めて合理的だった。
彼らは常に、腰に魔導銃を携えている。
わざわざ専用の道具を持つまでもなく、手元の銃で撃ち抜けばすぐに中身を食べることができる。
多少中身が飛び散ろうが、戦場でそんな些細なことを気にする者などいない。
むしろ、その行為は一種の儀式めいたものへと昇華されていった。
仲間たちと円になり缶詰を撃ち抜く。
その発砲音と立ち上る硝煙の匂いこそが、食事の開始を告げる最高のスパイスとなったのである。
結局、ジェームズたちが開発した缶切りが広く普及するまでには、まだ長い、長い年月を要することになる。
それまでの間、王国の兵士たちにとって、缶詰を開ける方法とは、すなわち『銃でぶっ放すこと』というのが、揺るぎない常識となったのだった。
固く閉ざされた想いは銃でこじ開けて…… 完




