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リリス・ヴォルテクスに、最近ささやかな悩みの種が増えていた。
事の発端は、先日立ち寄った海辺の保養地での出来事だ。
腐敗した領主を排除し、代わりに据えた新しい領主。
漁師あがりのディノという陽気で真っ直ぐな男。
彼が領主となってからというもの、寂れた港町は嘘のように活気を取り戻した。
それはいい。
リリスの投資と彼の行動力が噛み合った、素晴らしい成功事例だ。
問題は、彼の彼女に対する忠誠心が、少々過剰な方向へと暴走していることだった。
「リリス! 本日も大漁だ! これもすべて、リリスがこの俺に機会を与えてくれたおかげ!」
リリスの執務室に、ディノから送られてくる定期報告の手紙が届く。
そのどれもが、勢いのある筆跡で、感謝の言葉で埋め尽くされていた。
そして、その手紙にはこう締めくくられる。
「俺が命懸けで獲ってきた海の幸、献上品として受け取ってくれ!」
その言葉通り、月に一度、ディノの港からおびただしい量の魚介類が運び込まれる。
最初は微笑ましいものだと受け流していた。
しかし、その量は日を追うごとにエスカレートしていく。
「本日、ディノ様より最高級のマグロが十本、到着いたしました!」
メイド長の悲鳴にも似た報告が、屋敷中に響き渡る。
玄関ホールには、屈強な男たちが数人がかりで運び込んだ巨大なマグロが、銀色の巨体を横たえていた。
その光景はもはや献上品というより、事件現場に近い。
「……見事なマグロですね。厨房の者たちも腕が鳴るでしょうね」
屋敷の料理長は引きつった笑みを浮かべながら、必死に言葉を絞り出す。
その日から、ヴォルテクス家の食卓はマグロ一色。
朝食にはマグロのカルパッチョ。
昼食にはマグロのステーキ。
そして夕食にはマグロのフルコース。
厨房の料理人たちは日に日にやつれていった。
彼らの創造力は、マグロという名の巨大な壁の前に無力だった。
屋敷の倉庫は、マグロを保存するための巨大な氷で埋め尽くされ、他の食材を置くスペースさえない。
「リリス様、本日もディノ様より……」
「聞きたくないわ」
リリスは、メイドの報告を冷たく遮った。
さすがにもううんざりだった。
そんなある日の午後、リリスは執務室で、山積みの決裁書類と格闘していた。
そこへ、ジェームズ・ニットが定期報告のために訪れた。
「リリス様、先日の『魔導式印刷機』の量産化計画ですが、最終調整が完了いたしました。これで、王都の情報網は完全に我々の掌握するところとなり……」
ジェームズがいつものように澱みなく報告を進める。
リリスはその報告書に目を通しながら、ふと、無意識に溜息を漏らしてしまった。
「はあ……」
「リリス様? 何か、ご懸念でも?」
リリスのわずかな変化に、ジェームズは即座に気づいた。
「いえ、あなたの報告に問題はないわ。ただ……」
リリスは言葉を濁し、窓の外へと視線を移す。
中庭では、メイドたちが巨大マグロの解体作業に追われている。
その光景に、彼女は再び深いため息をついた。
「ディノは忠誠心も行動力も素晴らしいのだけれど、少しばかり加減というものを知らないようね。こう一遍に、それもマグロばかり送られては、食べるのが大変なのよねぇ」
本当に、ただの愚痴だった。
ほんの些細な、日々の生活における小さな不満。
しかし、その言葉を聞いたジェームズの顔がサッと青ざめた。
その瞳には、まるで国家存亡の危機を告げられたかのような、悲壮な光が宿っていた。
また、同時期。
リリスの日常にはもう一つの悩みの種が芽吹いていた。
「グルゥ……」
屋敷の中庭に設けられた、特製の頑丈な檻。
その中で、リリスのペットである黒熊のハニーが、力なく寝そべっている。
部下たちが勘違いの果てに連れてきた、巨大で愛らしい家族だ。
普段のハニーは食欲旺盛で、いつも元気に檻の中を歩き回っている。
しかし、冬が近づくにつれてその元気は目に見えて失われていった。
好物である蜂蜜をかけた果物を与えても、以前のように喜んで食べようとはしない。
「どうしたのかしら、ハニー。どこか具合でも悪いの?」
リリスは檻のそばにかがみ込み、心配そうに声をかける。
ハニーはただ力なく彼女を見つめ返し、悲しげに鼻を鳴らすだけだった。
常駐の獣医に診させても、身体に異常はないという。
原因はおそらく食事にあった。
ハニーは果物の中でも、特に甘く瑞々しい桃が大好物なのだ。
しかし、桃は夏の果物。
冬になれば、当然市場から姿を消してしまう。
他の果物では、どうしても満足できないのだろう。
好物を食べられないストレスが、彼の元気を奪っているのだ。
「……そう。桃が、食べたいのね」
リリスは、ハニーの大きな頭を優しく撫でながら、ぽつりと呟いた。
その時、ちょうど、ジェームズが新たな開発報告書を手に彼女の元へとやってきた。
檻の中で意気消沈しているハニーと、心配そうに寄り添うリリス。
ジェームズは心配そうに口を開く。
「リリス様。ハニー殿のご様子、いかがなさいましたか」
「ええ、ジェームズ。どうやら好物の桃が食べられなくて、元気をなくしてしまったようなの」
リリスは立ち上がり、服についた土を払いながら、何気なく言葉を続けた。
「私のペットがこうも意気消沈しているのは、見ていて気分が悪いわね。旬の桃の、あの最高の状態をハチミツ漬けにでもして、一年中ハニーに与えられると良いのだけれど」
これもまた、本当に、ただの独り言だった。
愛するペットを思う、飼い主としての自然な願望。
マグロの件と同じ、深い意味など何もない軽い愚痴。
しかし。
その言葉を聞いたジェームズの体は、まるで雷に打たれたかのように、びくりと硬直した。
「リリス様が再びお嘆きに!」
彼の顔から、血の気が完全に引いている。
その瞳は絶望と、そして使命感で燃え上がっていた。
リリスの二つの、何気ない愚痴。
それがこの真面目な男の中で、化学反応を起こし始めていた。
その日の夜、ジェームズ・ニットは自室で一人、膝の上で固く拳を握りしめていた。
(リリス様が、お嘆きだ……)
彼の脳裏に、昼間のリリスの憂いを帯びた表情が繰り返し再生される。
一つはディノからの過剰な献上品によって引き起こされた、食料供給の偏り。
そしてもう一つ、愛するペットへの、季節という抗いがたい摂理に対する嘆き。
ジェームズの心に、燃え盛るような炎が灯った。
(この二つの嘆きは、根源は同じだ!)
彼は、ばっと顔を上げた。
その瞳にはもはや迷いはない。
(食料の『時間』という制約! これこそがリリス様を苛む元凶なのだ!)
マグロは、獲れたてが最も価値が高い。時間が経てば、その価値は失われる。
桃もまた旬という短い時間の中でしか、その最高の味を享受できない。
(ならば、私がすべきことはただ一つ!)
ジェームズは、椅子から勢いよく立ち上がった。
(食料から『時間』という概念を奪い去る、新たな技術を創造する! 旬の恵みを、獲れたての新鮮さを、一年、いや、数年単位で完璧に保存する、画期的な食料保存技術を開発するのだ!)
それさえあれば、ディノから送られてくる大量のマグロも、計画的に備蓄できる。
ハニーも一年中、大好きな桃を味わうことができる。
(リリス様の嘆きを、この俺がこの手で完全に解消してみせる! )
彼の思考は、もはや誰にも止められない。
リリスの些細な愚痴が、彼の頭の中で国家の威信をかけた超重要プロジェクトへと昇華させようとしていた。




