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ウィリアム・マセリンとの恋文の皮を被った宣戦布告から数ヶ月が過ぎた。
私の日常は驚くほど平穏だった。
執務室の机には今日も報告書の山が築かれ、私の事業が叩き出した莫大な黒字を物語る。王国経済の歯車は私の意のままに力強く回り続けていた。
「グルルゥ……」
見下ろせば部下たちが連れてきた黒熊のハニーが檻の中で甘えている。今ではすっかり私のペットとしてこの屋敷に馴染んでいた。
「あらハニー、お腹が空いたの?」
傍に控えていた侍従に蜂蜜をかけた果物を用意するよう目配せした。
ハニーは殺伐とした私の日常に少しだけ癒やしを与えてくれる。
ウィリアムとの闘争は水面下で静かに続いている。
彼が旧貴族連合と接触する様子があれば私は先回りして妨害し、彼が新たな交易路を開拓しようとすれば私はその先に関税の壁を築き上げる。
彼の次の一手を読み、それを完璧に封じ込める。
退屈だけはしない。
――だがその平穏は一本の報告によって、音を立てて崩れ去ることになる。
◇◇◇◇
その日の午後、緊急の対策会議が開かれた。
集まったのは私の組織の各部門を統括する幹部たちだ。
「ご報告いたします」
重々しく口火を切ったのは情報部門を統括する若きリーダー。
彼の顔にはいつになく険しい表情が浮かんでいる。
「ここ数ヶ月、王都における夜間の犯罪発生率が異常な数値で急増しております」
彼が差し出した報告書に私は静かに目を通す。
そこに並んでいたのは目を覆いたくなるような事件の羅列だった。
「特に魔導革命の好景気で人口が急増した区画……いわゆる、新市街と隣接する貧民街の治安悪化が著しいと」
「主な犯罪行為は強盗や傷害。しかし不可解な点も多いのです。金品を奪わず相手を執拗に殴りつける暴行事件や、何もない路地で虚空に向かって何かを叫び続ける不審者の目撃情報が多発しております」
その報告を引き継ぐように、治安維持部門の男が苦々しげに言葉を続けた。
「我々の『用心棒』たちも騎士団と連携して警邏を強化しておりますが、焼け石に水です。騒動を鎮圧しても翌日には別の場所で新たな火の手が上がる……」
王都の繁栄の裏側で影も色濃く生まれてくる。
「だがこれもリリス様が進められた魔導革命の副産物。急激な社会構造の変化には必ずこうした歪みが伴うものです。我々が一つ一つ丁寧にその膿を摘み取っていくしかありますまい」
「うむ。治安維持部門の人員を一時的に増強し、危険な区域の集中警備体制を敷くべきだろう」
「新市街から臨時で警備員を招集するのも手かもしれん」
幹部たちはそれぞれが持つ知見と経験に基づき、実務的な対策を議論し始める。
彼らは皆、優秀だ。
私が育てた、自慢の部下たち。
――だが。
その優秀さゆえに彼らは目の前の事象を『解決すべき問題』としてしか捉えられていない。
その裏に潜む、巨大な悪意の存在に、誰一人として気づいていなかった。
……違う。これは、ただの歪みではないわ。
私は彼らの議論に耳を傾けながら、内心で冷たく断じていた。
この無秩序で非効率で、意味のない暴力の連鎖。
それはある男の思想を色濃く反映している。
――ウィリアム・マセリン。
混沌こそが進歩であり、真の自由であると嘯いた男。
彼がこの状況を積極的に作り出しているのではないか。
私がウィリアムなら、どう動く……?
思考を宿敵のそれに同調させる。
『魔薬』を王国に再び持ち込むとしたら?
正規の流通ルートは私の組織が完全に押さえている。ならば選択肢は一つしかないわ。
――裏社会。
まず既存の裏社会の秩序を徹底的に破壊する。小競り合いを煽って抗争を激化させ、混沌を生み出す。警備の目が派手な事件に向けられている隙に闇の取引ルートを新たに開拓する。
その混乱の元凶が『魔薬』そのものであることに誰も気づかないように……。
金目当てではない衝動的な暴力。
幻覚に苛まれたかのような奇行の数々。
報告された事件の断片が私の頭の中で一つの答えを形作る。
すでに始まっている……。
この治安悪化は単なる人口急増に伴う副作用ではない。
ウィリアムが仕掛けた王国を内側から腐らせるための巧妙な罠。
今まさに『魔薬』という毒の華が再び咲き誇ろうとしている。
荒事に慣れた組織の人間ほど、この種の騒動を「よくあること」として軽視しがちだ。
日常的な抗争や縄張り争いと意図的に引き起こされた混沌の区別がつかない。
それこそが、ウィリアムの狙い。
私たちが築き上げた強固な治安維持システムの死角を、彼は的確に突いてきたのではないか。
「――聞きなさい」
私の有無を言わせぬ一言に幹部たちの議論がぴたりと止まる。
全員の視線が私に注がれた。
「これはただの治安悪化ではない可能性がある……」
私はゆっくりと続けた。
その声は部屋の空気をさらに冷却するには十分だった。
「この無秩序で意味のない暴力の連鎖……。『魔薬』を再びこの国に持ち込もうとする者がいるとしたら?あなたたちはそれを些細な治安問題として見過ごすつもりなのかしら?」
その指摘に幹部たちの顔色が変わる。
彼らの思考がようやくこの問題と魔薬を繋ぎ始めたようだった。
「我々の足元を掬おうとする高度な謀略である可能性を念頭に置きなさい。事件を再調査するの。目的は犯人の逮捕ではなく背後にいるかもしれない『魔薬』の売人と供給ルートを特定すること。どんな些細な情報も見逃さないこと。いいわね」
私のその命令にようやく事の重大さを理解したのだろう。
「「「はっ!!承知致しました!」」」
彼らは一斉に立ち上がり深く頭を下げた。
そのお決まりの反応に私は内心でため息をつく。
――この組織が一枚岩なのは良いことだけれど、専制的な組織となっている現状もつけ込まれる要素になり得るわね……。
そう思ったまさにその時だった。
これまで議論を静観していたハロルドがおずおずと手を挙げた。
「あの、リリス様。つまり、夜道が大変危険だということですよね?」
「……まあ、そうなるわね」
「でしたら夜間の買い出しや緊急の御用事はこの俺にお任せください!辻斬りなど自慢のモップ捌きで撃退してみせます!そしてあなた様のためにいつでも温かい夜食をご用意いたしますとも!」
この男だけは、なんでいつもこうなのかしら……?
緊迫した空気の中で一人だけ違う次元にいる彼の存在。
それは腹立たしくもあり、そしてほんの少しだけ私の心を和ませる。
私は彼のズレた提案を無視すると、改めて幹部たちに向き直って告げた。
「調査を始めなさい」




