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開始のゴングが鳴るや否や、訓練場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「ぎゃあああああ!」
「降参、降参だ!命だけは……ぐふっ!」
護衛隊長が巨大な戦斧を振るうたびに貧弱な応募者たちが木の葉のように吹き飛ぶ。
手加減の一切ない攻撃に脱落者が続出した。
「む、無理だ」
「悪役令嬢の婿になるってのはこれほどに過酷なのか!」
結局、生存していた数名も我先にと逃げ出していく。
わずか半日で応募者が綺麗さっぱりいなくなり、後に残されたのは舞い上がる砂埃とリリスの部下たちの深いため息だった。
「なんということだ……。リリス様の伴侶たる器を持つ者はこの国には一人もいないというのか」
「嘆かわしい!実に嘆かわしい!」
部下たちが頭を抱えて天を仰いだ、まさにその時。
ガサガサッ、と訓練場の裏手にある森の茂みが大きく揺れた。
次の瞬間、そこに姿を現したのは――人間ではなかった。
三メートルはあろうかという巨大な熊。
その全身は艶やかな毛皮に覆われ、鋭い爪と牙がきらりと光る。
どうやら森の奥で冬眠から目覚め、蜂蜜の匂いにでも誘われて迷い込んできたらしい。
「「「く、熊だあああああああ!」」」
まだ遠巻きに様子をうかがっていた数名の応募者が悲鳴を上げて逃げていく。
完全に無人となった訓練場に熊と審査員たち、そして護衛隊長だけが取り残された。
熊はのっそりと巨体を揺らし、護衛隊長と対峙する。
その瞳に敵意はなく、ただ目の前に立つ巨大な人間を不思議そうに見つめているだけだ。
しかし、この異常事態をリリスの部下たちは独自の発想で解釈した。
「見ろ。あの熊を」
「ああ……他の腑抜け共が逃げ出す中、隊長の前に臆することなく立っている」
「あの威風堂々たる姿……!まさかこれも応募者の一人だとでもいうのか!?」
「なんと気骨のある瞳だ!あれこそ真の『覚悟』を持った者の眼差しではないか!」
行き過ぎた忠誠心は彼らの正常な判断能力を完全に麻痺させていた。
護衛隊長も目の前の熊を新たな挑戦者と認識し、戦斧を構え直し雄叫びを上げた。
「オオオオオオッ!!」
「グルルルルルッ!」
互いの咆哮がぶつかり合う。
意味が分からない模擬戦闘の火蓋が切って落とされた。
護衛隊長の戦斧が唸りを上げて振り下ろされる。
熊はそれを俊敏にかわし、鋭い爪で反撃した。
そんな人間対猛獣の壮絶な戦い。
しかし部下たちの目には『最終選考』にしか映っていなかった。
「素晴らしい!隊長と互角に渡り合っているぞ!」
「あの圧倒的な生存能力!そして敵を前に一歩も引かぬ忠誠心!」
「第二次審査の『幹部の首級』などあの爪にかかれば造作もなかろう!」
十分後、激しい攻防の末に両者は共に疲労困憊して倒れていた。
結果は引き分け。
しかし、部下たちにとってはそれは合格を意味した。
「決まりだ!リリス様の伴侶は彼しかいない!」
「異議なし!」
彼らは満場一致で採決するとすっくと立ち上がった。
「『最高の花婿』を丁重にリリス様の下へお連れするのだ!」
手練れの部下たちが疲れて動けない熊に一斉に飛びかかり、麻酔薬を染み込ませた網を投げかけてあっという間に捕獲した。
部下たちはその檻を意気揚々と担ぎ上げ、リリスが待つ屋敷へと向かうのだった。
◇◇◇◇
その頃、リリスは自室で一人で頭を抱えていた。
婚活の失敗、ウィリアムとの全面戦争。
問題は山積みだ。
――本当に、どうしてこうなるのかしら……。
コンコンと扉がノックされる。
「リリス様、失礼いたします。リリス様のために最高の者をお連れしました!」
部下が興奮を隠しきれない様子で報告する。
最高のもの?
リリスは眉をひそめつつも促されるままに応接室へと向かった。
部屋の中央には巨大な鉄の檻。
その中で一頭の黒熊がきょとんとした顔で座っている。
「……なんで熊?」
その、あまりに素朴な疑問。
その言葉を聞いた瞬間、あれほど熱狂していた部下たちの顔からサッと血の気が引いた。
彼らの頭の中では猛スピードで思考が回転する。
……あれ?
そういえば熊は……人語を解さないのでは?結婚なんてできないのでは?
そもそもリリス様と熊では生物種としての壁が……。
――熊は花婿にはなれない。
あまりにも当たり前の事実に彼らは今ようやく気がついた。
凍りついたように沈黙する部下たち。
その異様な雰囲気に、リリスは別の解釈を導き出してしまう。
「……ああ、なるほど。分かったわ」
リリスは一つ頷き、納得したように言った。
「私が最近気落ちしているように見えたから、これをペットとして献上しようと考えたのね。気を遣わせてしまってごめんなさい」
あまりにも慈悲深い勘違い!
部下たちは一斉に安堵の息を漏らし、リリスの誤解に全力で乗っかることに決めた。
「さ、さようでございます!さすがはリリス様!」
「この熊の、リリス様を癒すに足る忠誠心と愛くるしさを見抜いて我々が捕獲して参りました!」
彼らの必死の取り繕いに、リリスは内心で呆れ果てていた。
――ペットに熊を選ぶなんて、うちの部下たちは致命的にセンスがないわね……。
檻の中の熊は大きなあくびをしている。
その間の抜けた表情を見ていると、リリスのささくれた心も少しだけ和む。
「……いいわ。この熊は私がここで飼うことにするわ。名前は……そうね。蜂蜜が好きそうだから『ハニー』とでも呼びましょうか」
「は、ははっ!素晴らしいお名前です!」
部下たちの背中を滝のような冷や汗が伝う。
――真相が知られたら、我々の首が物理的に飛ぶ……!この熊を見るたび、胃が痛くなりそうだ……。
彼らは主君への忠誠心が招いたとんでもない失態を、生涯墓場まで持っていくことを固く誓った。
その日の午後、リリスは新しいペットの『ハニー』に餌をやる。
大好物だと勝手に思った蜂蜜をたっぷりとかけたリンゴを美味しそうに頬張る姿を眺めながら、リリスは小さく笑みをこぼす。
「ふふ、案外可愛いじゃない」
悪役令嬢の、少しだけ穏やかな日常。
その傍らには彼女のあずかり知らぬところで『最高の花婿』の座を勝ち取った、一頭の熊が寄り添っている。
最高の花婿は蜂蜜の香り…… 完




