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私の執務室に、王国全土を俯瞰する巨大な地図が掲げられていた。
「ふふ……面白いわ。実に、面白い」
口の端から、思わず笑みがこぼれ落ちる。
ウィリアム・マセリン。
『魔薬』という禁断の果実を手に、私が築き上げた秩序に牙を剥いた男。
私の思想と真っ向から対立し、それでいて私の知性を唯一対等に刺激する宿敵。
彼との出会いは私の乾ききっていた心に、奇妙な潤いをもたらしていた。
事業の拡大も、富の蓄積も、もはや私にとっては作業でしかない。
部下たちは私を崇拝し、敵対者は私の前にひれ伏すか、あるいは消え去るだけ。
そこにあるのは退屈な予定調和だけだ。
だが、ウィリアムは違う。
彼の存在は、私の日常に心地よい不協和音を奏でる。
この闘争には、純粋な悦びがあった。
「さて、ウィリアム。あなたの次の一手は、どこかしら?」
私は地図の上に置かれた駒――隣国の主要都市を示す黒曜石の駒を、指で軽く弾いた。
彼の目的は、我が王国を内側から崩壊させること。
そのために『魔薬』という劇薬を投じる。
だが、それだけでは足りない。
王国にさらなる混沌を生み出すには、国内の協力者が必要不可欠だ。
「あなたが王国につけ入るとすれば、まずは……ここね」
私の指が示したのは、王都から離れたいくつかの領地。
私の改革によって既得権益を奪われ、敵対心を残す旧貴族たちが治める場所。
いわゆる『旧貴族連合』
プライドだけは高いが、時代の変化に取り残された、憐れな者たちの集まり。
「彼らは私が王家と手を結び、その権力基盤を盤石にしたことを快く思っていない。ウィリアムが甘い言葉と共に接触すれば、喜んで尻尾を振って協力するでしょうね」
だが、所詮は烏合の衆。
彼らの経営がいかに非効率で、その領地がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているか。
私にとっては、全てお見通しだった。
「金融市場をわずかに揺さぶり、彼らの資金源を断つ。主要な交易路に新たな関税を設け、物流コストを意図的に高騰させる。同時に、彼らの領地で生産される特産品と競合する、より安価で高品質な商品を、私のルートで市場に大量に流す」
次々と、完璧な計画が私の頭の中で組み上がっていく。
ウィリアムが彼らと手を結ぶよりも早く、その経済基盤を叩き潰し、掌握する。
(結局、今までやってきたことと変わりはないわね。やるべきことを、やるだけ)
そう思うと、少しだけ退屈な気分にもなる。
しかし、その相手がウィリアムであるという事実が、この遊戯を特別なものに変える。
私の思考は冴えわたる。
次から次へと、彼の魔の手を阻むための罠を、蜘蛛の巣のように張り巡らせていく。
私の駒が一つ動くたび、ウィリアムはそれを読み、次の一手を打ってくるだろう。
その思考の応酬を想像するだけで、私の全身をぞくぞくとした興奮が駆け巡る。
これこそが、私が求めていたもの。
対等な相手との、知力を尽くした真剣勝負。
私は、満足げに一つ頷くと、完成した計画書に承認のサインを書き込もうとした。
その時だった。
ふと、私の動きが止まる。
地図の上の一点に目が行く。
それは私が先日、かの漁師ディノと出会った港町。
楽しかったバカンス。突拍子もない求婚。カジキマグロ。
連想が、連想を呼ぶ。
(……そういえば)
私の思考の歯車が、これまでとはまったく違う方向へと回り始めた。
(そもそも、どうして私はウィリアムと関わることになったのだったかしら……?)
発端は、あまりにも壊滅的な私の男運。
この国にはもはや、まともな伴侶候補はいないと絶望した私。
最後の望みをかけて、隣国の貴族である彼との縁談に踏み切った。
――それが全ての始まりだった。
つまり、この国家を揺るがす謀略戦は、元をたどれば私の婚活が拗れた結果に過ぎない。
完璧なはずだった計画の片隅に、まったく別の解決不能な問題が横たわっている。
そのことに、私は気づいてしまった。
ウィリアムとの関係は、「互いに破滅させ合う」という、恋文の皮を被った宣戦布告で終わっている。
結婚など、もはやあり得ない。
それどころか、今後の人生で彼以上の好敵手と、そして彼以上にまともな会話ができる男と出会える可能性は、限りなくゼロに近いだろう。
(……あれ?)
私の背筋を、冷たい汗が流れる。
(待って。それじゃあ、結婚に関しては……)
思考が、明後日の方向へと飛んでいく。
(何も、一切、解決していないじゃない……!)
その結論に思い至った瞬間、私の頭の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
先程までの鋭い眼光は消え失せ、代わりに絶望の色が浮かび上がる。
事業も、敵対組織の排除も、国家間の謀略も、全ては私の掌の上。
だというのに。
たった一つ、己の恋路だけが、巨大な暗礁に乗り上げたまま微動だにしていない。
どっと、鉛のような疲労感が全身を襲う。
私は、その場に崩れ落ちるように、重厚な執務机に突っ伏した。
ゴツン、と鈍い音が響く。
「…………」
部下たちが、何事かと息を呑む気配がした。
だが、今の私に、彼らを気遣う余裕など、もはや欠片も残されていなかった。
ああ、どうして。
どうして、こうなるの……
神よ、もしいるのなら教えてほしい。
私の男運は、なぜ、収支がマイナスにしかならないのかしら、と。
そんな、誰にも届かない心の叫びだけが、静まり返った執務室に虚しく響き渡っていた。




