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昨日、隣の檻の少年が静かになった。
骨が透けて見えるほど痩せた肩が、今朝はもう動かない。
私は藁の上で膝を抱え、ただ黙って腐った水の音を聞いていた。
ここに連れて来られてから何日経ったのか分からない。
灯りは魚の目玉のように青白く、時間の感覚を奪っていく。
――ぱしゃり。
水溜まりを踏む硬質な音が、奥の通路から近づいてきた。
闇市の看守たちは鉄底の長靴を履いている。
でも今日の足音はそれより軽く、規則正しい。
視界の隅に、真紅の――血よりも濃い赤――ハイヒールが映った。
すっと檻の前で止まり、淡い香水の匂いがよどんだ空気を切り裂く。
「ここの管理責任者はどこ?」
「も、もうすぐ参ります! リリス様が直々に視察とはつゆ知らず――」
「あなた方が『商品』をどう扱っているか、まずは自分の目で確かめに来ただけよ」
赤いドレスの令嬢。
鋭い目つきは、悪魔の遣いのようだ。
だが、冷たい光を宿しながらも、確かに「人」を見つめる眼だった。
「立てるかしら?」
突然、視線が私に向けられた。
咄嗟に立とうとして、鎖の重みで足首が引かれる。
女――リリスは看守に顎をしゃくった。
「鍵を開けなさい。彼女、連れて行くわ」
「で、ですが、まだ金を払っていない――」
「代金は後で私の経理が払うわ。……心配しないで。ここで死体になるよりは高い値を付けてあげる」
私は口が乾いて声が出ない。
リリスはしゃがみ、檻越しに目の高さを合わせた。
「名前は?」
声が震えて答えられない私を見て、彼女は小さく息を吐いた。
「喋らなくてもいいわ。――生きたい?」
私は首がもげそうなほど頷いた。
リリスは初めて微笑んだ気がする。
けれどその笑みは、夜明け前の月のように冷たかった。
「なら、私について来なさい。ただ、一つだけ覚えておきなさい。私の言葉に従うかぎり二度と鎖には繋がれない。けれど背いた瞬間、鎖より重い闇に沈むことになるわ。――いいわね?」
脅しと救済を一息で告げる声。
私はまた頷くしかなかった。
鍵が開く音。鎖が外される音。
足を踏み出した瞬間、膝が笑って倒れかけた私を、赤いドレスの袖が支えた。
私は彼女のハイヒールが跳ね散らす水飛沫を見つめる。
そして、心臓がまだ動いていることをようやく思い出した。
◇◇◇◇
――私はリリス・ヴォルテクス。
公爵令嬢にして裏社会最大手のフィクサー。
国家の歳入より桁が多い帳簿を日々回し、世界の物流と武力を片手で操る。
──が、当人はいま、書斎のカーペットにうつ伏せで転がる。
「恋って、収支がマイナスにしかならないわね……」
情けない独り言を漏らしてしまう。
失恋である。
前回の婚約者――勇敢を絵に描いたような伯爵家の次男フィリップ。
彼は私の仕事ぶりを目撃した瞬間、雪解けの兎のように跳ねて逃げ去った。
結局、「怖い」「重い」「命が惜しい」などと言って、皆逃げていくのだ。
あれから一か月。
毎朝のミーティングで部下が朗らかに報告してくる。
「敵対カルテル三社、昨夜まとめて解体完了です」
仕事の方は絶好調だ。
(……はあ、落ち込んだところで仕方ないわね)
さすがに多少は沈んだが、私も止まっていられない。
いつまでも気を抜いていては、足元をすくわれる。
――そう自分に言い聞かせつつ、日常タスクをこなしている最中だった。
「お加減はいかがですか、リリス様」
昼下がり、山積みの書類越しに執事が声をかけてくる。
「恋の赤字が解消しないどころか複利で膨らんでいるわ」
「それは……ご愁傷様です。でも黒字案件が一件」
執事は薄い書類束を差し出した。
封蝋には槍と開拓鎚の紋章――ニット伯爵家。
「新興伯爵家の次男、トーマス・ニット氏。開発途上の国境領を経済圏に育てたいとか。リリス様のネットワークにご興味があるそうで」
「ご興味、ねぇ」
書類をぱらりとめくる。
野心と線の細い筆跡が同居する手紙が入っていた。
『開拓には資本と流通が必要だ。あなたの赤いドレスを我が領土に迎えたい』
ニット伯爵家は、数十年前に急速に頭角を現した新興の貴族家。
国境沿いの荒れた領地を開拓し、実績を積み重ねた。
そして、ようやく伯爵位を認められた――そんな家柄だ。
今までの婚約者は裏を知らないまま近づいてきた。
そして、いざ私の真の姿を目の当たりにすれば逃げ出す……
しかし、トーマスは噂によれば「国境領を自分の理想郷に変えてやる」と豪語する大物。
特に、トーマスが抱いている『領地の大規模開発』の野心は有名だ。
自前の物流網と潤沢な資金を持つ私に興味を抱くのも、当然の流れかもしれない。
――むしろ、そういう大胆な男の方が、私と合うのかもしれない。
「面白いじゃない。最初から野心を隠さない人の方が、誠実に付き合えるかもしれないわ」
「お見合い日をいつに?」
「いつでも結構。どうせ夜は帳簿とにらめっこだもの。次は人間を眺めたいわ」
こうして、私はトーマスとの面会を受け入れた。