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数日後、王都でも最高級と名高いホテルのスイートルーム。
その一室が、私とウィリアム・マセリン侯爵の初顔合わせの場所に選ばれた。
私の屋敷でも、彼が借り上げた邸宅でもない、中立の場所。
その選定一つからも、彼の抜け目のなさが窺えた。
私の目の前でウィリアムが、穏やかな笑みを浮かべて座っていた。
「リリス様、本日はお時間いただき、誠に光栄です。あなた様が開発を主導された『魔導エンジン』と『魔導調速機』、我が商会でもいち早く輸入させていただきましたが。その革新性には驚かされるばかりですよ」
彼の声は、落ち着いていて、理知的だった。
社交辞令にありがちな空虚な響きはない。
純粋な商人としての興味と、技術への敬意が感じられた。
「光栄ですわ、侯爵。あなたの商才も、我が国では高く評価されております。変化の波をいち早く捉え、事業を拡大するその手腕、見事なものだと」
私もまた、ビジネスライクな微笑みで応じる。
探り合うような、それでいて心地よい緊張感が二人の間に流れた。
これまでの男たちとは違う。
彼は私のことを、ただの公爵令嬢としてでなく、対等な事業家として見ている。
(……悪くないわ。これなら、まともな会話ができそうね)
私の期待に応えるように、ウィリアムは本質を突く問いを投げかけてきた。
「あなた様の改革は実に興味深い。奴隷制度廃止に伴い、その労働力を魔導エンジンで代替する。そして教育を施し、より高次の『人材』へと転換させる。まさしく社会構造のトップダウンによる再設計。その大胆さと効率性には舌を巻きます」
「ええ。社会とは無駄なく管理され、安定した成長軌道に乗せるべきもの。放置すれば必ず淀み、腐敗しますから」
私の言葉に、ウィリアムは面白そうに唇の端を上げた。
「なるほど。実に合理的だ。けれど、リリス様。それは本当に『進歩』と呼べるのでしょうか?」
「と、仰いますと?」
「真の進歩とは混沌から生まれるもの。規制なき過酷な競争の中で、無数の挑戦と失敗が繰り返される。その中から淘汰の果てに生き残った一握りの『本物』だけが、時代を塗り替えるのです。あなた様のやり方は、確かに安定はするでしょう。しかし、それは予定調和の世界。予測不能な、爆発的なイノベーションは生まれにくい」
彼の主張は、私の経営哲学とは真っ向から対立するものだった。
私は、管理された庭園のように、全ての要素を完璧に配置し、無駄なく育てることを是とする。
彼は自然の荒野のように、弱肉強食の果てに最も強い種が生き残ることを是とする。
(面白い。けれど、気に食わないわね……)
私の内心のささくれを、彼は見透かしたように話を続けた。
「個人の自由についても、同じことが言えます。あなた様は、民に教育と職を与え、飢えや無知から解放した。それを『自由』と呼ぶのでしょう。しかし、それは安全な檻の中で与えられた自由に過ぎない」
「飢えや貧困に喘ぎ、明日の命も知れない状態が『自由』だとでも? 私は、彼らに選択肢を与えているのよ。生きるための、最低限の選択肢を」
「私が言う自由とは、『自己破産する自由』さえも許容する、完全な自己決定権のことです。成功して富を築くのも、失敗して全てを失うのも、全ては個人の選択と責任。国家や誰かが、そのセーフティネットを用意すべきではない。過酷な環境にこそ人間の真価は発揮されるのですから」
過剰な自由主義。
だが、その瞳には狂信的なまでの確信が宿っていた。
彼の論理は冷徹だが、一本の筋が通っている。
(いちいち腹立たしいことを言う男。でも、理解はできる。そして、何より退屈しないわ)
思わず、議論に熱がこもる。
人間の価値とは何か、という根源的な問いにまで話は及んだ。
「人の価値とは、時間をかけて育み、引き出すものよ。磨けば光る原石を見つけ出し、最高の輝きを与えるのが上に立つ者の務めだわ」
孤児たちを育て、組織の礎としようとしている私は言う。
ウィリアムは、しかし、静かに首を横に振った。
「いいえ、リリス様。価値とは、自ら証明するもの。競争の激流を泳ぎ切り、自らの力で対岸にたどり着いた者だけが、価値ある存在として認められる。泳ぎ切れなかった者は……ただ、沈むだけ。それが自然の摂理です」
――言葉の応酬。
それはまるで、知性という剣を交える決闘のようだった。
私たちの思想は、水と油のように決して交わらない。
けれど、互いの知性が放つ火花は、奇妙なほどに心地よかった。
こんな風に私と対等に渡り合える男など、この国にはいなかったから。
(面白い男。気に食わないけれど、私にないものを全て持っている。……婚約者としては、これくらい正反対の男の方が、案外うまくいくのかもしれないわね)
私は初めて、政略結婚の相手に個人的な興味を抱いている自分に気づいた。
私は彼との婚約を、前向きに進めることに決めた。
「ウィリアム様、あなたとの会話は、実に有意義でしたわ。前向きに今後のことを考えさせていただくわ」
会話の合間、夕日が彼の横顔を照らす。
その時、私はふと、彼の瞳の色に奇妙な違和感を覚えた。
聡明な光の奥に、どこか現実感のない、虚ろな色が混じっている。
その瞳は、まるで何かに依存し、陶酔しているかのようだ。
(この目は……どこかで……)
私の記憶の糸が、過去の光景を手繰り寄せる。
(そうだわ。地下の尋問室での捕虜の目に似ている……)
私は小さく首をかしげた。
焦点が合っているようで、どこか遠くを見ているような瞳。
自白剤を投与された人間の雰囲気に、どこか似ている気がしたのだ。
だが、それは一瞬のことで、彼の知的な微笑みの前に、その違和感はすぐに霧散してしまった。
こうして、何から何まで私と相容れない男との婚約の話は、私のささやかな好奇心に後押しされる形で、本格的に進められていくことになったのだった。




