4
私の計画は、なぜかことごとくリリス・ヴォルテクスの利益へと転化する。
この不条理な現実に、私の精神は限界まで磨り減っていた。
もはや、小細工は通用しない。
ならば、残された手段はただ一つ。
最も原始的で、そして最も確実な方法。
――暗殺。
あの女の心臓に、この手で直接刃を突き立てる。
それ以外に、この憎悪を晴らす術はない。
私はギルド時代に培った潜入技術の全てを動員した。
ヴォルテクス邸の警備網、護衛の交代時間、そしてリリス自身の生活パターン。
数週間をかけて完璧に分析し、一点の隙を見つけ出した。
月が雲に隠れた、闇の深い夜。
私は音もなく屋敷に侵入し、黒い影となって廊下を進む。
目的地はあの女の寝室。
懐には毒が塗られた短剣が冷たい光を放っていた。
寝室の扉の前で、私は深く息を吸う。
心臓が高鳴り、指先がわずかに震える。
だが、それは恐怖ではない。
復讐を成し遂げる直前の、武者震いだ。
静かに扉を開け、滑り込むように中へ。
天蓋付きのベッドに、確かに人影が見える。
(……終わりだ、リリス・ヴォルテクス!)
短剣を抜き放ち、ベッドへと飛びかかった、その瞬間だった。
「――待ちくたびれたわ、アンドレ・ケニー」
背後から、凍てつくように冷たい声が響いた。
ハッとして振り返ると、そこに彼女はいた。
寝間着姿ではなく、いつもの深紅のドレス。
優雅に椅子に腰掛けて。
まるで、最初から私が来ることを知っていたかのように。
部屋の四隅から、音もなく現れた護衛たち。
気づいた時には、私の四肢は取り押さえられた。
ベッドにいたのは、ただの身代わりの人形だ。
「な……ぜ……」
「なぜ、ですって? あなたが私の工房に入り込んだ初日から、全てお見通しよ。あなたのその陳腐な復讐計画もね」
リリスは、心底つまらなそうにため息をついた。
「新聞の原版すり替え、インクへの細工、偽情報の流布……。あなたの小細工は、全て私の部下が事前に察知し、私の利益になるよう『修正』してあげていたようよ。あなたの妨害工作は、結果的に私の事業をさらに発展させる、素晴らしい触媒になってくれたわ。感謝しないとね」
その言葉が、私の心を絶望の底へと突き落とす。
私の計画は、最初から彼女の掌の上で踊らされていただけなのだ。
「あなたでは、私の敵対人物にすらなり得ないのよ」
リリスはゆっくりと立ち上がる。
そして、私の前で、その冷たい指先で私の顎を持ち上げた。
その瞳に見下ろされ、私は身動き一つできなかった。
憎しみさえもが、その絶対的な存在感の前に凍りついていく。
「でも、あなたの技術力だけは素敵よ。それに、ジェームズをはじめ、工房の者たちが『彼を許してあげてほしい』と、涙ながらに嘆願してきたわ。部下たちの声は、無下にはできないの」
彼女は、悪魔のように、そして女神のように微笑んだ。
「だから、命だけは助けてあげる。代わりに――うちの組織で、一生働きなさい。いつでも私に復讐したくなったら、来るといいわ。その挑戦、何度でも受けてあげるから」
その宣告は、私にとって死よりも残酷な罰だった。
プライドは完全に打ち砕かれ、心がぽっきりと折れる音がした。
憎悪の炎は行き場を失い、代わりに、諦観と、理解不能な崇拝の念が私の心を支配し始めていた。
◇◇◇◇
――後世の歴史家たちは、アンドレ・ケニーの名を『印刷王』として記録することになる。
彼がジェームズ・ニットと共に作り上げた『全自動魔導式印刷機』は、情報伝達のあり方を根底から変え、王国に新たなる時代の幕開けをもたらした、と。
一部の文献では、その功績はフリード・アーバという謎の技術者との共同作業であったとも記されている。
しかし、どの歴史書にも『リリス・ヴォルテクスの悪事を暴き、地獄へ落とそうとした一人の復讐者であった』とは記されていない――
◇◇◇◇
数ヶ月後、リリスの執務室。
アンドレは――今は再びフリード・アーバとして、彼女の前に立っていた。
その瞳に、もはや憎悪の炎はない。
ただ、完璧な機械を追求する技術者の熱意だけが宿っている。
「リリス様、ご報告いたします。印刷機の新型安定化装置が完成しました。これにより、印刷速度はさらに三割向上し、インクの消費量も一割削減できます。つきましては、次期モデルの開発予算のご承認を――」
リリスは、その熱心な報告に目を通しながら、なんとも言えない表情で彼を見つめていた。
そして、アンドレが退出した後、ぽつりと独りごちる。
「もう少し歯ごたえのある男だったら、私も少しは魅力を感じたかもしれないわね……」
彼女はそこで言葉を切り、深く、深くため息をついた。
「でも、そもそも私を暗殺しようと寝室に忍び込んでくるような男は、恋愛対象ではなく、ただの排除対象よね……」
結局、彼の憎しみも、復讐心も、すべてはリリスの巨大な事業計画の中に溶け、新たな利益を生み出すインクへと変わってしまった。
彼女の恋愛損益計算書は、今日も静かに、その赤字を増やし続けているのだ。
……ふと、リリスは一つの可能性に思い至る。
ペンを置き、彼女は真剣な表情で思案を始めた。
(……待ちなさい。外から探してくるから、いつも失敗するのかもしれないわ。そもそも、私に釣り合うほどの器量と胆力、そして事業への理解力を持つ男性が、そう簡単にいるはずがない)
問題があるなら、解決すればいい。
市場にないなら、自分で作り出せばいい。
それはビジネスの基本だ。
(ならば……いっそ、私が育てればいいのでは?)
その考えは、まるで天啓のようにリリスの頭に閃いた。
有能な部下は、組織内にいくらでもいる。
彼らに帝王学を、経営術を、そして私の価値観を徹底的に叩き込む。
私の右腕として、あらゆる修羅場を共に潜り抜けさせ、精神を鍛えさせる。
そうして、最終的に私の隣に立つにふさわしいパートナーへと作り上げる。
(なんと合理的で、効率的な計画かしら……!)
ようやく見えた光明に、彼女の心はわずかに高揚する。
(案外、これがいちばんの近道かもしれないわね)
しかし、彼女はまだ気づいていない。
その完璧なはずの『理想のパートナー育成計画』は、彼女の恋路を閉ざす、マッチポンプになるということに。
彼女の圧倒的なカリスマと手腕を間近で見せつけられた部下たちが、最終的に彼女に抱く感情。
それは、恋慕や愛情ではなく、絶対的な主君への揺るぎない『崇拝』なのだ。
そして、崇拝の対象となった瞬間に、リリスの恋愛対象から除外されるという、残酷な真実。
悪役令嬢が、自ら未来の恋人候補を一人、また一人と「信者」に変えていく。
新たな悲喜劇の幕が上がるのだ。
――そして、そのことを、リリス自身はまだ知る由もなかった。
その憎しみはインクに溶けて消える…… 完
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
皆様が読んでくださり、温かい応援をいただけるおかげで、ここまで物語を続けることができております。
物語もそろそろ、まとまった分量になってきた頃かと思います。
もし「面白いな」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下の★マークから評価をいただけますと、作者として大変励みになります。
皆様からの評価が今後の執筆の大きな参考にもなりますので、ぜひお気軽につけていただけると嬉しいです。
これからも悪役令嬢の奮闘(と空回り)を、どうぞよろしくお願いいたします。




