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ニット伯爵の工房での日々が始まった。
『フリード・アーバ』という偽りの仮面を被った私は、水を得た魚のようにその才能を発揮した。
工房は活気に満ち、優秀な技師も揃っていた。
だが、私の完璧主義の目から見れば、無駄と非効率が散見された。
「この部品の研磨工程、公差が甘すぎる。これでは魔力の伝達ロスが生じる。工作機械の調整を寸分単位で追い込めば、ロスは0.5%以下に抑えられるはずだ」
「材料の搬入経路が冗長だ。あちらの壁を一枚取り払い、最短の動線を確保すれば、全体の作業効率は一割向上する」
私は、まるで呼吸をするかのように改善点を指摘し、具体的な解決策を提示する。
当初、古参の技師は突然現れた若造の指図に不快感を示した。
「口で言うのは簡単だ、若いの」
「我々は伯爵様と共にこの工房を築き上げてきたんだ。新参者がでかい顔をするな」
だが、私の設計通りに調整された機械が、これまでの記録を遥かに上回る性能を叩き出し始める。
すると、彼らの態度は驚き、そして尊敬へと変わっていった。
やがて、誰もが私の指示を仰ぐようになる。
ジェームズ伯爵は私の働きに全幅の信頼を寄せてくれた。
「フリード君、君が来てくれて本当に助かった。君の視点は我々が見過ごしていた部分を的確に照らし出してくれる」
彼の屈託のない賞賛の言葉に、私は内心で冷笑する。
(当然だ。お前たちが十年かけて築くものを、私は一年で完成させる。レベルが違うのだ)
リリスの懐刀であるこの男を手玉に取り、技術を根こそぎ奪い取る。
その優越感が、私の乾いた心にわずかな潤いを与えた。
工房での地位を確立した私は、ジェームズと本格的に『魔導式印刷機』の開発へと乗り出した。
それは、二人の天才による知性の激突だった。
「従来の歯車式では、高速回転時の振動を吸収しきれない」
「ならば、動力の一部を魔力流体ダンパーで振動を熱に変換し、主軸の回転を安定させるのはどうでしょう」
「なるほど、その発想はなかった……! だが、それには極小の魔力制御回路が……」
「ええ、その設計なら私の頭の中に。試作品を三日で組んでみせます」
寝食も忘れ、私たちは議論を重ねて試作を繰り返した。
ジェームズの柔軟な発想と、私の設計能力。
二つが噛み合った時、開発は驚異的な速度で進んでいった。
彼と技術について語り合う時だけは、復讐の炎が和らぐのを感じた。
ただ純粋に、より高みを目指す技術者としての喜びに満たされる。
(……もし、あの女に出会わなければ。私も、こうして純粋な探求の道を生きていられたのか)
一瞬よぎった感傷を、私はすぐに首を振って打ち消す。
これは復讐だ。
感傷に浸っている暇などない。
この印刷機はリリスを内側から破壊するための兵器なのだから。
◇◇◇◇
開発が最終段階に差し掛かったある日、工房に緊張が走った。
リリス・ヴォルテクスが、直々に進捗状況を視察しに来るという。
(……来るか)
私の心臓が、憎悪と、そして得体のしれない感情に高鳴る。
工房の入り口に、一台の豪奢な馬車が滑り込む。
そして扉が開き、彼女は現れた。
深紅のドレスが、埃っぽい工房の中で、異様なほどの存在感を放っていた。
噂に違わぬ絶世の美貌。
だが、それ以上に私を射抜いたのは、彼女の瞳だった。
すべてを見透かし、値踏みするような、絶対的な支配者の瞳。
彼女はジェームズから報告を受けながら、巨大な試作機の前をゆっくりと歩く。
その場にいる誰もが、彼女の威圧感に息を呑んでいた。
「ジェームズ。報告は受けているわ。開発は順調のようね」
「は、はい。これも、新しく加わってくれたフリード君の力が大きく…… この機械があれば、これまで一部の富裕層に独占されていた知識や物語を、多くの民に安価で届けることができます!」
ジェームズが誇らしげに、そして熱っぽく語る。
促され、私はリリスの前へと進み出た。
彼女の視線が、初めて私に注がれる。
「あなたが、フリード・アーバ。話は聞いているわ。素晴らしい才能だそうね」
声には何の感情も乗っていない。
ただ、事実を確認するかのような、冷たい響き。
私は憎しみを押し殺し、深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です、リリス様」
リリスは私からすぐに視線を外し、再び試作機へと向き直る。
そして、ジェームズの理想論を肯定も否定もせず、静かに告げた。
「素晴らしいわね、ジェームズ。でも、これはただの本を作る機械ではないわ。――この機械で、新聞を刷りなさい」
「新聞、ですか? それも良いですが、まずは物語や詩集などを……」
「違うわ」
リリスは、子供に言い聞かせるように、しかし有無を言わさぬ口調で言葉を続けた。
「毎日発行するのよ。夜間に印刷し、夜明け前には王都の隅々にまで配り終える。載せるのは、最新のニュース、市場価格、海外の情勢。そして、我が組織の広告よ」
その言葉に、私とジェームズは息を呑んだ。
彼女が見ているのは、機械そのものの性能ではない。
その先にある、巨大な情報の流れだった。
「この機械の本当の価値は、知識を広める慈善事業ごっこじゃないわ。『情報の鮮度』を支配することよ。情報を制する者が市場を制するの」
彼女は、まるで完成した事業計画書を読み上げるように、淡々と続ける。
「一部あたりの印刷コストを正確に算出しなさい。インク、紙、魔鉱石の消費量から割り出して。本格的な量産体制に入れば、コストは現状の十分の一以下になるはず。そのための供給ルートは、今すぐ私の部署と連携して確保すること。刷り上がった新聞を夜明け前に配るための、専用の配送網も構築しなさい」
息つく間もない指示。
それは、技術者である我々が思いもよらなかった、経営者としての冷徹な視点。
「購読料で儲けるつもりはないの。新聞は、最初は赤字でいいわ。私たちが本当に売るのは、紙そのものではなく『広告枠』よ。この新聞が王都の情報網を掌握した時、ありとあらゆる商人が、喉から手が出るほど、この紙面に広告を載せたいと願うようになる。その広告費で、初期投資は一年もかからずに回収できるでしょう」
――その瞬間、私は理解した。
私やジェームズが「革新的な機械」という一点を見ていた。
それに対し、この女は、印刷機を中心とした「支配システム」をとっくに設計し終えていたのだ。
その圧倒的な構想力のスケールに、私は戦慄した。
憎い。
この女が、私のすべてを奪ったことが、死ぬほど憎い。
だが、同時に。
その計り知れない知性と支配者としての器に、どうしようもなく惹かれている自分がいた。
美しい芸術品を自分の手で壊してみたいと願うような、歪んだ破壊衝動。
神の如き存在を地に引きずり下ろし、支配してみたいという、冒涜的な欲望。
憎しみと憧れが溶け合った、倒錯した感情が私の中で渦を巻く。
(ああ……なんということだ……)
私はこの悪魔のような女に、心まで囚われようとしているのか。
リリスは私の内心の葛藤など知る由もなく、満足げに頷いた。
「いいわ。来週から新聞の第一号を発行なさい。これは命令よ」
そう言い残し、彼女は嵐のように去っていった。
一人残された私は、激しい混乱の中で立ち尽くす。
復讐の炎は、より一層、複雑な色を帯びて燃え上がっていた。
(そうだ、これは憎しみだ。この感情のままに、お前を破滅させてやる)
必死に自分に言い聞かせる。
だが、心の奥底で。
彼女の冷たい瞳に、もう一度射抜かれたいと願う自分がいることに。
気づかないふりをすることしかできなかった。




