アイドルは魚群と共に悪夢を見るか
――僕はアレクシス・ドラクール。
第六王子だが、今やその肩書に意味はない。
今の僕は、リリス・ヴォルテクス様という絶対的な支配者の下。
かろうじて生きることを許された『アイドル』だ。
思い出すだけで顔から火が出る。
あの夜会でのあまりにも愚かで、浅はかな行動。
ステラこそが僕にふさわしいなどと、一体何を根拠に思い上がっていたのだろうか。
リリス様が裏で進めていた、王国とヴォルテクス家の未来を繋ぐ壮大な計画。
その複雑な歯車の仕組みなど、当時の僕には理解できるはずもなかった。
ただ、目先の感情だけで、すべてを台無しにしかけたのだ。
倉庫に打ち捨てられ、本物の『置物』にされる恐怖に震えていた僕。
リリス様は再び日の当たる場所へと引き上げてくださった!
もちろん、それは無償の慈悲などではない。
僕は彼女の意のままに動く広告塔。
彼女の事業を潤わせるための、美しい偶像。
ーーだが、それでいい。それがいい。
あの暗く、冷たい倉庫を思えば、役目があるだけ遥かに幸福だ。
リリス様の部下たちは「リリス様の寛大なお心に感謝して働くことですね」と言う。
その通りだ。僕は生まれ変わった。
リリス・ヴォルテクス様への感謝と奉仕。
それこそが、今の僕のすべて。
そんなある日、僕に新たな指令が下った。
リリス様が先日、支配下に置いた港町。
そこの遠洋漁業を宣伝するための広告塔となれ、という。
「殿下が漁船に乗り込み、漁を体験していただきます。そのお姿を絵画とし、王都中に貼り出すのです」
説明に来たリリス様の部下は、淡々と、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
断るという選択肢は、僕の頭には存在しない。
数日後、僕はその港町にいた。
活気に満ちた波止場で僕を迎えてくれたのは、日に焼けた、やけに陽気な男だった。
「あんたが噂の王子か!俺がこの船の船長で、この辺りの領主を任されてるディノだ!よろしくな!」
彼はそう言って、僕の肩を乱暴に叩いた。
その気安さに少し戸惑ったが、彼の目には裏表のない光が宿っている。
きっと、リリス様がその実直さを見込んで抜擢したのだろう。
ディノは船首に立ち、ニカッと歯を見せて笑った。
「ようし、野郎ども! 今回の獲物はカジキマグロだ! 今回も大漁で帰るぞ!」
「「「オオオッ!!」」」
乗組員たちの野太い雄叫びが、青空に響き渡る。
その熱気に、僕も少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
――しかし。
船が出航し、陸が遠ざかっていくにつれて、僕は言いようのない違和感に包まれていた。
甲板で黙々と作業を続ける一部の乗組員たち。
彼らの顔には、ディノのような陽気さはない。
誰もが俯き、その目には光がない。
彼らは本当に漁師なのだろうか?
船内を満たす活気とは裏腹に、彼らが放つ空気は、どこか冷たく、そして重かった。
僕の背筋を、冷たい汗がゆっくりと伝っていく。
◇◇◇◇
沖へ出てからの数日間は地獄だった。
絶え間なく揺れる船体が僕の三半規管を容赦なく揺さぶる。
胃の中のものを全て吐き出し、青白い顔で呻く僕をディノは腹を抱えて笑った。
「情けねえな、王子様! だが、漁場に着く頃には慣れるさ!」
その言葉通り、三日も経つ頃には、僕の体もようやく揺れに順応し始めていた。
そして、漁場に到着した日の、夜明け前。
「起きろ王子! 仕事の時間だぜ!」
ディノの怒声に叩き起こされ、眠い目をこすりながら甲板へと向かう。
まだ夜の闇が色濃く残る海上は、肌を刺すように冷たい。
漁師たちが、黙々と網や釣り竿の準備を進めていた。
僕も言われた通りに配置についた。
――その時だった。
僕の隣に、ぬっと怪しい影が立った。
見上げると、そこにいたのは、およそ人間とは思えぬ顔をした男だった。
その顔は悪意のある子供が粘土をこねくり回したかのように、不自然に歪んでいる。
引きつった皮膚には、所々に縫い合わせたような痛々しい痕。
何より恐ろしいのは、その瞳だ。
感情というものが完全に抜け落ち、ただ虚ろな闇が広がっている。
彼はしゃべらない。
そして、僕を一瞥だにせず、ただ機械のように、黙々と釣り糸の準備を始めた。
「ひ……っ」
僕は声にならない悲鳴を上げ、後ずさりそうになる。
だが、逃げる場所などありはしない。
恐怖に震えながら、僕は反対側に視線を向けた。
すると、そこには見覚えのある顔があった。
(あ……あれは、確か……ギアフォード侯爵!?)
かつてリリス様と結婚しようとしたらしい、時計屋のクロヴィス侯爵だ。
見る影もなくやつれ果て、その顔は深い絶望に刻まれている。
彼は震える手で釣竿を握りしめながら、呪文のように同じ言葉を繰り返していた。
「早く……早く釣らないと……。時間が……警告音が鳴ってしまう……早く……」
彼のその姿は、もはや不気味ですらあった。
すると、クロヴィスの懐から、けたたましい金属音が鳴り響いた。
――ジリリリリリリリッ!
懐中時計のアラーム音だ。
その音を聞いた瞬間、クロヴィスは顔を恐怖に歪ませ、絶叫した。
「うぁあああああああああッ!!」
彼は錯乱したように暴れ出し、バランスを崩して海へと転落しそうになる。
その体を、しかし、隣にいた別の漁師が何の感情も見せずに淡々と引き上げた。
「うるせえぞ、クロヴィス。てめえの悲鳴は聞き飽きた」
「獲物が逃げるだろうが」
周囲の漁師たちも、気にするそぶりすら見せない。
甲板に突っ伏し、嗚咽を漏らすクロヴィス。
その横で、機械のように作業を続ける、顔の歪んだ男。
彼らを取り巻く、生気のない一団。
僕はその光景を前に、ただ立ち尽くす。
恐ろしい。
ここは、漁船などではない。
――地獄だ。
リリス様に逆らい、その怒りを買った者たちが送られる、海上の流刑地。
彼らはここで過去の罪を永遠に償い続けるのだ。
僕も、一歩間違えれば、彼らの仲間入りをしていたのかもしれない。
そう思った瞬間、僕の全身を、骨の髄まで凍りつかせるような恐怖が駆け巡った。
陸に帰った僕は、心身ともに疲れ果てていた。
しかし、休む間もなく、広告の打ち合わせが待っている。
絵師が描いた、漁に挑む僕の肖像画。
その横に添える、キャッチコピーを考えるように言われた。
僕はペンを握りしめる。
脳裏に浮かぶのは、あの地獄の光景。
そして、僕は自らの体験を、ありのままに紙へと書き記した。
数日後、王都の街角に、その広告は貼り出された。
そこには、こんなうたい文句が書かれていた。
『求む、危険を顧みぬ男。酷寒、長い暗夜、絶えざる危険、無事帰還の保証なし――成功すれば膨大な報酬と名誉を得る』
広告の文案を確認したリリスの部下たちは、揃って頭を抱えた。
「こんなんで人が来るか! 『無事帰還の保証なし』などと書けば、誰も応募して来ないぞ!」
「そうだ! もっと夢のある言葉にすべきだ!」
担当者たちの悲鳴にも近い進言を、しかし報告を受けたリリスは一蹴したと聞く。
「面白いじゃない。そのまま出しなさい」
当初、誰もがこの広告の効果を疑った。
こんな脅し文句のような求人に、一体誰が応募してくるというのか、と。
――しかし、蓋を開けてみれば、事態は予想の斜め上をいった。
広告が貼り出されてから数日後。
ディノが治める港町には、いつしか長蛇の列ができていた。
片目を失った元傭兵。
家を勘当された貴族の三男坊。
多額の借金を抱え、明日の命も知れない商人。
そして、危険な賭けにこそ魂が燃えるという、瞳の奥に狂気を宿した冒険者たち。
まさに、危険を顧みない荒くれ者たちが、最後の希望を求めて集まってきたのだ。
彼らの殺気立ったような熱気を見て、ディノは腹の底から豪快に笑った。
「はっ! 面白ぇ! やる気のある命知らずが、こんなにいやがったか!」
――こうして、王子が恐怖のあまり書きなぐったこの広告は。
結果的に、危険な遠洋漁業に最もふさわしい人材だけをふるいにかける。
そんな「伝説の求人広告」として、後世まで長く語り継がれることになるのであった。




