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翌朝。
朝食の時間を、遠くから近づいてくる騒ぎが打ち破った。
漁師たちの歓声と私の護衛たちの短い悲鳴が入り混じっていた。
「リリスー!見てくれよ!」
ディノがこちらへ向かって猛然と突進してくる。
――その肩には、彼の身の丈ほどもある巨大なカジキマグロ。
朝日を浴びてきらめく銀色の魚体がまるで巨大な槍のように空を切る。
近くでテーブルの準備をしていた給仕が「ひぃっ」と悲鳴を上げて飛びのいた。
そんな混乱など意にも介さずに、ディノは私の目の前でカジキマグロを誇らしげに掲げてみせた。
「これが俺の婚約指輪だ!さあ、受け取ってくれ!」
まさかの宣言だった。
あまりの突拍子のなさ。
彼の満面の笑みとのギャップ。
私はこらえきれず腹を抱えて笑ってしまった。
「ふふ……あははは!婚約指輪は指にはめるものよ。魚の顎に指をはめる趣味はないわ」
涙を浮かべながら笑い終えるよりも早く、ディノが一歩踏み込んできた。
そして私の反応などお構いなしに。
――その勢いのまま、私の頬にキスを落とす。
塩気と潮の匂いがふっと鼻をかすめた。
「俺は本気だぜ!」
至近距離で告げられた真っ直ぐな言葉。
日焼けした顔に浮かぶ真剣な笑顔。
思わず私の心臓が跳ねていた。
これまでの男たちとは違う何の裏もない純粋な好意が、乾ききっていた私の心にじんわりと染み渡る。
――結婚は無理でも……愛人としてこの港町に囲っておくくらいなら可能性は……?
そんな私らしからぬ邪な考えが脳裏をかすめた、まさにその瞬間だった。
「リリス様に何やってやがる貴様ぁ!」
「万死に値するぞこの下郎が!」
「海に沈めてやる!!」
物陰に控えていた私の護衛たちが文字通り、一斉に飛び出してきた。
彼らは鬼の形相でディノに飛びかかり、巨大なカジキごと砂浜に押し倒すとあっという間にディノは荒縄でぐるぐる巻きにされる。
その脚には船の錨らしき重りまで括りつけられていく。
巨大な魚と縛り上げられた漁師が今まさに海に投棄されんとしている。
そのシュールな絵面は私の茹だった頭を強制的に冷却するには十分すぎた。
「ま、待ちなさい!カジキマグロに罪はないから!」
我ながら意味の分からないことを言っている自覚はある。
「リリス様のご命令だ、手を止めろ!」
護衛長の号令で辛うじて処刑寸前の騒ぎは収まる。
浜辺には縄で縛られたまま転がるディノと打ち上げられたカジキの影。
私は額を押さえながら、深い、深いため息を吐いた。
……でも冷静に考えれば、やっぱり婚約指輪代わりにカジキマグロを持ってくるような男は頭がおかしいわよね。
頬に残る感触はまだ熱い。
けれどそれ以上に現実が冷たい。
心地よい潮騒が私の笑い声と、ほんの一瞬芽生えた淡い感傷をさらって行った。
――こうして私の一時の気の迷いはマグロと共に海へと沈んだのだった。
◇◇◇◇
結局、私の短いバカンスの最終日には領主の椅子は空席となった。
彼は莫大な負債を抱えたまま王家からも正式に更迭される。
そして私の組織が管理する、二度と浮かび上がることのない「債務者リスト」の片隅にその名を静かに連ねることになった。
「領主の後任?俺でいいのか?」
砂浜でようやく縄を解かれたディノが目を丸くして私を見ている。
「俺には資産も後ろ盾もねぇ。あるのはこの海の知識と、漁師の仲間だけだ。それでもいいのか?」
「だからあなたを選んだのよ。私が欲しいのは肩書や血筋ではないわ。この港を誰よりも知り尽くして動かせる人間。ただそれだけよ」
私の言葉にディノはきょとんとしていた。
しかし、やがて豪快に笑うと太陽に向かって腕を突き上げた。
「はっ面白ぇ、やってやるぜ!このディノ様が王国一の港にしてみせる!」
こうして漁師あがりの彼が新領主となった。
彼の仕事は早かった。
まず取り掛かったのは、麻痺していた物流の復旧だ。
私の商船隊を港に横付けさせ、穀物や日常必需品を採算度外視の底値で領民に放出した。
表向きは「ディノ新領主がその人脈を活かして、海外から調達した救援物資」という扱いだ。
暴動寸前だった領民たちの不満は新領主への感謝と期待へと変わる。
「ディノ……いや領主様、これほど早く物資が届くとは……!」
「ありがたい。今夜から子どもに腹一杯の粥を食べさせてやれます」
……我ながらひどいマッチポンプではあるが結果が全てだ。
寄せられる感謝の言葉にディノは照れくさそうに鼻の頭をこすっていた。
次に人手不足に喘いでいた遠洋漁業の立て直しに手を打つ。
――危険が伴い、誰も行きたがらない未開の漁場。
そこに私の『債務者』たちを労働力として送り込む仕組みを敷いた。
「連中に借金を返す機会を与えてやりなさい」
借金漬けになっていた元貴族や事業に失敗した商人が次々と漁船へと送り込まれる。
そして、驚くほど早く結果は出た。
ディノの的確な船団配置と漁場を見極める天性の勘により、漁獲高はわずか数ヶ月で倍以上に膨れ上がった。
さらにディノは実績を上げた者には、惜しみなく報酬を支払う主義だった。
「借金の金利だぁ?そんなもんは海に捨てちまえ!稼いだ分は好きに酒でも飲んでぱーっと使いやがれ!」
大声で笑う陽気で気前のいい領主。
最初は怯えていた債務者たちも次第にその肩の力を抜き、やがて心からの忠誠を誓うようになっていった。
一年もしないうちに港は水揚げされた魚で溢れかえった。
活気に沸く港では魚の加工場と新たな市場の建設が同時進行で進められる。
暴落していた真珠も、私の組織が確保した新たな海外流通経路に乗せることで価格は徐々に安定へと向かっていた。
かつて寂れていた港町は、リゾートと海産物という二本柱の産業で見事に息を吹き返したのだ。
◇◇◇◇
「陛下より感謝状が届いております。『領地の港湾整備と航路開拓は我が王国にとっても重要な外交の玄関口となった』とのことです」
王都の執務室に戻った私に部下が嬉しそうに報告書を読み上げる。
海産物と真珠で潤うかの領地は今や王国でも有数の国際港湾。
悪くない成果だった。
「それからリリス様。かのリゾート地を『最後の一攫千金の地』だと噂する者たちが王都で増えているようです」
別の部下がそっと耳打ちしてくる。
多重債務者たちが人生の一発逆転を夢見て、進んで漁船に志願しているらしい。
――組織にとっては不良債権を処理する格好の受け皿ができたわけだ。
これもまた、悪くない。
私は書斎の片隅に置いたバカンス用に選んだつばの広い帽子に目をやる。
ディノの、あの真剣な顔を思い出す。
今でも少しだけ、頬が熱くなるような気がした。
「……なんだか、休暇のつもりが、結局少し仕事をしてしまったわね」
誰に聞かせるでもなく言い訳のようにつぶやき、私は小さく肩をすくめるのだった。
恋はマグロと共に海へ沈む…… 完




