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――私はリリス・ヴォルテクス。
裏社会にその名を轟かせ、国家経済さえ片手で回す公爵令嬢。
そして、現在進行形で、とてつもないフラストレーションを抱えている女でもある。
原因は、言うまでもなく、私の壊滅的な男運だ。
先日の第六王子アレクシスとの一件は、その最たるものだった。
王家の体面とヴォルテクス家の権力バランスを取るための、純粋な政略結婚。
愛だの恋だのというものを一切排除した、ビジネスライクな契約のはずだった。
それが、どうだ?
蓋を開けてみれば、婚約発表の夜会で王子から婚約破棄されるという前代未聞の茶番。
その尻拭いのために、私はどれだけの労力を割いたと思っているのか。
首都機能を完全停止させてしまった部下たちの手綱を締め直し。
王家と『円満和解』のシナリオを書き上げ。
激怒する国内外の取引先をなだめすかし。
そして王子を『アイドル』としてデビューさせる。
広告塔として彼の美貌を活用し、結果的にさらなる利益を生み出してしまった。
もはや私の経営手腕が呪いの域に達しているとしか思えない。
「リリス様の慧眼、恐れ入ります! まさか王子を広告塔に据えることで、これほどの経済効果が生まれようとは!」
部下たちは手放しで私を賞賛するが、私の内心はちっとも晴れない。
事業が拡大すればするほど、私の個人的な幸福からは遠ざかっていく。
この巨大な組織と富は、私の周りに見えない壁を築き、まともな人間関係を阻害するばかりだ。
「はあ……」
執務室の窓から青空を眺めながら、何度目かの溜息が漏れる。
こんな天気の良い日に、書類の山に埋もれていたくはない。
誰かと穏やかなティータイムでも過ごしてみたいものだ。
もちろん、爆薬指輪を仕掛けてきたり、婚外子がいたり、挙句の果てに婚約破棄を叩きつけてくるような相手ではなく……
そう、ごく普通の、常識を持った男性と。
しかし、なぜか今の私にとってはファンタジーの世界でしか実現しそうにない……
そんな願望に浸っていた、まさにその時だった。
コンコン、と執務室の扉が控えめにノックされる。
「リリス様、失礼いたします。先月のアイドル事業の収支報告、並びに、ハロルドクリーンカンパニーとの連携による新規事業計画についてご報告が」
入ってきたのは涼やかな顔で分厚い書類を抱えたハロルド・エイムズ。
私の組織のフロント企業代表として、今や誰もがその手腕を認める男だ。
その彼が、完璧な報告を終えた後、必ず付け加える余計な一言。
その言葉が発せられる前に、ピシャリと遮ろうとした。
しかし、彼の方がわずかに早かった。
「――つきましては、リリス様。そろそろ俺を、あなた様の『主夫』として正式に雇用してはいただけないでしょうか?」
――来た。
満面の笑みで、彼はそう言い切った。
その瞳には、事業への野心など微塵もない。
ただひたすらに「主夫になりたい」という純粋かつ場違いな願いだけが宿っている。
その瞬間、私の頭の中で、張り詰めていた最後の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「……っ!」
私は勢いよく椅子から立ち上がると、重厚な机を力任せに両手で叩きつけた。
――バンッ!!
静まり返った執務室に、乾いた破壊音が響き渡る。
積まれていた報告書の山が崩れ落ち、インク瓶がカタカタと震えた。
突然の私の行動に、ハロルドはもちろん、控えていた他の部下たちも困惑。
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。
そんな彼らの驚愕を、私は一瞥のもとに切り捨て、声を張り上げた。
「決めた! もう、バカンスに行くわ! 長期バカンスよ!」
私の絶叫に、執務室の空気は完全に凍りついた。
誰もが、私が何を言っているのか理解できない、という顔をしている。
最初に我に返ったのは、私の側近の一人だった。
「り、リリス様……? バカンス、と仰いましたか……?」
「ええ、そうよ! 聞こえなかったの!?」
「い、いえ、しかし、それでは現在進行中の事業投資のご判断などは、どのように…… 隣国との新たな交易ルートに関する最終決裁も……」
部下が慌てふためきながら、緊急性の高い案件を矢継ぎ早に口にする。
だが、今の私の耳には、そんなものは馬の耳に念仏だ。
「そんなの、多少待たせても問題ないわよ! 私が数日いないくらいで傾くような脆弱な事業なら、こちらから願い下げだわ!」
私は強引に、しかし有無を言わせぬ迫力で告げる。
「というわけで、私、明日からバカンスに行くから。後のことはあなたたちが上手いことやっておきなさい」
私のその無茶苦茶な宣言に、部下たちは顔面蒼白。
彼らがさらに何か言い募ろうとした、その時。
これまで呆気に取られていたハロルドが、ぱあっと顔を輝かせて一歩前に出た。
「待ってください、リリス様! 一人だけでバカンスだなんて、うらやましい! 俺も連れて行ってください! 旅先での身の回りのお世話から、お食事の準備まで、完璧にこなしてみせます!」
この期に及んで、まだそんなことを言うのか。
私の怒りのボルテージは、ついに振り切れた。
「あなたが来たら、私が休めなくなるでしょうが!!」
魂の底からの叫びだった。
私のその一喝に、さすがのハロルドもしょんぼりと黙り込む。
こうして、半ば強引に、私の電撃的な長期休暇は決定されたのだった。
◇◇◇◇
(行くなら、やっぱり海よね……)
自室に戻り、旅支度を始めながら私は一人ごちる。
これまでの心労、男運のなさ、事業の重圧。
そういった心に溜まった澱のようなものを、すべて海の塩水で洗い流したい。
燦々と降り注ぐ太陽の下で、ぼんやりと過ごしたい。
行き先として選んだのは、王都から馬車で数日ほどの距離にある。
遠い海辺の、風光明媚な保養地だ。
漁業と、そして良質な真珠の養殖でそこそこ潤っている領地だと聞いている。
一年を通じて温暖な気候。
どこまでも続く、白く美しい砂浜。
水揚げされたばかりの新鮮な魚介類。
そして、エメラルドグリーンに輝く穏やかな海。
王族や高貴な身分の者たちも、お忍びでたびたび訪れる極上のリゾート。
そこならば、私のささくれた心も癒されるに違いない。
何より私の組織の影響力が比較的薄い地域だ。
そこでならば、面倒な仕事の報告や間の抜けた求婚に悩まされることもないだろう。
軽やかな素材のドレスやつばの広い帽子、そして最新デザインの水着。
これらを次々と引っ張り出す。
仕事の書類は一冊も入れず、バカンスを楽しむための道具だけを詰め込ませる。
その作業は、ここ最近のどんな仕事よりも私の心を躍らせた。
最小限の護衛だけを連れ、翌朝早くに屋敷を後にした。
すべてを放り出し、ただ自分のためだけに時間を使う。
その解放感に私の胸は期待で大きく膨らんでいたのだった。




