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私はすぐに王宮と連絡を取った。
筆頭文官を交渉相手に指名した。
そして、話は驚くほどスムーズに進んだ。
私が提示した資産譲渡の計画書を、文官は数時間で完璧に理解した。
王家の利点を最大化するための修正案まで提示してくる。
「これなら安心してお任せできるわ」
「もったいないお言葉。リリス様の構想の壮大さに、我々も身が引き締まる思いです」
ようやく、まともな人間と会話ができた。
私は胸をなでおろす。
王子と令嬢のことは記憶の片隅に追いやることにする。
彼らには優秀な文官をつけてもらって、極力放置する方針を固めた。
これで、面倒ごとはすべて回避できるはずだった。
そんな折、文官との最終打ち合わせの席で、思いがけない話を聞かされた。
「実は、アレクシス殿下が、リリス様との婚約発表を祝う、盛大な夜会を企画しておられまして……」
「……夜会?」
「はい。殿下自ら、招待客のリストアップから会場の装飾まで、精力的にご準備を……」
なぜ?
私の思考が、またしても疑問符に支配される。
政治にも経済にも一切興味を示さなかったあの王子。
なぜ、ただの形式的な婚約発表に、そこまで情熱を傾けるのか。
理解不能だったが、止める理由もない。
主導権をこちらが奪い取り、すべてを仕切り直すのは簡単だ。
しかし、それでは彼の小さな自尊心を傷つけるかもしれない。
(……まあ、いいわ。せっかくのやる気を削いではかわいそうだし)
私はそう思い直し、文官に王子のサポートを指示するに留めた。
その裏で、私は着々と利権と資金の移譲に向けた、最終準備を進める。
◇◇◇◇
そして、パーティー当日。
王宮のホールは王子の指示だという煌びやかな装飾で彩られる。
そして、多くの貴族たちで賑わっていた。
序盤は、驚くほど和やかに進行する。
アレクシス王子は、その完璧な美貌を武器に、主役として堂々と振る舞う。
私は安堵の息を漏らした。
――しかし、その安堵は、一瞬で霧散した。
王子が、おもむろにステラ嬢の手を取り、自分の隣へと侍らせ始めたのだ。
パーティーの趣旨を知っている参加者たちが、ざわめき始める。
皆が「ん?」という顔で、二人を、そして私を交互に見ている。
嫌な予感が、冷たい手で私の心臓を掴んだ。
(……まさか、この場でステラ嬢を第二妃にでも指名するつもり? そのために、このパーティーを精力的に企画していた、というわけ?)
そう考えると、彼の行動にも一応の筋は通る。
だとしたら、世間知らずで、私を軽んじたやり方だが。
(まあ、そうだとしても、もう仕方ないわね。私も放置していたし、深く関わる気もないし……)
私は半ば諦めて、グラスに口をつけた。
その瞬間、アレクシス王子が、ホールの中央で高らかに声を張り上げた。
「リリス・ヴォルテクス! お前との婚約は、今夜限りで破棄させてもらう!」
シン、とホールが静まり返る。
私の手の中で、グラスがピシリと音を立てたようだった。
(え……? 婚約の発表もまだ正式にしていないのに、破棄された!?)
意味が分からず混乱する私を置き去りにして、王子はさらに続けた。
「そして!」
彼はステラ嬢の肩を抱き寄せ、勝利の宣言のように叫ぶ。
「ステラ・ロワーヌと正式に婚約を結ぶことをここに誓う! ステラのような高潔で美しい令嬢こそ、このアレクシス・ドラクールにふさわしいのだ!」
この宣言に、ステラは恥じらうように頬を染め、うつむいた。
しかし、その頬の紅潮とは裏腹に。
夜会の参加者たちは、まるで死刑宣告でも受けたかのように青ざめるばかりだった。
私は、ようやく状況を飲み込み、目の前の美しい男に問いかけた。
その声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「え、それ本気で言っているの? ……っていうか、大丈夫なの? ちゃんと、周囲の人間に相談した?」
例えば、あなたの父君である国王陛下とか。
私の資産譲渡計画を把握している筆頭文官とかに。
しかし、王子は私の問いを、愚かな質問だとでも言うように鼻で笑った。
「なにを言う! お前が『悪役令嬢』などと呼ばれているのは周知の事実! そんな女と婚約を続けられるわけがないだろう!」
ああ、そうか。
そういうことだったのか。
私は理解した。理解して、そして猛烈に呆れていた。
(何この状況。ていうか、準備してた権利の移譲は?? ……もう無理かしら)
半ば諦めの境地で、私は小さく息を吐いた。
「そ、そう…… あなたの耳に『悪役』という噂が入っているなら、それは否定しないわ。……無能だと思って放置していたけれど、まさかここまで考えなしだとはね。起こってしまったことは仕方ない……わかったわ」
私がそう言うと、ホールにいた誰もが息を呑んだ。
私は背を向けて、踵を返す。
会場の隅々まで冷気が漂っているのがわかるほど、凍りついた静寂。
そんな中、ハイヒールの音だけが、やけに高らかに響き渡っていた。
◇◇◇◇
疲労困憊、という言葉がこれほどしっくりくる夜はなかった。
屋敷の重厚な扉をくぐると、待機していた部下が驚いたように駆け寄ってくる。
「リリス様、お早いお帰りで。夜会はまだ続いているのでは……?」
「ええ、もう終わったのよ。私の中では、ね」
私は近くのソファにぐったりと身を沈めた。
部下は心配そうに私の顔を覗き込む。
その目に、私は先ほどの顛末を、言葉少なに語って聞かせた。
話を聞き終えた部下の顔から、みるみるうちに表情が抜け落ちていく。
そして、困惑と、それを塗りつぶすほどの静かな怒りがその瞳に宿った。
「……それは、あんまりな仕打ちではございませんか」
その声は、絞り出すように低かった。
彼は一歩前に進み出て、拳を握りしめながら提案してくる。
「こちらの好意で権力と資金の移譲を申し出ているというのに、このような愚行……。このままでは、リリス様が周囲の貴族や対立組織に舐められてしまいます。ここは、王家に対して、それ相応の報復措置を取るべきかと存じます」
報復。
その言葉を聞いても、私の心は動かなかった。
ただ、疲れていた。
考えるのも、もう面倒だ。
「……そうね。それは、そう。それじゃあ、やり方は任せるわ。私はもう今日は休むわね」
私がそう言うと、部下は深く、恭しく頭を垂れた。
「御意に」
――その声に歓喜の色が混じっていたことに、その時の私は気づかない。
◇◇◇◇
翌朝、私はすっきりとした頭で目を覚ました。
昨夜の出来事が嘘のように、心は晴れやかだ。
やはり、睡眠は最高の回復薬。
などと考えていると、昨夜の部下が晴れやかな表情で入ってきた。
「リリス様、ご報告いたします。報復措置、昨夜のうちにすべて完了いたしました」
「あら、仕事が早いのね。それで、具体的には何をしたの?」
私の問いに、部下は胸を張り、嬉々として語り始めた。
「まず、王都に通じるすべての物流を、完全に停止させました。食料も物資も、今朝からは一切入っておりません」
「……え?」
「次に、我々の組織の『用心棒』たちが、王都の全住民に対し、『治安維持のため』として外出の自粛を丁寧に呼びかけました。現在、街路に人影はございません」
「……」
「そして、『魔導エンジン』や『魔導調速機』を使用するすべての工場、商店の関係者には、設備の緊急メンテナンスを名目に、一時休業をお願いいたしました」
私の事業と無関係な人間など、この王都には存在しないと言っていい。
部下は、満面の笑みで締めくくった。
「結果、王都は昨夜一晩にして、完全なゴーストタウンと化しております。対外的にも、リリス様の影響力と、その恐ろしさを改めて思い知らせる、見事な示威行動となりました」
部下は、心からご満悦の様子だった。
私は、その報告を聞きながら、ゆっくりと天を仰いだ。
(いや、やりすぎでしょう……)
事業の影響力を思うと、やりすぎではないのかもしれないが……
もう少し、上手いやり方があったのでは?
首都機能の完全停止など、そんなことになるとは思わなかった。
ゴーストタウンと化した王都を、正常な状態に戻すための調整。
山のような指示書。
各方面との意見の擦り合わせ。
そのすべてを思った瞬間、回復したはずの精神に鉛のような疲労がのしかかってきた。
(疲れていても、適当な指示を部下に出すべきではなかったわね……)
私は、心の奥底で、そんな痛恨の教訓を噛みしめるのだった。




