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国王との謁見を終えた私は、息つく間もなく、次の応接間へと案内される。
私の婚約相手だという王子との面会が、すでに整えられているという。
その名は、アレクシス・ドラクール。第六王子。
王位継承権からは遠く、その存在を耳にしたことすらなかった。
表舞台に立つことがほとんどなかったのだろう。
(まあ、相手がどんな王子でも関係ないわね。私の目的はただ一つ)
ヴォルテクス家に集中しすぎた富と権力の一部を、王家の血筋に流し込む。
ただそれだけのための、形式的な契約に過ぎない。
国王が不安げな顔で私を見送っているが、知ったことではない。
彼の息子の出来の悪さなど、私の事業計画には一ミリも影響しないのだから。
重厚な扉が開かれる。
そこに、件の王子は待っていた。
そして、その姿を認めた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
(……すごい、美男子ね!)
窓から差し込む柔らかな光を受けて、白磁のように滑らかな肌が輝いている。
陽光を溶かし込んだかのような金の髪は、無造作ながらも気品を失わない。
そして、長い睫毛に縁どられた紫水晶の瞳は、憂いを帯びた宝石のようだった。
これまで仕事柄、様々な美貌の男女を見てきたが……
その誰とも比べ物にならない。
神が気まぐれに、美の粋を集めて作り上げたかのような、完璧な造形。
これが、「出来の悪い」王子だというのか。
しかし、私の驚きはすぐに別の感情に塗り替えられた。
――困惑だ。
その完璧な美貌の王子の隣に、なぜかもう一人。
可愛らしい少女がちょこんと座っている。
ふわふわとした桃色の髪に、大きな栗色の瞳。
小動物のような愛らしさを振りまく彼女は、王子と親密そうに肩を寄せ合っていた。
(???)
私の頭上に、疑問符が三つほど浮かぶ。
これは、私と王子の、初めての顔合わせのはず。
私は努めて冷静に、優雅な微笑みを浮かべてみせた。
「はじめまして、アレクシス殿下。リリス・ヴォルテクスと申します。この度は、私たちの婚約が整いますこと、光栄に存じますわ」
私がそう挨拶すると、王子はぱあっと顔を輝かせ、隣の少女の肩を抱いた。
「おお、君がリリスか! よく来てくれた! こちらはステラ・ロワーヌ。僕の大切な友人なんだ!」
ステラと紹介された令嬢――伯爵令嬢ステラ・ロワーヌは、ぺこりとお辞儀をする。
悪びれる様子はまったくない。
(……友人、ですって?)
私は笑顔を顔に貼り付けたまま、内心でこめかみを引きつらせた。
王族が第二、第三の妃や、あるいは公然の妾を抱えることは珍しくない。
だが、新しく婚約する相手との初顔合わせにその「仲の良い令嬢」を同伴させるなど……
一体、どういう神経をしているのかしら?
――まあいい。どうせ政略結婚だ。
私は沸き上がりかけた違和感をぐっと飲み込み、ビジネスライクに本題を切り出した。
「殿下。今回の婚約は、我がヴォルテクス家が保有する資産と商業網を、王家の安寧のために還元することを主目的としております。具体的には、我が家の持つ資金力と権力の一部を、殿下を通じて王家へ……」
私は可能な限り簡潔に、今回の縁組の趣旨を説明する。
私の言葉を、王子はうんうんと頷きながら聞いている。
……その真剣な表情、理解力はあるのかもしれない。
と、一瞬だけ期待した私が馬鹿だった。
私の説明が終わるや否や、王子は満面の笑みで言った。
「うむ! つまり、君が僕に、たくさんお金をくれるということだな! わかったぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、私の思考は完全に停止した。
(……あれ? 全然理解していないみたい!? 大丈夫かしら、この王子…… さすがに不安になってきたわ!)
権力の分散。
国家経済の安定化。
政治的バランスの維持。
そういった複雑な概念は、彼の美しい頭脳を素通りした。
そして、「お金がもらえる」という一点のみに集約されてしまったらしい。
まあ……いいわ。
今回の婚約の詳しい趣旨は後で王宮の誰かが、この王子にも分かるように説明するはずだ。
そう自分に言い聞かせ、私は早々にその場を辞した。
これ以上ここにいても、私の精神が疲弊するだけだ。
◇◇◇◇
そして翌日。
私の屋敷に、昨日会ったばかりの令嬢、ステラ・ロワーヌが怒鳴り込んできた。
本来であれば、門前払いで済ませるところだ。
しかし、将来、同じ王子妃として顔を合わせる可能性もゼロではない。
面倒の種は、小さいうちに摘んでおくべきだ。
私は応接間に彼女を通すよう命じた。
私を見るなり、ステラは頬を赤く染め、拳を握りしめて叫んだ。
「あなた! 社交界で『悪役令嬢』などと呼ばれているんですってね! アレクシス様の隣に立つ妃として、あなたのような方はふさわしくありませんわ!」
私は思わず、深々とため息をついた。
(うーん……この二人、揃いも揃って、途轍もなく浮世離れしている気がする……)
私の裏の顔や、それに伴う悪評など、この国の貴族であれば知る者も多い。
それを今更、こんなにも真正面から、純粋な怒りとしてぶつけてくるとは。
「ステラ様、と仰いましたかしら。あなたの懸念はごもっともですわ。ですが、今回の婚約は政略的なもの。私に、あなたとアレクシス殿下の仲を邪魔する意図は毛頭ございません」
私はできる限り穏やかに、そして分かりやすく説明を試みた。
「私は正妃となりますが、それはヴォルテクス家の権力を王家に移譲するための形式上の立場に過ぎません。資金と権力の横流しが完了すれば、私は妃としての役割を終えます。ですから、どうぞご安心なさって」
私の言葉に、ステラはきょとんとしている。
どうやら、話の半分も理解できていないようだ。
彼女はしばらく何かを考え込むそぶりを見せた後、ぷいっと顔をそむけた。
「……よく分かりませんけれど! とにかく、アレクシス様を悲しませるようなことは許しませんから!」
そう言い捨てると、彼女は足音も荒々しく部屋を出て行ってしまった。
一人残された応接室で、私は静かに紅茶をすする。
これまでの婚約者候補たちとは、まったく質が違う。
不安がじわりと胸に広がっていくのを感じていた。
婚外子を隠していた野心家。
爆薬を仕掛けてくる時計屋。
子供を使い潰す聖人。
彼らは皆、分かりやすい相手だった。
だが、今度の相手は違う。
悪意がないからこそ、かえって救いようのない……
先程までのようなおままごとを、この先もずっと続けるハメになるのだろうか……
真面目に向き合い続ければ、私の精神がおかしくなってしまうかもしれない。
(……いっそ、あの二人のバックに優秀な文官でもつけてもらうべきね。そして、私は極力関わらず放置する。それが最善策に違いないわ)
そんな思考をもってしても、ぬぐい切れない不安が、私の心に残り続けた。
この縁談は、私が思っている以上に、厄介なことになるのかもしれない……




