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「リンドバーグ伯爵を社会的に、経済的に、そして物理的に、完全に排除なさい」
今回の相手は『慈愛の紡ぎ手』などと讃えられる聖人様だ。
単に経済的に締め上げただけでは。
その評判に騙されたお人好したちが、余計な救いの手を差し伸べるかもしれない。
無駄な手間は省きたいところ。
「少し遠回りになるけれど、まずはその厚い聖人の皮を、社会的に完膚なきまでに剝ぎ取ってあげるのが先決ね」
私の命令は、組織の末端まで瞬時に浸透した。
それはまるで、精密な機械にスイッチが入るかのように。
静かで、迅速で、そして一切の躊躇がなかった。
最初の歯車が動き出す。
リンドバーグ紡織工場へ供給されていた『魔導エンジン』の保守部品。
そして心臓部である『魔導調速機』の供給が、予告なく完全に停止された。
同時に、私の影響下にあるすべての金融機関が融資を一斉に引き上げる。
近代化の恩恵に浴していた工場は、生命線を絶たれて数日も経たずに沈黙した。
巨大な織機はただの鉄屑と化し、工場の煙突から煙が上がることはなくなった。
アロイス・リンドバーグ伯爵は資金繰りに奔走する。
パニックに陥っている頃、私は次の歯車を回していた。
「噂を流しなさい」
執務室で紅茶を一口含み、私は静かに命じた。
影のように控えていた部下が、無言で頷く。
翌日から、王都のあらゆる場所に、一つの毒が染み渡るように広がる。
貴族たちが集う華やかなサロンで。
労働者たちが集まる場末の酒場で。
そして情報の交差点である裏社会で。
「ご存知ですの? リンドバーグ伯爵様のこと……」
「ああ、あの聖人様がか? まさか……」
「孤児院の子供たちを、夜な夜な自身の慰み者にしているとか……」
『慈愛の紡ぎ手』は、一夜にして『聖人の仮面を被った児童性愛者』へと成り代わった。
最初は誰もが一笑に付した。
だが、巧妙に仕込まれた偽の「目撃証言」
そして、私の部下が捏造した「物的証拠」
それらが次々と明るみに出る。
伯爵への疑念は、燃え広がる炎のように、もはや誰にも止められない勢いとなった。
スキャンダルという甘美な蜜を前に、社交界の友情など紙より薄い。
昨日まで彼を称賛していた者たちが、今日には手のひらを返して蔑みの視線を送る。
噂が王家の耳にまで届き、無視できない騒動となった頃。
ついに王国の騎士団が動いた。
「調査」という名目でリンドバーグ邸に頻繁に出入りし、邸内は混乱の極みに達する。
その、警備が最も手薄になった一瞬の隙。
私の部下たちは、夜陰に紛れて、まるで存在しないかのようにリンドバーグ伯爵をその屋敷から消し去った。
◇◇◇◇
次にアロイス伯爵が意識を取り戻した時、彼は冷たい石の床に転がされていた。
場所は、私の組織が所有する地下の尋問室。
手足を縛られ、口には猿ぐつわ。
恐怖と混乱に染まった彼の瞳の前に、深紅のドレスをまとった私が、優雅に姿を現した。
「ごきげんよう、伯爵。少し、お話がしたくてお招きしたの」
部下が彼の猿ぐつわを外す。
伯爵はぜえぜえと息をしながら、狂乱したように叫んだ。
「き、貴様かっ! 私をどこへ連れてきた! こんなことをして、ただで済むと思うなよ!」
「おかしなことをおっしゃるわね。今のあなたに、何ができるというのかしら?」
私は一人椅子に座り、楽しむように言う。
「工場は止まり、資金も底をついた。そして、世間はあなたのことを『子供に手を出す破廉恥な男』だと思っている。……そんな人間が、ある日忽然と姿を消した。さて、世の貴族たちはどう思うかしら?」
彼の呆気にとられた顔を見下しながら続ける。
「きっと『悪評に耐えかねて夜逃げした』とでも思うのでしょうね。どちらにせよ、あなたの名誉も、リンドバーグ家の歴史も、ここで終わりよ」
絶望的な現実に、伯爵の顔から血の気が引いていく。
彼は最後のプライドを振り絞るように、床に唾を吐いた。
「私は……私は児童性愛者などではない! 無実だ!」
「ええ、知っているわよ」
私はあっさりと頷き、そして、氷のように冷たい微笑みを浮かべた。
「でも、そんなことはどうでもいいの。あなたは私を『悪役令嬢』と呼んだでしょう?
――その通りよ。
私は目的のためなら、どんな汚い手でも使うわ。あなたの潔白なんて、私には何の価値もないの」
その言葉が、彼の心をへし折る最後の一撃となった。
プライドも、見栄も、聖人の仮面も、すべてが剥がれ落ちる。
彼は赤子のように泣きじゃくり、みっともなく床に額をこすりつけ始めた。
「た、助けてくれ……! 命だけは……! 何でもする! だから、どうか、どうかお許しを……!」
土下座をして許しを請う、かつての『聖人』。
その無様な姿を、私は冷ややかに見下ろした。
そして、ゆっくりと彼の前にかがみ込み、絶望の淵にいる男の耳元で、甘く囁いた。
「安心してちょうだい。私はあなたと違って、貴重な『人的リソース』を無為にすりつぶしたりはしないわ。……ちゃんと・有効に・あなたを使ってあげる」
私は立ち上がると、控えていた魔導医師に顎で合図した。
「まず声帯を潰しなさい。二度と、その口で偽りの慈愛を語れないように。次に、その顔を誰も見分けがつかないように弄りなさい。個性を完全に消し去るの」
伯爵の絶叫が、医療器具の無機質な音にかき消されていく。
数時間後、そこにいたのは、もはやアロイス・リンドバーグ伯爵ではなかった。
声も顔も奪われ、ただ怯えるだけの、名もなき『労働力』。
私は彼に新しい名前と番号を与える。
そして、二度と陽の光を見ることのない、南方の過酷な鉱山へと「出荷」させた。
――彼が子供たちに強いたのと同じ、声も顔も個性も持たない『労働力』としての絶望を、今度は彼自身が味わうことになるだろう。
◇◇◇◇
リンドバーグ伯爵が行方不明となってから数週間後。
私は王家に正式に働きかけた。
リンドバーグ家が私の組織から借り入れていた莫大な綿花購入代金の未払い。
これを盾に、担保としていた紡織工場と孤児院の所有権を私のものとした。
すべては、法に則った、極めて正当な手続きだった。
こうして、リンドバーグ家は歴史の舞台から完全に姿を消した。
後に残ったのは、膨大な利益を生む工場と、行き場を失った多くの孤児たちだけだった。