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世界を裏で牛耳る 『悪役令嬢』──恋愛だけは迷走中【連載版】  作者: ぜんだ
心臓の毛さえむしり取るだなんて言わないで……
1/9


「第二試薬、三滴だけ。過剰投与は声帯を壊すわ」


 青黒い部屋に私の声だけが乾いた音を立てる。

 鎖に縛られた男は、汗で濡れた額を振り払えずに瞬きを繰り返した。

 私の背後で魔導医師が頷き、細いピペットを男の舌に垂らす。

 透明な雫が落ちるたびに、心拍を示す水晶針が波打つ。


「脈拍百二十を越えたら冷却処置。準備は?」


「いつでもどうぞ、リリス様」


 私は懐中時計を眺め、長針が一目盛り進むのを確認してから囁く。


「さあ、組織名を教えて。ティータイムまで五分しかないの」


 男の唇はまだ閉じたまま。

 私は肩を竦める。


「私は構わないけれど……私がいる間に話しておいた方が身のためよ?」


 副官が鞄から銀の針を取り出す。



「私はうるさいのが嫌いだから、痛いことはしないけれど。部下がそうとは限らないわよ?」



 唇は貝殻のように閉ざされたままだが。

 ――瞳孔は怯えの色を溢れさせている。


 時計の秒針が落ちる音と、薬液が滴る音だけが響く。


 あと三分。

 紅茶の温度がちょうど飲み頃になる頃合いだ。

 私は唇を緩め、微笑んだ。

 ようやくこの男も煮崩れ始めた香りがする。


◇◇◇◇


 廊下を歩きながら手袋を替える。


 私はリリス・ヴォルテクス。

 公爵家の令嬢であり、幼い頃から父の事業の一端を預かる。

 様々な分野で学びを深めてきた。

 家の威光か、それとも私自身の働きぶりか。

 社交界では、歳若くして「多くの事業を手がけている才女」という評判はすっかり広まった。

 けれど、そんな私にも人並みに悩みはある。


 少し前から、婚約者という存在ができてしまった。


 ――いや、正確に言えば「ようやく婚約者が決まった」


 ふさわしい相手を――と、候補をあれこれ挙げて……

 結局は上手くいかずに破談という流れを何度も繰り返した。


 そして、ようやく穏便に落ち着いたのが今のフィアンセ。

 伯爵家の次男、フィリップ・アーサーデール。


 そんなフィリップには、逸話があった。


 フィリップがまだ八歳の頃。

 自宅へ押し入った強盗に対し、小さな手で剣を握り。


「出て行け!」


 勇猛に立ち向かった。

 幼子の力では到底勝ち目などなかっただろうに……

 突発的な彼の勇気に強盗が怯んだ。

 そして、大人たちが駆けつけるまでの時間を稼いだというのだ。

 その武勇伝が社交界でも広く知れ渡る。


【アーサーデール伯爵家の次男は実に勇敢な好青年だ】


 若いながらも好印象を持つ人は多い。


 実際、フィリップの立ち居振る舞いは極めて礼儀正しい。

 表情にも曇りがない。

 どこか屈託のなさと、真っ直ぐな芯の強さを感じさせる人。

 ――その第一印象は私の目から見ても悪くはなかった。



 ただ、ひとつだけ気になる点があるとすれば……

 私の管理する『事業』の実態を、フィリップは深く知らないらしいこと。


 彼が私の『裏』の顔を知らないことは、むしろ幸運と言えなくもない。

 けれども、果たしてそれがいつまで通用するだろう……


◇◇◇◇


 そんなことを考えながら。

 あの『青黒い部屋』を出て午後のティータイムを楽しむ。


 薄紅色の手袋に替えてもなお、薬剤の青臭い残香抜けない。

 ――洗い落としたはずなのに。


 内心で舌打ちしつつ私はカップを掲げる。


「ふう……いい香り。やっぱりこの茶葉は外せないわね」


 私がそう呟いたところへ、ドアがノックされた。


「失礼。リリス、今日はお時間をいただいてありがとう」


 フィリップは朗らかな笑みを浮かべながら入ってきた。

 ブラウンの髪に穏やかな色の瞳。

 どことなく上品な柔らかさを携えている。

 その背筋はまっすぐで、見るからに堂々としている。


「いえ、お越しいただいて嬉しいわ。どうぞ掛けてちょうだい」


 紅茶のカップを持ったまま、私はソファの向かいを促す。

 フィリップは素直に腰を下ろす。


「リリス、こうして会うのも久しぶりだけれど、体の調子はどう?」


「ええ、特に変わりはないわ。仕事が忙しくて屋敷に籠っていたの。あなたは?」


「僕も元気だよ。さすがに公爵家とは違って、うちはのどかな雰囲気だけれどね」


 フィリップは笑いながらカップを傾ける。

 彼の微笑みはすこし無邪気で。

 彼の育ちの良さや性格の素直さを感じさせる。


「私たちの婚約が決まったときは周囲が納得しなくて大変だったけれど、ようやく落ち着いたわね」


「そうだね。うちの伯爵家としても、公爵家との縁組は大きな一歩で……実は僕も少し戸惑っていたんだ。だけど、いざこうして話してみると、リリスはとても穏やかだし……優秀だよね」


 フィリップは、はにかむように言う。


 ……すると、後ろから護衛が耳打ちしてくる。


「先程の捕虜が、隙を見て自害してしまいました」


 私はちょっと不機嫌になりながら、小声で返答する。


「……もうアレから聞きたいことはないわよ。そして今は来客中。……あなたは私から『ゴミの捨て方』まで聞かないと動けないの?」


 護衛は慌てて後ろへ下がる。


 私が紅茶を一口飲んでから、そのまま口を開く。


「優秀……そうかしら? 周囲からは『若くして多くの事業を任されている』なんて言われるけれど、実際にはただの雑用みたいなものよ」


「雑用だなんて……。僕はよく知らないけど、やはり人をまとめたり、出資を管理したり、そういった難しい事をやっているんだろう?」


「ふふ、まあ、多少は。あなたこそ、幼い頃の武勇伝はすごいわよね」


 私がクスリと笑いながら口にすると、フィリップは少し眉尻を下げた。


「あれはただ、とっさに剣を手に取ったら強盗が怯んだだけだ」


「いえ、本当に勇敢だと思うわ。なかなかできることじゃない」


 言いながら、私は心の奥で素直に感心している。

 彼は八歳の少年の身で、そんな場面に遭遇しても逃げずに立ち向かった。

 確かに「勇敢」という評価は間違いではない。


 ……もっとも。

 『そんな場面』にも、今後は慣れてもらう必要があるかもしれない。


「ありがとう。君にそう言われると少し嬉しいかもしれない」

「私もね、いざというときに一歩を踏み出せる人は尊敬するの。……あなたは勇敢だものね」


 そう告げると、フィリップは少し驚いたように目を見開いた。

 けれどすぐに穏やかに微笑みなおし、真摯な口調で言う。


「リリス、ありがとう。君は若くして数多くの事業を担い、才気あふれる女性だと思う。僕は正直、そんなに頭が良いわけでもない。だけど、体を張ることなら任せてほしい。もし君が困ったら、僕が守るから」


 その言葉には、嘘偽りのない信頼感がこもっていた。

 私は軽く瞬きをして、カップを置く。


「……そう言ってくれるのは嬉しいわ。ありがとう、フィリップ」


 まっすぐに「守る」と言われ、心がくすぐられる。

 私は微笑みを返した。


 その後、フィリップとの雑談はいつになく弾んだ。


 だけど、彼が部屋を後にするとき、心のどこかで不安を抱いた。


(……やっぱりフィリップは、私の『事業』を単なる投資や物流管理のように思っているのかもしれない。もし本当の姿を知ったら、どう感じるのかしら)


 遠ざかる馬車の一団を見送りつつ、くすぶる疑問にそっと息を吐いた。

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