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「三滴よ。それ以上は声が潰れるわ――午後のお茶に間に合わなくなるでしょう?」
青黒い部屋に私の声だけが反響している。
鎖に縛られた男は汗で濡れた額を拭えずに瞬きを繰り返した。
私の背後で魔導医師が頷き、細いピペットを男の舌に垂らす。
透明な雫が落ちるたびに心拍を示す指示針が波打つ。
「死なない程度に見ていてあげて。コレにはまだ喋ってもらうことがあるの」
「いつでもどうぞ、リリス様」
私は懐中時計を眺め、長針が一目盛り進むのを確認してから囁く。
「さあ組織名を教えて。ティータイムまで五分しかないの」
男の唇はまだ閉じたまま。
私は肩を竦める。
「私は構わないけれど……私がいる間に話しておいた方が身のためよ?」
控えていた部下が鞄から銀の針を取り出す。
「私はうるさいのが嫌いだから、痛いことはしないけれど。部下がそうとは限らないわよ?」
唇は貝殻のように閉ざされたままだが、瞳孔は恐怖に揺れている。
時計の秒針が落ちる音と、男の荒い呼吸音だけが響く。
あと三分。
紅茶の温度がちょうど飲み頃になる頃合いだ。
私は唇を緩め、微笑んだ。
――ようやくこの男も煮崩れてきたわね。
◇◇◇◇
廊下を歩きながら手袋を替える。
私はリリス・ヴォルテクス。
公爵家の令嬢であり幼い頃から父の事業の一端を預かる。
家の威光かそれとも私自身の働きぶりか、社交界では歳若くして「多くの事業を手がけている才女」という評判はすっかり広まった。
けれどそんな私にも人並みに悩みはある。
少し前から婚約者という存在ができてしまったのだ。
――いや、正確に言えば「ようやく婚約者が決まった」と言うべきか。
ふさわしい相手を――と、候補をあれこれ挙げて……結局は上手くいかずに破談という流れを何度も繰り返した。
そしてようやく穏便に落ち着いたのが今のフィアンセ。
伯爵家の次男、フィリップ・アーサーデール。
そんなフィリップには逸話があった。
フィリップがまだ八歳の頃。
自宅へ押し入った強盗に対して小さな手で剣を握り締め、勇敢に立ち向かったというのだ。
「出て行け!」
幼子の力では到底勝ち目などなかっただろうに……。
咄嗟の彼の勇気に強盗が怯み、大人たちが駆けつけるまでの時間を稼いだのだ。
その武勇伝は社交界でも広く知れ渡り『アーサーデール伯爵家の次男は実に勇敢な好青年だ』と、若いながらも彼に好感を抱く者は多い。
実際、フィリップの立ち居振る舞いは極めて礼儀正しい。表情にも曇りがない。
屈託のなさと真っ直ぐな芯の強さを感じさせる人。
その第一印象は私の目から見ても悪くはなかった。
ただ、ひとつだけ気になる点があるとすれば……。
私の管理する『事業』の実態を、フィリップは深く知らないらしいこと。
彼が私の『裏』の顔を知らないことはむしろ幸運と言えなくもない。
けれども、果たしてそれがいつまで通用するだろう……。
◇◇◇◇
そんなことを考えながら、あの『青黒い部屋』を出て午後のティータイムを楽しむ。
手袋を替えてもなお薬剤の青臭い残り香が抜けない。
――洗い落としたはずなのに。
内心で舌打ちしつつ私はカップを持つ。
「ふう……いい香り。やっぱりこの茶葉は外せないわね」
私がそう呟いたところへドアがノックされた。
「リリス。今日は忙しい中で時間を作ってくれてありがとう」
フィリップは朗らかな笑みを浮かべながら入ってきた。
ブラウンの髪に穏やかな目つき。まっすぐ伸びた背筋がどことなく育ちの良さを物語る。
――この人を見ていると、さっきまでの青臭い匂いが少し遠のく気がした。
「ふふ、来てくれて嬉しいわ。どうぞ掛けてちょうだい」
紅茶のカップを持ったまま、私はソファの向かいを促した。
彼の席には私のカップと揃いの紅茶がすでに用意してあった。
「リリス、こうして会うのも久しぶりだけれど体の調子はどう?」
「特に変わりはないわ。仕事が忙しくて屋敷に籠っていたの。あなたは?」
「僕も元気だよ。最近は庭の手入れくらいしかやることがなくてね」
フィリップは笑いながらカップを傾ける。
その無邪気な仕草に肩の力が抜けた。
「婚約の話が出た頃は周囲がいろいろ騒いでいたけれど……ようやく静かになったわね。正直、少し気が楽になったわ」
「僕もだよ。最初は緊張していたんだ。君が手がけている事業の話はよく耳にしていたからもっと気難しい人なのかと。……実際に話してみたら全然違った」
フィリップがはにかむように言う。
――すると、後ろから護衛が耳打ちしてくる。
「先程の捕虜が隙を見て自害してしまいました」
私はカップを口元に当てたまま、小声で返した。
「もうアレから聞きたいことはないわよ。そして今は来客中。……あなたは私から『ゴミの捨て方』まで聞かないと動けないの?」
護衛は慌てて後ろへ下がる。
私は紅茶を一口含み、何食わぬ顔でフィリップに向き直る。
「気難しいだなんて……私はただの雑用係みたいなものよ」
「雑用だなんて、多くの事業を任されているんだろう?僕にはとても真似できないよ」
「ふふ、褒めても何もでないわよ。あなたこそ幼い頃の武勇伝はすごいわよね」
私がそう口にすると、フィリップは少し眉尻を下げた。
「あれはとっさに剣を手に取ったら強盗が怯んだだけだ」
「いえ、本当に勇敢だと思うわ。なかなかできることじゃない」
お世辞ではない。本当にそう思っている。
彼は八歳の少年の身で、そんな場面に遭遇しても逃げずに立ち向かった。
確かに勇敢という評価は間違いではない。
……もっとも。
『そんな場面』にも今後は慣れてもらう必要があるかもしれない。
「ありがとう。君にそう言われるとお世辞でも嬉しいよ」
「私もね、あなたの武勇伝を聞いたときから少し気になっていたの。だからこそ、あなたとなら――」
そう告げるとフィリップは少し驚いたように目を見開き、けれどすぐに穏やかに微笑みなおして真摯な口調で言ったのだ。
「リリス、ありがとう。……僕は正直、君みたいに頭が回るわけじゃない。だけど体を張ることなら任せてほしい。もし君が困ったら、僕が守るから」
飾り気のない言葉だった。だからこそ、少しだけ胸に刺さる。
私は一つ瞬きをしてカップを置いた。
「……そう言ってくれるのは嬉しいわ。ありがとうフィリップ」
そう言って微笑みを返した。
その後、フィリップとの雑談はいつになく弾んだ。
だけど彼が部屋を後にするとき、微笑みがふっと冷めた。
――やっぱりフィリップは私の『事業』をまっとうな商いだと思っている。もし本当の姿を知ったらどう感じるのかしら。
遠ざかる馬車の一団を見送りつつ、くすぶる疑問にそっと息を吐いた。




