29話 この保留、想定外につき。――翼が再び羽ばたくまで。
「職でも探すか......」
俺は布団の上に寝転がり、スマホの求人サイトをスクロールした。
鳳グループがカフェから撤退し、店が閉鎖されたため俺はめでたくニートとなっている。
そんな時、一通の通知音が部屋に響いた。
スマホのバイブレーションが、安アパートの薄い空気を震わせた。
机に突っ伏していた顔を上げ、重い瞼を擦りながら画面を覗き込む。
一通のRINE。件名には、心臓を直接掴まれるような名前が記されていた。
『【重要】カフェ「レゼール」再始動に伴う、スタッフ再雇用のご案内』
「……まじか」
その名を呟くだけで、脳がフリーズした。
鳳グループ。鳳麗華。人生を一生かけても償えない負債で縛り付けられた、あの契約書。そして、涙を流しながら、こちらに手を伸ばしていた彼女の姿。
硬直から復帰した俺は指でRINEの本文を読み進めた。
『この度、カフェ「レゼール」は鳳グループを完全に離れ、新たな体制で再出発することとなりました。つきましては、以前勤務されていた結城様に、ぜひともお力添えをいただきたく……』
鳳グループを離れた。
その一文が、俺の思考を揺さぶる。
(あの店楽しかったんだよな。常連の客とかできたりしてさ。あ、パフェ毎回3つ食べる佐藤さん元気してんのかね)
脳裏に浮かぶのは、ホールやキッチンでの過去の充実感。
経営者が変わったという噂が本当なら、特別怯える必要はないのかもしれない。
俺は、震える指先で面接希望の返信ボタンをタップした。
ぽちっとな、なんてな。
◇
数日後。俺は、かつて通い慣れた道を歩いていた。
見えてきたのは、洗練された白壁が印象的なカフェ。
以前は入口に巨大な鳳のエンブレムが掲げられ、その権力で周囲を威圧していた。けれど、今の看板からはその紋章が綺麗に削り取られ、ただLes Ailesとだけ、剥き出しの文字が刻まれている。
(……本当に、鳳の店じゃなくなったんだな)
深呼吸を一つ。
冷や汗を拭い、俺は重厚な扉を押し開けた。
カラン、という懐かしいベルの音が響く。
店内に足を踏み入れた瞬間、懐かしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「……失礼します。本日、面接の予約をした結城です」
「お待ちしておりました、結城様」
カウンターの中から響いた声に、心臓が跳ね上がった。
身体のラインを強調する秘書服からは、周囲の安っぽい焦げた匂いを一掃する、気高くアロマのような香りが立ち上る。冷たい機械のような美しさを纏う彼女の登場に、俺は呼吸を忘れるほどの重圧を感じた。
銀縁メガネに映る、感情を宿さない藍色の瞳。完璧に整えられたボブカットの主、九条千尋がそこにいた。
「……九条、さん……っ!?」
その声を聞いた瞬間、俺の背筋に氷水が流れた。
「久しぶりですね、結城くん。……そんなに怯える必要はありません。今の私は、鳳家の者ではありませんから」
「……っ!!」
「ええ、経営者は変わりましたよ。鳳家は、この店の権利も、土地も、すべてを手放しました」
九条は、以前のような冷徹な執事の仮面ではなく、どこか穏やかな眼差しで見据えた。
「今のオーナーは、私です。鳳家の資金ではありません。私が秘書として長年積み立ててきた、……私個人のシークレットマネーで、この場所を買い取りました。平たく言えばヘソクリですね。」
「九条さんが……オーナー?」
混乱し、激しく首を振った。
九条がオーナーだろうと関係ない。この人がいるということは彼女もいるということだから。
「……すみません、やっぱり辞退します!」
踵を返し、ドアノブに手をかける。
背後で、九条の声が鋭く、けれど切実さを孕んで飛んだ。
「待ってください! 経営者は私――九条千尋です。鳳家の資金ではなく、私の意志でここを守りました。……そして、彼女もまた、その鎖を断ち切ろうとしているんです」
「……麗華様が、ここにいるんですか?」
全身に、嫌な汗が流れた。
「……すいません、失礼します。」
九条さんが、音もなく俺に歩み寄る。
その気配は、かつての敵のそれではなく、どこか祈るような、必死な重みを帯びていた。
そして九条さんはカウンターを飛び出し、俺の前で深く、直角に腰を折った。
「お願いです。今の彼女を見て、それでも去るなら……私はもう止めません。……ですが、一目だけでいい。あの方の今の姿を見て、それから決めてください」
九条さんの必死な訴えに、足が止まった。
あの絶対的な自信に満ちていた彼女が、ここまで頭を下げるなんて。
「……覗くだけ、ですよ。……それで、すぐ帰りますから」
「……感謝いたします」
九条さんに促され、俺は音を立てないように厨房の裏口へと回った。
そして、少しだけ開いた扉の隙間から、俺は中の様子を覗き込んだ。
――瞬間、俺の脳内サーバーがエラーを吐き出した。
(……え? うそだろ。……あれ、麗華さん……なのか?)
そこにいたのは、俺の知っている鳳麗華ではなかった。
彼女は、安物の、それも所々が水に濡れて変色したエプロンを身に纏い、山のような皿の前に立っていた。
響いているのは、荒々しい水の音と、陶器がぶつかり合う鈍い音。
「……っ、つ……っ!」
蒸気と熱気のせいで、完璧だったはずの縦ロールは崩れ、額には大粒の汗が浮かんでいる。
鳳グループの令嬢として、指先一つで世界を動かし、金と権力ですべてを支配していたその手は、いまや洗剤の泡に塗れ、真っ赤に腫れ上がっていた。
鳳グループの特注品だったシルクのブラウスではなく、安物のエプロンを身に纏い、その裾は泥と洗剤の泡で無惨に汚れている。
「……っ、つ……っ。……まだ、まだ終わらないわ……」
ガシャガシャと、不器用な音が響く。
麗華さんは、皿を一枚洗うのにも必死だった。
鳳家の教育には「労働」なんて項目はなかったのだろう。洗剤の量も、スポンジの使い方も、すべてが手探り。
滑って落としそうになるたびに、彼女は自分の細い身体で皿を受け止め、なりふり構わずしがみつく。
彼女の指には、すでに何枚もの絆創膏が貼られていた。
包丁を使って料理も頑張っているんだろうと容易に察せられた。
鳳の権力があれば、指一本動かさずに誰かにやらせることができたはずの雑用。
それを、今の彼女は「自分の手」で行っている。
「……わたくしは、…………わたくしは変わるのっ…………」
麗華の独白が、厨房に虚しく響く。
その瞳には、かつての支配者としての傲慢な光はなかった。
「……もう、いいです」
俺は厨房の扉から離れ、背後に控えていた九条さんに向き直った。
九条さんは、眼鏡の奥で感情を読ませない瞳のまま、静かに俺の反応を待っている。
「……返事を聞かせていただいても?」
店内の空気を見渡した。
鳳の紋章を削り取った跡。不器用に磨かれた床。
「……九条さん。少し考えたいので......保留...でいいですか?」
「……検討、してくださるのですね」
九条さんの口角が、ほんの数ミリだけ上がったのを俺は見逃さなかった。
「……また一週間以内に連絡しますね。」
「……わかりました。よろしくお願いします」
面接を終え、直帰する気になれず夕暮れの街を目指して歩き出す。
麗華の更生。レゼールの再始動。
「...はぁ、どうするかね。」
◇◆
悠がドアを閉め、ベルの音が止んだ。
静まり返った店内で、九条千尋は深く、深く吐息を漏らした。
壁に背を預け、震える指先で熱を持った頬を覆う。
「……っ、ふふ……。……あぁ、良かった。……本当に、良かった……」
鉄の規律で縛られた彼女の仮面が、初めて跡形もなく崩れ去る。
藍色の瞳を潤ませ、誰に見せるでもない、ひまわりのような満開の笑みが、夕暮れの店内にこぼれ落ちた。
いつも本作をお読みいただき、本当にありがとうございます!
ここで皆様に、渾身の新連載のお知らせです。
今回の主人公は……救いようのない「ドクズ」です。
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新連載:ドクズ転生 〜本音と正反対に翻訳される呪いを添えて〜
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「金、女、権力。次は、全部、俺の物にしてやる」
神々のトトカルチョの具として、騎士学園のモブに放り込まれたユウ。神が仕込んだ悪戯カオスコンバーター(呪いの翻訳機)が、彼の人生を180度狂わせた。
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皆様のブックマークや評価が、主人公の「胃の痛み」に変わります(笑)
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