66話 ギャンブル女のパン屋さん
仕事を少し減らして、試験までの追い上げに時間をつぎ込む。
夏の半分過ぎたくらいから手応えは感じていて、最近では難しい問題を解いているという気はしなくなってきた。だいたいなんとなくわかるし、なんとなく答えれば正解する。初受験だからあまり期待はしていないが、いい点が取れれば後が楽だ。受験料だって安くはないし、一発で決めるに越したことはない。
結局のところ、点数は点数だ。実際の技能はもっと高いレベルが要求されるし、それは試験勉強だけでは身につかない。いい結果だったから勉強も終わり、とはいかないのが現実である。
指に挟んだシャーペンをメトロノームのように動かし、リスニングの音声に耳を澄ます。早くて長い文章も、かなり聞こえるようになってきた。
高校時代も真剣にやってはいたが、やはり今の方が格段に集中できている。
どんなことでもそうだが、必要性を感じているほうが身につくし頑張れるのだろう。
ドアをノックする音がした。ふと窓の外を見れば、もうとっくに日が傾いていた。
「ご飯できたよ」
「すぐ行く」
「はーい」
眩しい西日を薄いカーテンで遮って、イヤホンを外す。立ち上がって見渡す部屋に、布団は一つしかない。こっちに戻ってきてなんやかんやあり、今はそれぞれの部屋で寝ている。
部屋を出てすぐのところに、悠羽は立っていた。エプロンは脱いだらしく、制服姿だ。衣替えはまだらしく、白シャツの眩しい夏服。加苅から譲ってもらったヘアピンで前髪を留めて、いつもと少し印象が違う。
「勉強してた?」
「いや全然やってない。まじで今回自信ない」
「いい点取る人じゃん」
「今日の飯は?」
「肉じゃが作ってみた」
「最高かよ」
テーブルの上には、既に米と味噌汁、肉じゃがにサラダが並んでいる。野菜のほとんどは女蛇村の皆さんから送られたもので、最近の食卓は彩り豊かだ。
さっそく座って食べ始める。
「美味いな。ちゃんと味染みてて」
「よかった」
もはや悠羽の料理には褒めるところしかないので、最初の一言もワンパターンだ。美味いんだから仕方がない。
「勉強は捗ってる?」
「たぶんな」
「そっか。なら大丈夫だね。試験終わったら六郎の好きな物作ってあげる。なに食べたい?」
「……ぱっと思いつかないな」
目の前にある肉じゃがで満足しているせいか、他の料理が浮かんでこない。なにが出てきても自分で作るよりは美味いから、なんでもいいのだが。
なんでも、とは返さないと決めている。いずれ俺の首を絞めることにもなるので。
「じゃ、考えといて」
「おう」
食べたいもの……か。ぱっと思い浮かぶのはオムライスなのだが、最近は和食強化に取り組んでいる悠羽だ。洋よりは和を頼む方がいいだろう。
ま、空いた時間に考えるか。
「ところでなんだけどさ」
すっと背筋を伸ばして、悠羽がなにか言いたげにしている。
気持ちこちらも姿勢を正し、話を聞く体制を整えた。
「どうした」
「またアルバイトしたいなと思ってて。どんなところで働くのがいいかなって相談」
「無難なのはファミレスだろうな。高校生でもいいって条件だと」
学生のアルバイトといえば、真っ先に思い浮かぶのがそれだ。時給は安いが、雇ってもらうことはできる。
「そっか。じゃあ、それで探してみるね」
「……そういやもう一個だけ、俺の知ってるところはあるぞ」
ファミレスでのバイトとなると、週に何時間働くなどのノルマが厳しかったりする。平日に帰りが遅くなると、危ないし俺が夕飯を作ることになる。そうなれば生活の質は急激に落ちる。
おまけに職場の人間関係とか、面倒な客とか、悠羽になにかあったらと思うとあまり勧めたくない。調子に乗った大学生が口説いてきた、なんてなったら俺の手が血で汚れる。
だがもう一個の候補も、あまり教育によろしくない職場ではある。
よろしくないのだが、他の条件は悪くない。営業時間は夕方6時までで、ここから通えて、従業員は店長含めて全員女性。
熟考の末、とりあえず提案だけしてみることにした。
「――パン屋で働いてみる、ってのはどうだ?」
◇
俺がそのパン屋――サラブレッドで働いていたのは、一年半ほど前のことだ。
女蛇村からこっちに戻ってきて、途端に人との関わりが絶えた俺は、人と関わる仕事を探していた。そんなとき、散歩している途中に見つけたのがサラブレッドだ。店の前に土日のみの求人が張ってあって、その場の思いつきで応募した。
こういう店は綺麗な女の人が採用されるのだろうな。と思っていたが、予想に反して店長の紗良さんは俺を雇った。
「君はいい目をしているわね。賭け事とか好きでしょ」
採用時の言葉である。パン屋じゃなくて反社会組織だと思ったのはここだけの話。
実際のところ、俺は賭け事が嫌いではない。
自分でやりはしないが、リスクを冒すことで得られる快感は理解できる。花火のような破滅に、どこかで憧れているのかもしれない。
――こんな人生、いっそ一瞬で完膚なきまでに破壊されていればいい。
なんて思いがちらつくことは、当時の俺にはよくあることだった。
紗良さんも、こっち側の人間なのだろう。
住宅地でパン屋を営み真人間アピールをしているが、その内面は危機感なしには生きられない生粋のギャンブラー。従業員が集まらないのも、店長のヤバさを察して人が離れるかららしい。
結局俺も数ヶ月しか勤めていなかったが、紗良さんにドン引きしたわけではない。ネットでの仕事が上手くいったのと、新聞配達の給料が良かったせいだ。時給4桁は偉大。
辞めた今でも、店長の紗良さんには仲良くしてもらっている。
ほんと、あの人はギャンブルさえしなければ完璧なんだよな。
黒縁の丸眼鏡に三つ編み。女性の魅力を感じさせる丸みを帯びた体のライン。黙っていれば綺麗な顔。なにもしなければ魅力的な佇まい。金を握らなければ上品な所作。
だが、その手に万札を握りしめた瞬間に全ては崩壊する。
お淑やかでえっちなお姉さんなんて幻想なんだ……とわりとガチでへこんだ。
これは常識だが、彼女に向かっておばさんというのは禁句。
まだそう言われる年齢ではないが、薄らと気にし始める頃合いらしい。「私はおばさんじゃない」と裏口でぶつぶつ呟いていたときは、本当に怖くて泣くかと思った。
そう。紗良さんにおばさんと言ったら、後がいろいろ面倒くさいのだ。
…………あれ?




