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江戸は大混乱であった。なにしろ逃げ場がないのだ。下総から常陸に入るか、いっそ秩父にでも行くかといったことが、ひそひそと話し合われている。近在は凶暴化したゾンビにやられてしまい、どこももう駄目なのではないかという噂すらある。
城内になるべく早く入るようにとの打診が、お吟を通じて伝えられていた。介さんもそれ以外の選択肢がないと考えているようだ。
「上様に拝謁し、軍権をいただくしかないだろうな」
対ゾンビ戦闘のノウハウに関しては光圀が日本一である。やれるという自負もある。
騒然とする水戸屋敷で裃をつけ、そのまま乗馬登城した光圀は、最優先で将軍綱吉に目通りすることができた。幕閣もさすがに状況を理解したようだ。
綱吉は笑っていた。
「なに、中納言の手をわずらわせるほどのことはないであろうよ。共に物見櫓から見物と行こうではないか」
すでにまばらながらゾンビは市中に入ってきていた。火消しと木場人足がそこらを走り回っているのも見える。侍の姿が少ないのは、藩邸なりに籠もっているのだろうか。
「おお、来たようだ」
綱吉は北西の方角を指さした。確かにそちらに何かの気配がある。
大量の犬の群れが江戸市中に入ってきたのだ。鳴き声が光圀のところまで聞こえ始めていた。
「この日のあろうと中野の犬屋敷で育てていた軍用犬じゃ。対人戦闘の訓練を施してある。生類憐れみの令と屍類打ち払い令は表裏一体!これで幕府も安泰というわけよ」
一匹の犬がゾンビを引き倒し、喉笛を噛み折るのが見え、綱吉は嬉しそうな声を上げる。
「おろかな……」
光圀が吐き捨てた。
「な、何を言うのじゃ中納言。見ろ。そこでもあそこでも、犬どもは圧倒的ではないか」
確かに五代将軍の言うとおり、対ゾンビ犬は確実に戦果を挙げているように見えた。
「犬は軽うございます」
そう言い残して光圀は櫓を降りる。将軍に背を向けたその形相が、鬼となっているのを見た者はいなかった。
「江戸はもう終わりだ」
屋敷に集まっているものたちに光圀はそう告げた。
藩主と家臣団は、受け入れてもらえるなら江戸城へ。そうでないなら藩邸で粘るようにとの指示が出された。いずれにせよ死ぬことになるだろうが、それも御三家のつとめであると光圀は断言した。
敵に噛まれた軍用犬がゾンビ化する事態が出来すれば手の打ちようがないので、藩士の家族は護衛の若侍とともにすぐに水戸へと向かった。それも上手くいくかどうかわからない。
「やはり尾張ではゾンビ騒ぎは起きていないようです」
お吟が報告した。
「そういうことであろうな」
印籠を紀州へと届けなければならなかった。おそらく水戸も長くは保たない。
「船が、幾艘か用意してございます」
九兵衛が脇に控えていた。
「わしは残る。矢七、降りてこい」
光圀は忍びに印籠を放り投げた。すでに輝きが失せかけている。
「尾州柳生の刺客をかわせる腕があるのはお主だけだ。なんとか紀州まで抜けてくれ」
矢七からの返事はなかった。姿は印籠とともに音もなく消えた。
矢立を取り出し、書状をしたためた光圀は、介さんの方を見る。
「お主は赤穂だ。あそこにはわしも認める四十七人の腕利きゾンビハンターがいる。彼らに情報を伝え、助力を頼むのだ。奥州を大廻りして越後から船ということになろうか……」
九兵衛は自分のやることがわかっているようだった。町方を組織し、やれるところまで抵抗するのだ。
一人を残して、みないなくなった。
「お吟、お主は好きにするがよい。もともと義理もないしな」
お吟は何も言わなかった。しかし、光圀が立ち上がると黙ったまま背中を追った。
そして、江戸に暗黒が訪れた。
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気付けば日が高くなっている。和歌山へはまだ距離があり、自分がもう動けないのを矢七は知っていた。
どの敵もどうにか切り抜けられたが、最後の老人だけは格が違った。あの一太刀が致命傷になるだろう。
「あれが連也斎だったか……」
もうろうとする意識の中で、矢七は近づいてくる人影に気付く。背格好からすると子供のようだ。しゃがみ込んで矢七の方を見ている。
「おじちゃん、怪我をしてるの?」
矢七には答える気力がなかった。懐から印籠を取り出し、子供の手に握らせる。一瞬、その顔立ちに自分の主人の面影を見た気がしたが、もう無益なことであった。
「源六さまー!源六さまー!」
遠くから、誰かが叫んでいる。自分が完璧に使命を果たしたのだと知ることはなく、矢七は事切れた。葵の意志は受け継がれたのだ。やがて少年は尾張徳川家を打ち倒し、そして江戸を取り戻す戦いの日々へと突き進んで行くことになるだろう。今はまだ誰もその運命を知らない。偉大なる覇者の血に導かれて……
インロー・オブザデッド 完
インロー・オブザデッド2-葵を継ぐ者-その者、武ではなく暴 へと続く