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「この紋章が、目に入らぬか!」


 賀来さんの一喝と同時にゾンビどもが蒸発してゆく。やつらは権力の持つ圧倒的な輝きに耐えられない。支配への飽くなき欲望こそが、死を打ち払う唯一のパワーだ。墓から這い出てきた無気力な亡者どもに最も効果的な一撃は幕府のご威光というわけだ。


羽衣治(はいち)藩城代家老、安藤勘解由!邪教の妖術使いと結託してゾンビを大量発生させ、人々を苦しめた罪決して許されぬ!おとなしく公儀の裁きを受けい!」


 今回も一件落着であった。この印籠のあるかぎり、ゾンビなどどれだけ集まってきてもカスである。介さん賀来さんの武芸の腕も鈍ろうというものだ。


「さあ、ご老公、酒と女と温泉でやんす!この九兵衛がお供するでやんすよ!」


 ロジスティクス担当の九兵衛の仕事の質は高い。宿にしろ食事にしろ文句の出たことがない上、どれだけ遊んでも代金をクライアントに押しつける交渉力は見事だった。


「ああ、おとっつぁんが消えちまっただ!来年の田植えはどうすれば……」


 一人の村娘が残された父親のボロ着にすがりついた。しかし、ゾンビを労働力として使役することは天下の御政道に背く行いである。生類憐れみの令と対をなす屍類打ち払い令によって、すべてのゾンビは見つけ次第排除しなければならないのだ。


 御一行は見なかったことにした。ゾンビ労働と社会構造、という点には複雑すぎる問題があり、あまり深く考えたくなかったのだ。


 特にご老公こと徳川光圀は生粋の武人である。数限りない武勲を積み重ねてきた歴戦のゾンビハンターの行動原理はただ目の前の敵を斬る、これだけであった。幕閣においても危険なタカ派と見られ、すでに政治的影響力はない。社会問題云々などというのは彼にとって惰弱な言い訳にすぎなかった。


 光圀は年齢に見合わぬ筋肉のバネを見せ、縁側から飛び降りた。身のこなしも、まだまだ介さん賀来さんに劣らぬしなやかさがある。


「賀来さん、次は印籠なしでやろう」


 と笑った光圀の顔に、冗談の色はなかった。白兵戦こそご老公の本領なのだ。その思いを誰よりも理解する賀来さんは受け答えに窮してしまう。


「戦術担当分析官としてその作戦は許容できません」


 介さんが冷静に反論した。彼も間違いなく優秀な戦士ではあったが、四角四面な官僚気質がどうしても光圀と反りの合わないところがあった。印籠がいかに優秀な兵器であり、各種のリスクを低減させるかということを能書き通りに述べる同僚を見て、賀来さんはため息をつく。


 光圀もわかってはいたのだ。おのれが時代から取り残されつつあることを。そして今の自分はただ、印籠を発動させる高貴な血筋を受け継ぐというだけの存在なのだということも。


 戦国の覇者、徳川家に産まれた者として武を志すのは当然だと思ってきた。ご政道も、天下泰平も、印籠の輝きも、すべての源は神君家康公の武の力にこそあるのだ、という思いは今も変わっていないはずだった。


「俺も年を取った……」


 酌を受けながらつい漏らした本音を、お吟は黙って聞いていた。こういうところがこの女の美質なのだと、光圀は改めて思い返す。人間の不可解な感情の渦巻く諜報の世界で生き残ってきたお吟は、彼とはまるで違う生き物だったが、何が必要なのかは心得ていた。


 九兵衛が仲間たちと騒ぐ音が襖の向こうから聞こえる。明日の士気は高いだろう。あれも一つの立派な戦い方なのだ。武の行き着く先としての政、というのがああいうものであるのならば自分も受け入れることができるのだが、と光圀はいつもの思考に沈潜してゆく。


「ご老公、一大事です」


 天井裏から矢七が声をかけると、お吟は激高した。


「下忍!ひかえよ!」


 諜報の上流を統括するお吟と違い、矢七は地回りの現場担当者である。身分は低いが腕利きではあるので、緊急性の高い情報の場合は光圀と直接口をきくことも許されている。


「よい。なんだ矢七」


 ただ事ではないと光圀にはわかっていた。


「東海道をゾンビの大集団が江戸に向かっています。数は不明ですがまず万は超えているとの見立てです。すでに箱根は越えたでしょう」


 ゾンビの足なら江戸まで一日半というところだろうか。朝を待てば、ここから間に合うかどうか微妙なところだった。


「尾州は何をやっていたのだ」


 尾張徳川家がゾンビ対策に及び腰なのは知られていたが、今回の件は度を超していた。


「駿河で流行り病があったとの知らせがありましたが」とお吟が言う。


「それだけでは説明がつかんな。伊賀とも渡りをつけておけ」


「はっ」


 矢七はすでに消えていた。光圀が勢いよく襖を開けると、呆気にとられた顔の九兵衛と目が会った。


「仕事だ。すぐに江戸までの足の手配を頼む」


 九兵衛は聡いものだった。「承知つかまつりましてございます」とかしこまると、すぐに配下の者たちに船の手配を急がせた。馬は酒が入っていては危険だったし、駕籠は人足が足りないだろうという想定も、頭の中にすでにあったようである。宴席に参加させなかった備えの者を馬で各所に先乗りさせる差配に抜かりはなかった。


「賀来さん、介さん、久しぶりに面白くなってきたな」


 まずは江戸城に乗り込み、だらけきった老中どもに活を入れてやろう。それから本家の総領息子にご挨拶といくか。ゾンビ軍団の来襲に、血の騒ぎを抑えられぬ光圀であった。

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