EP 14
満月の朝と、書類祭壇と、計算機のフリをした人間
満月の翌朝。
ポポロ村は、静かだった。
昨夜の、嵐が、嘘のように。
空は、澄み渡っていた。
鶏の、鳴き声。
月見大根の畑を、揺らす、風。
煙突から、のぼる、朝の、煙。
玲は、村役場の前に立って、その光景を、見ていた。
深呼吸する。
異世界の朝の空気は、市役所時代の、どんな朝とも、違った。
あの頃の朝は、義務だった。
出勤しなければならない。
窓口に立たなければならない。
書類を処理しなければならない。
でも、今──。
「玲さぁん、おはようございますぅ」
リリスが、ジャージ姿で、ぱたぱたと、走ってきた。
手には、みたらし団子の串が、すでに、握られている。
「朝ですよぉ、朝ごはん、食べましたかぁ?」
「まだです」
「じゃあ、一緒に、ルナキン行きましょうよぉ」
「そうですね」
玲は、頷いた。
義務でも、ない。
ただ、一人のポンコツ見習い女神が、笑顔で、誘ってくれる、朝。
それだけで、十分だった。
「玲さぁん」
「はい」
「昨夜、すごかったですぅ」
「そうですか」
「書類で、A級冒険者を、封じましたよぉ。私、見てましたぅ」
「……見ていたんですか」
「はい! 村役場の、窓から、ちゃんと、見てましたぅ!」
「……逃げていてください、と言ったはずですが」
「だって、玲さんが、心配で」
「……」
「でも、大丈夫でした。玲さんが、守ってくれましたから」
リリスは、にっこりと、笑った。
「ありがとうございますぅ、玲さん」
「……いえ」
「でも、玲さん、ちゃんと、自分も、大事に、してくださいよぉ」
「……善処します」
「約束してくださいよぉ」
「……はい、約束します」
「えへへぇ」
リリスは、団子を、一口、齧った。
玲は、その横に、並んで、歩き出した。
ルナキンに向かって。
ポポロ村の、朝が、始まっていた。
ルナキンの、朝定食を、食べ終えた後。
玲が、村役場に、戻ると。
村役場の、前に、ネギオが、立っていた。
「フン、貴様」
「ネギオさん、おはようございます」
「話がある」
「はい」
ネギオは、玲を、手招きした。
二人は、村役場の、裏手へと、回った。
そこには──。
小さな、倉庫が、あった。
ポポロ村の、備品を、保管する、倉庫。
「あの倉庫の、鍵を、持っているか」
「ええ、私が、管理しています」
「開けてみろ」
「……はい」
玲は、鍵を、取り出した。
倉庫の、扉を、開ける。
その瞬間──。
玲は、固まった。
倉庫の、中。
そこには、書類が、飾られていた。
飾られている、という表現が、正確だった。
業務書類が、額縁に、入れられて、壁に、掛けられていた。
玲が、書いた、月見大根の、流通改革書類。
ゴルド商会との、契約書。
ユートとクレアの、仮認可勇者事業者登録書。
スアイとの、業務提携書。
そして──。
玲が、村役場に、来た、最初の夜に、処理した書類の束。
三千二百四十一件の、書類の中から、抜き出された、数枚。
それらが、最も、目立つ場所に、飾られていた。
さらに──。
玲が使ったコーヒーカップが、棚の上に、置かれていた。
玲のサインが入った決裁書が、ガラスケースに、入っていた。
玲が捨てたボールペンのキャップが、小さな箱に、入っていた。
そして──。
棚の、隅に、人参柄のハンカチが、一枚、置かれていた。
人参柄のハンカチは、キャルルの、トレードマーク。
しかし、このハンカチには──。
玲が、村に来た、最初の夜。
徹夜で作業していた玲に、キャルルが、お茶を、運んできた時。
玲が、誤って、お茶を、少しこぼして、そのハンカチで、机を、拭いた、ことが、あった。
あの時の、ハンカチだった。
玲が触れたハンカチが、祭壇の中心に、置かれていた。
玲は、長い間、倉庫の中を、見渡した。
頭の中で、【行政】スキルが、勝手に、起動した。
『現場分析
これは、業務書類の、不適切な、保管場所です
加えて、個人の、私物が、混入しています
さらに、これは──
……分析を、停止します』
珍しいことに、【行政】スキルが、分析を、途中で、止めた。
あるいは、玲が、無意識に、止めたのか、もしれなかった。
「……なるほど」
玲は、ぽつりと、つぶやいた。
「フン」
ネギオが、腕を、組んだ。
「昨日、村長の、自宅の、私室を、片付けるよう、頼まれた。村長は、昨夜の、疲労で、動けなかったからな」
「……はい」
「片付けていたら、この倉庫の、鍵を、見つけた」
「……はい」
「開けてみたら、こうなっていた」
「……」
「何か、言うことは、あるか」
玲は、しばらく、無言だった。
それから──。
「……業務書類を、正規の、保管場所以外に、保存することは」
「うん」
「文書管理規定の、違反です」
「それだけか」
「……ボールペンのキャップは、廃棄物です」
「うん」
「廃棄物を、保管する、必要は、ありません」
「うん」
「コーヒーカップは、村役場の、備品です。返却してもらいます」
「うん」
「……以上です」
ネギオは、しばらく、玲を、見つめた。
「本当に、それだけか」
「……」
「他に、言うことは、ないのか」
「……善処します」
「何を、善処する」
「……その、ハンカチは、キャルル村長の、私物ですから、そのままで、構いません」
「……貴様」
「はい」
「ちゃんと、理解した、上で、それを、言っているか」
「……」
「あの祭壇が、何を、意味するか」
「……文書管理規定の、違反を、意味します」
「貴様!」
「……善処します」
ネギオは、深く、息を、吸った。
それから──。
「フン」
「はい」
「計算機の、フリをした、人間め」
「……それは、今回、褒め言葉では、ないですよね」
「どちらとも、取れる」
「……分かりました」
「業務書類は、正規の、保管場所に、戻しておけ」
「はい」
「以上だ」
ネギオは、立ち去ろうとした。
しかし、ふと、振り返った。
「貴様、昨夜、村長のことを、守った」
「……村を、守りました」
「村長の、前に、立った」
「……」
「あれを、見て、村長が、どう、思うか、分かるか」
「……」
「月兎族の、本能は」
「……はい」
「守られると、より、強くなる」
「……」
「番と、認めた、相手に、守られると」
「……」
「もう、逃げられんぞ」
「……善処します」
「善処、では、間に合わないかもしれんな」
ネギオは、今度こそ、立ち去った。
玲は、一人、倉庫の前に、残った。
もう一度、倉庫の中を、見た。
業務書類の、数々。
コーヒーカップ。
ボールペンのキャップ。
人参柄のハンカチ。
全部が、玲に、関係する、ものだった。
(キャルル村長は、これを、宝物と、呼んでいた)
第3話の朝、書類を抱きしめながら、彼女が言った言葉。
「あなたの書類……キレイ……♡」
「これ、わたくしの、宝物にしますね♡」
あの言葉の、意味を、玲は、今、ようやく、全部、理解した、気がした。
「……」
玲は、倉庫の扉を、静かに、閉めた。
そして、業務書類だけを、抱えて、村役場に、戻った。
コーヒーカップは、返却してもらうとして。
ボールペンのキャップは、廃棄するとして。
ハンカチは、キャルルの私物だから、放置するとして。
祭壇の、構造自体は──。
(見なかったことにします)
諦める、というのも、公務員の、技術だ。
その日の、昼頃。
キャルルが、村役場に、やってきた。
いつものように、人参柄のハンカチを、手にしている。
頭の上の、うさ耳が、ぴょこんと、立っていた。
ただ──。
表情が、どこか、固かった。
「玲さん」
「キャルル村長」
「あの、倉庫の、書類を、取りに、来ました」
「……既に、正規の、保管場所に、移しました」
「えっ」
「文書管理規定の、違反でしたので」
「あ……」
キャルルの、顔が、みるみる、赤くなった。
「そ、その、玲さん、見たんですか」
「はい」
「全部、ですか」
「はい」
「……コーヒーカップも」
「はい。村役場の、備品でしたので、返却していただけますか」
「……ボールペンのキャップも」
「廃棄物でしたので、処分しました」
「……」
「ハンカチは、キャルル村長の、私物でしたので、そのままにしました」
「……」
「あと、書類は、文書管理規定の、違反でした。今後は、正規の、保管場所を、使用してください」
「……玲、さん」
「はい」
「もう少し、その、リアクション、ありませんか」
「リアクション、ですか」
「驚くとか、困るとか、その」
「……文書管理規定の、違反以外の、感想は、ありません」
「本当に、ないんですか」
「……」
「玲さん」
「……」
「ないんですか」
「……善処します」
「善処、って、何を!?」
「書類の、適切な、保管方法を、再度、徹底します」
「そういう話じゃないんですぅ!」
キャルルが、両手で、顔を、覆った。
頭の上の、うさ耳が、ぺたん、と、下を向いた。
「恥ずかしい……恥ずかしいですぅ……」
「……」
「最初の、夜の、書類から、ずっと、こっそり、保管してて……ネギオさんに、見つかったと、思ったら……玲さんにも……」
「……」
「恥ずかしいですぅ……消えたいですぅ……」
「キャルル村長」
「……」
「一つ、聞いてもいいですか」
「……何ですか」
「あの、最初の夜の、書類を」
「……はい」
「今でも、宝物だと、思っていますか」
キャルルは、顔を、手で、覆ったまま、しばらく、無言だった。
それから──。
ぽつりと、言った。
「……思っています」
「……」
「恥ずかしいですが」
「……」
「でも、思っています」
「……そうですか」
「玲さんに、笑われたら」
「笑いません」
「……え?」
玲は、淡々と、言った。
「業務書類を、宝物と、感じていただける方が、いるということは」
「……」
「私の、仕事が、誰かに、届いているということです」
「……玲さん」
「嬉しいとは、言いませんが」
「……」
「悪い気も、しません」
「……」
「ただ、業務書類は、適切に、保管してください」
「……はい」
「それだけです」
キャルルは、ゆっくりと、手を、下ろした。
顔が、まだ、赤い。
うさ耳が、ぴょこり、と、戻った。
「……玲さんって、本当に、変な人ですね」
「よく、言われます」
「普通、引くか、喜ぶか、どちらかじゃないですか」
「……行政的には、規定違反を、指摘するのが、優先です」
「それが、先に、来るんですね」
「職業柄、です」
「……ふふ」
キャルルが、笑った。
いつもの、温かい笑顔だった。
「玲さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「……規定違反の、指摘に、感謝されるのは、初めてです」
「笑わないで、くれて、ありがとうございます」
「……」
「恥ずかしいのに、受け止めて、くれて」
「……いえ」
「玲さんに、見てもらえて、良かったです」
玲は、無言で、キャルルを、見た。
「昨夜も、玲さんが、守ってくれて」
「……」
「今日も、玲さんが、笑わないで、いてくれて」
「……」
「わたくし、やっぱり、玲さんのことが、好きですわ♡」
「……」
「大事に、します♡」
「……キャルル村長」
「はい♡」
「業務書類の、保管は、正規の場所に、お願いします」
「分かっていますぅ!」
二人の間に、笑いが、零れた。
玲は、公務員スマイルで。
キャルルは、うさ耳を、ぴょこぴょこ、揺らしながら。
この村の、朝は、こういうものだった。
その日の、午後。
村役場に、ユートと、クレアが、やってきた。
「玲さん、昨夜の件の、報告、いいですか」
「どうぞ」
クレアが、報告書を、差し出した。
「盗賊団の、残党、全員、捕縛しました。現在、地域の、冒険者ギルドに、引き渡し済みです」
「ありがとうございます。損害賠償請求の、手続きも、進めておきます」
「それと、村の被害状況ですが」
「はい」
「建物の、損壊は、村の入り口の、石柱が、一本、ひびが入っただけです」
「……あれは、キャルル村長の、蹴りが、当たったせいですね」
「ええ。あと、村人への、怪我は、なし」
「それは、よかった」
「自警団の、数名が、軽傷ですが、リリスさんが、回復魔法を、かけました」
「リリスさんに、感謝を、伝えてください」
「もう伝えました。みたらし団子を、要求されましたが」
「……それは、家計改善指導計画書の、範囲内ですか」
「範囲内です。三本まで」
「では、構いません」
クレアは、報告書の、最後のページを、めくった。
「それから、玲さん」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「ユートの、ブレイブスキルの、評価を、確認して、もらえますか」
「……昨夜の、戦闘後、ですか」
「ええ」
玲は、ユートに、【査定眼】を、向けた。
頭の中で、申請書のフォーマットが、展開する。
『対象:ユート・ディスパーダ
ブレイブスキル
民衆評価:★3(昨夜の戦闘前:★2)
隠しパラメータ:打算なき勇気、検出回数2回目
潜在的最大出力:神域(変化なし)
備考:昨夜の戦闘において、闘気を奪われた状態で、村人を守るために再び戦場に立った。打算なき勇気の、発動条件に、近づいている』
「ユート様」
「お、おう、玲さん。何か、分かったか?」
「ブレイブスキルの、民衆評価が、★3に、上がりました」
「ほんとか! やった!」
「あと、打算なき勇気の、発動に、近づいています」
「……打算なき勇気?」
「昨夜、闘気を、奪われた後、なぜ、再び、前に、出たんですか」
「……え?」
「怖くなかったですか」
「……」
ユートは、しばらく、考えた。
「怖かったよ、そりゃ」
「では、なぜ」
「……村人が、怖がってたから」
「……」
「俺、闘気、奪われて、力が、出なかった。でも、村人たちの顔を、見たら」
「……」
「逃げられなかった」
「……」
「報酬とか、一億円とか、そういうのは、関係なかった。ただ、逃げられなかった」
クレアが、ユートを、じっと、見ていた。
その目に、何か、柔らかいものが、あった。
「ユート様」
「おう」
「それが、打算なき勇気です」
「……打算なき、勇気?」
「見返りを、求めない。報酬も、評価も、関係ない。ただ、守りたいと、思った時に、出る、力です」
「……そんな、大げさな」
「いえ」
玲は、首を、横に、振った。
「昨夜の、あなたの、行動が、その証拠です」
「……」
「闘気を、奪われた状態で、再び、立った」
「……」
「理論上、それが、積み重なれば」
「……」
「あなたの、ブレイブスキルは、神域まで、届きます」
「……神域?」
「神に、匹敵する、力です」
「……」
「あなたには、その、素質が、あります」
ユートは、しばらく、固まっていた。
それから、ぶはっ、と、笑い出した。
「俺が、神域! わはははは! ルチアナのせいで、鉄の鎧で、スタートした俺が!」
「笑うことですか」
「だって、笑えるだろ! 鎧詐欺から、スタートして、借金まみれで、神域とか!」
「ユート、笑ってる場合じゃないわよ」
クレアが、ため息を、ついた。
「玲さんが、あなたを、評価してるのよ。真剣に、受け止めなさい」
「……うん、でも」
「でも?」
「なんか、信じられなくてさ」
「……」
「俺、ずっと、馬鹿だと思ってたから。勇者なんて、名前だけの、借金まみれの、馬鹿だって」
「……」
「でも、玲さんが、そう言ってくれると」
ユートが、玲を、まっすぐに、見た。
「……なんか、本物に、なれる気がする」
「……」
「俺、もっと、頑張れる気がする」
玲は、無言で、ユートを、見た。
市役所時代、玲は、こういう言葉を、言ったことが、なかった。
誰かを、評価する言葉。
誰かを、信じる言葉。
市役所では、そういうことを、言う、余裕が、なかった。
でも──。
ポポロ村では、言える。
「ユート様」
「おう」
「私は、あなたを、信じています」
「……」
「馬鹿だと、思いません」
「……」
「あなたは、本物の、勇者に、なれます」
「……玲さん」
「それだけです」
「……うっ」
「ユート、泣かないで」
「な、泣いてないぞ! 目から、汗が!」
「また、それ!」
「本当だって!」
クレアが、ため息を、つきながら、ユートの背中を、さすった。
その手つきが、優しかった。
「ありがとう、玲さん」
クレアが、玲に、頭を、下げた。
「この馬鹿を、信じてくれて」
「いえ、信じるのは、当然です。昨夜の、行動を、見ましたから」
「……それでも、ありがとう」
「クレアさん」
「はい」
「あなたも、昨夜、立派でした」
「……私は、吹き飛ばされただけよ」
「シールドで、ガロの、一撃を、受け止めた。それが、私が、書類を、準備する、時間を、作りました」
「……」
「あなたの、シールドが、なければ、私の、書類は、間に合いませんでした」
「……」
「あなたも、村を、守りました」
クレアは、しばらく、無言だった。
それから、くるり、と、背を、向けた。
「……NISA積立のためよ」
「はい」
「感動とか、そういうのじゃ、ないからね」
「はい」
「ただ、一億円のためよ」
「はい」
「……ありがとう、玲さん」
クレアの声が、震えていた。
玲は、微笑んだ。
「ユート様、クレア様」
「おう」
「はい」
「仮認可勇者の、試用期間、あと、一ヶ月で、終わります」
「……正式認可、してもらえる、かな」
「昨夜の、行動を、見る限りは」
「……うん」
「問題ありません」
「やったあああ!」
「ユート、はしゃぎすぎ」
「だって!」
「……ありがとう、玲さん」
「いえ、仕事ですから」
その日の、夕方。
玲は、一人、村役場の、屋上に、いた。
ポポロ村の、全景が、見える。
月見大根の、畑。
太陽芋の、畑。
村人たちの、家々。
タローソン、ルナキン、タローマン。
スアイのスキー場が見える、ポポロ山。
その全てを、玲は、見渡した。
「玲さん」
背後から、声がした。
振り返ると、ネギオだった。
「こんなところに、いたか」
「ええ。少し、整理したくて」
「整理?」
「頭の中を」
「……昨夜から、今日にかけて、色々あったからな」
「ええ」
ネギオが、玲の隣に、立った。
二人で、ポポロ村の、全景を、眺めた。
「ネギオさん」
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいですか」
「言ってみろ」
「私は、この村で、何を、しているんでしょうか」
「……どういう意味だ」
「事務官として、書類を、処理する。問題を、解決する。そこまでは、分かります」
「……」
「でも、それだけでは、ない、気がして」
「……」
「ユート様に、信じると、言った。クレア様に、立派だったと、言った。キャルル村長の、祭壇を、見ても、笑わなかった」
「……」
「それは、事務官の仕事では、ないですよね」
「そうだな」
「では、それは、何なんでしょう」
ネギオは、しばらく、無言だった。
夕日が、ポポロ村を、染めていく。
やがて──。
「貴様に、一つ、問題を、出してやる」
「はい」
「この村の、価値は、いくらか」
「……」
「計算してみろ」
玲は、頭の中で、【行政】スキルを、起動した。
月見大根の、流通収益。
太陽芋の、農業収益。
スアイのスキー場との、業務提携による、観光収益。
ゴルド商会との、独占契約。
仮認可勇者制度の、防衛価値。
計算が、走る。
「……年間収益、金貨三千二百枚。防衛能力、概算で、B級以上。地理的価値──」
「それが、全部か」
「……いえ」
「続けろ」
「……村人の、笑顔」
「……」
「キャルル村長の、覚悟」
「……」
「ユート様の、打算なき勇気」
「……」
「クレア様の、隠れた、優しさ」
「……」
「リリスさんの、屈託のない、笑顔」
「……」
「そして」
「……」
「誰かが、見ていてくれること」
「……」
「これらは、帳簿に、載らない」
「そうだな」
「数字に、できない」
「そうだな」
「でも、確かに、ある」
「そうだな」
ネギオが、ふっ、と、笑った。
「第9話を、覚えているか」
「第9話?」
「いや、第九話、ではなく、俺が、以前、貴様に、言ったことを、覚えているか」
「……計算機のフリをした、人間、ですか」
「ああ」
「はい、覚えています」
「貴様に、もう一つ、言ってやろう」
「はい」
「計算機のフリをした人間が、いると、村は、壊れない」
「……」
「数字で、動かせるものを、動かす」
「……」
「数字で、動かせないものを、守る」
「……」
「それを、同時に、できる者は、滅多に、おらん」
「……」
「貴様は、その、両方を、している」
「……」
「それが、貴様が、この村で、している、ことだ」
玲は、長い間、無言だった。
夕日が、沈んでいく。
空が、茜色から、藍色へと、変わっていく。
「ネギオさん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
「礼を、言うな。気持ち悪い」
「……」
「ただ、一つ、言っておく」
「はい」
「貴様が、来る前、この村は、壊れかけていた」
「……」
「書類が、山積みで、村人への、支払いが、滞って、誰も、助けに、来なかった」
「……」
「村長は、一人で、抱え込んで、限界だった」
「……」
「だが、貴様が、来てから」
「……」
「村が、動き出した」
「……」
「だから、貴様が、ここにいる、理由は、明白だ」
「……それは、何ですか」
「必要とされているから、だ」
玲は、その言葉を、胸の中で、噛み締めた。
必要とされている。
市役所時代、誰も、玲が、そこにいることを、必要として、いなかった。
書類が、処理されていれば、誰でも、よかった。
でも、ここでは──。
「白石玲が、いなければ、この村は、動かない」
「……」
「それが、貴様の、居場所だ」
玲は、ゆっくりと、頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼を、言うな、と、言った」
「……でも、言いたいんです」
「フン、勝手にしろ」
ネギオは、屋上から、降りていった。
玲は、一人、残された。
夜空に、星が、瞬き始めていた。
満月は、沈んでいた。
代わりに、無数の、星が、輝いていた。
「……必要とされている」
玲は、ぽつりと、つぶやいた。
その言葉が、温かかった。
市役所時代、一度も、感じたことのなかった、温かさが、今、確かに、あった。
玲は、空を、見上げた。
ポポロ村の、夜空は、広かった。
どこまでも、広かった。
その夜。
玲が、屋上から、降りようとした時。
階段の、入り口で、キャルルが、待っていた。
手には、コーヒーを、二つ、持っていた。
「玲さん」
「キャルル村長」
「夜のコーヒーは、眠れなくなりますよ。でも、少しだけ、いいですか」
「……いただきます」
二人は、屋上に、並んで、座った。
コーヒーを、飲みながら、星空を、見上げた。
「ネギオさんと、何を、話していたんですか」
「村の、価値について、です」
「価値?」
「数字で、測れないもの、についても、話しました」
「……ふふ」
「何か、おかしいですか」
「いえ。玲さんらしい、と、思って」
「……そうですか」
「玲さんって、いつも、数字で、考えているようで」
「……」
「でも、本当は、数字に、できないものを、一番、大切に、しているんですよね」
「……そんなことは」
「ありますよ」
キャルルが、にっこりと、笑った。
「わたくしの、祭壇を、笑わなかった」
「……それは」
「ユート様を、信じると、言った」
「……それは、評価として」
「クレア様を、立派だったと、言った」
「……事実ですから」
「どれも、数字じゃないです」
「……」
「玲さんは、数字で、測れないものを、大切にする、人です」
「……」
「だから、わたくし──」
キャルルの声が、わずかに、震えた。
「だから、わたくし、玲さんのことが、好きです」
「……」
「計算の話でも、行政の話でも、ないですよ」
「……」
「ただ、玲さんのことが、好きです」
玲は、長い間、無言だった。
コーヒーを、一口、飲む。
空を、見上げる。
そして──。
「キャルル村長」
「はい」
「私は、感情表現が、不得手です」
「……知っています」
「市役所時代から、そうでした」
「……」
「誰かに、好意を、示す方法が、よく、分かりません」
「……」
「ただ」
「……」
「あなたのことを、考えると、仕事が、手につかなくなる、ことが、あります」
「……え?」
「昨夜、あなたが、血を、吐いた時、それ以外のことが、頭から、消えました」
「……」
「書類を、構える前に、何を、考えたかというと」
「……」
「キャルル村長を、守らなければ、と、それだけでした」
「……玲さん」
「これが、何を、意味するのか、私には、まだ、よく、分かりません」
「……」
「行政的に、整理しようとしても、できません」
「……」
「ただ」
「はい」
「あなたが、このポポロ村に、いてくれることが」
「……はい」
「私には、とても、重要な、ことです」
「……」
「それだけ、言えます」
キャルルは、しばらく、無言だった。
それから──。
じわり、と、目に、涙が、溢れてきた。
「……玲さん」
「……泣かせてしまいましたか」
「違います」
「……?」
「嬉しくて、泣けてきました」
「……」
「玲さんが、そういうことを、言ってくれるとは、思っていなかったので」
「……不器用ですみません」
「不器用で、いいです」
「……」
「不器用なくらいが、玲さんらしくて」
「……」
「好きです♡」
キャルルが、目を、細めた。
月明かりの中で。
うさ耳が、ぴょこぴょこ、揺れていた。
その瞳に、紅い色は、なかった。
ただ、純粋な、温かさが、あった。
「キャルル村長」
「はい」
「一つ、約束してください」
「はい」
「自分を、後回しに、しないと」
「……それは、昨日も、お互いに、約束しました」
「もう一度、します」
「……はい。約束します」
「では、私も、約束します」
「……何を」
「自分を、後回しに、しません」
「……本当ですか」
「……善処します」
「約束でしょう!?」
「……はい、約束します」
「ふふ」
「笑わないでください」
「だって、可愛いんですもの♡」
「……」
「ふふ、ふふふ♡」
キャルルが、笑った。
玲は、かすかに、頬が、熱くなるのを、感じた。
(可愛い、という評価を、受けたのは、生まれて初めてかもしれない)
市役所時代、窓口で、そんなことを、言われたことは、一度も、なかった。
「玲さん」
「はい」
「今日、ありがとうございました」
「何が、ですか」
「全部、です」
「……」
「祭壇を、笑わないで、くれて」
「……」
「逃げないで、いてくれて」
「……」
「ここに、いてくれて」
「……」
「それだけで、十分です♡」
二人は、コーヒーを、飲み終えた。
空には、満天の、星が、輝いていた。
満月は、沈んだ。
でも──。
星明かりで、十分、明るかった。
「では、おやすみなさい、玲さん」
「おやすみなさい、キャルル村長」
「明日も、よろしくお願いします♡」
「こちらこそ」
キャルルが、屋上から、降りていった。
玲は、一人、星空を、見上げていた。
風が、吹いた。
月見大根の、甘い香りが、漂ってきた。
「……居場所」
玲は、もう一度、その言葉を、つぶやいた。
今度は、確信を、持って。
ここが、私の、居場所です。
市役所時代、玲は、誰にも、見られずに、死んでいった。
でも、ここでは──。
キャルルが、見ている。
リリスが、見ている。
ユートと、クレアが、見ている。
ネギオが、見ている。
スアイが、見ている。
村人たちが、見ている。
皆が、白石玲を、見ている。
玲は、ゆっくりと、目を、閉じた。
そして、階段へと、向かった。
明日も、仕事が、ある。
書類が、ある。
ハンコが、ある。
そして、守るべき、村が、ある。
それで、十分だった。
第13話・了
【次回予告】
満月の夜の後、ポポロ村は、静かな日常を、取り戻し始めていた。
ユートとクレアは、認可勇者への道を、歩んでいた。
スアイは、スキー場の運営を、着々と、進めていた。
しかし──。
村の、はずれで、ネギオが、玲を、呼んだ。
「貴様、来い」
「何ですか」
「見せたいものが、ある」
そこには、虫の、死骸が、あった。
金属質の、甲殻。
壊れた、機械のような、内部構造。
「これは、自然の、魔物では、ない」
「……」
「作られたものだ」
ポポロ村の、はずれで、見つかった、不自然な、死骸。
それは──。
死蟲機の、偵察隊の、残骸だった。
そして、玲は、歴史書で、読んだ、名前を、思い出す。
「サルバロス……ですか」
書類とハンコで、異世界を変えていく物語。
第二の山、本格始動。




