第54話 名前を呼ぶ
第54話『名前を呼ぶ』
ラーメン屋は、港の湿った空気から逃げるように、歩いて十分の場所にあった。
古びた看板の灯りが、雨上がりの濡れたアスファルトに琥珀色の影を落としている。カウンターだけの小さな店内に、二人で入った。
店主が無造作に置いたコップ。盤は、その表面に結露した水滴を指でなぞり、一気に煽った。喉を抜ける氷のような冷たさ。
「……うまい」
「水が? 盤、あんた本当に安上がりね」
澪は少し笑った。メニューにある「醤油」「塩」「味噌」という並び。それは、昨日までの戦場には存在しなかった、あまりに贅沢な「選択」だった。
運ばれてきた醤油ラーメンの湯気が、盤の頬を温める。
一口啜った瞬間、暴力的なまでの旨みが味蕾を叩いた。支給品のサプリメントや、泥のような水の味を、熱いスープが洗い流していく。盤は黙って麺を啜った。澪も、隣で静かに箸を動かしている。言葉はいらない。ただ「生きている」ことを、味覚という機能が叫んでいた。
店を出ると、夜の街が広がっていた。
車が走り、人々が話し、遠くから流行りの音楽が聞こえる。自分たちが地獄を泳いでいた間も、この街は平気な顔で動き続けていた。
「……公園、あるわね。盤、寄っていきましょう」
小さな公園には、街灯が一つあるだけだった。
二人は街灯の下に、吸い寄せられるように並んで立った。
「……終わったな、本当に」盤が呟く。
「怖かった。……死ぬかと思ったわ、何度も」
澪は空を見上げた。雲の切れ間に、小さな星が瞬いている。
「でも、あんたがいたから。……盤、あんたがいたから、私はここに立ってる」
「……俺も、同じだ。お前という『重力』がなければ、俺はとっくに計算の中に沈んでいた」
澪が、少しだけ顔を赤らめて盤を見た。死の淵を共に潜り抜けた相棒が、今はただの、恋を知る少女の顔をしていた。
「ねえ。……名前、呼んでいい?」
「今も呼んでいるだろう」
「そうじゃないわ。……天城じゃなくて、下の名前で。そういう……意味を込めて、呼んでいい?」
盤の頭脳から、すべての計算が消えた。代わりに、胸の奥に灯った熱い直感が、その答えを導き出した。
「……呼んでくれ。俺も、お前を『澪』と呼びたい」
街灯の光の下、三メートルの境界線が溶けて消えた。
澪が一歩、前に出る。盤の胸に彼女の額が当たり、微かなシャンプーの香りが鼻を突いた。盤は、壊れものを扱うように、しかし確かな力で、彼女の背中に手を回した。
「……死ななかったな、俺たち」
「ええ。……二人で決めた通りにね」
盤は、胸ポケットの便箋の感触を確かめた。小川と山下の遺志。彼らが夢見た「二人で決める」という救済を、今、自分たちは生きて享受している。
「……澪。これ、なんて呼ぶんだ。俺たちの、この関係を」
澪は盤の胸に顔を埋めたまま、くすぐったそうに笑った。
「……『恋人』よ。異論、ある?」
「……ない。決定だ」
街灯が揺れ、夜風が吹き抜ける。
それはどこにでもある、退屈で、幸福な、普通の夜だった。
名前を持つ人間として。
二人は、朝が来るのを静かに待っていた。




