第1話 これは、詰みだ
からくりデス・ゲーム憲章
前文
人類は戦争を放棄した。
しかし、争いそのものを捨てることはできなかった。
ゆえに我々は定める。
すべての争いは、「からくりデス・ゲーム」によって決する。
第1話「これは詰みだ」
その日、世界は巨大な「盤上」へと作り替えられた。
最初に誰が死んだのか、天城盤の記憶には残っていない。
ただ、鼻腔にこびり付いて離れないのは、鉄錆と硝煙、そして――昨日まで同じ教室で談笑していたはずの「肉」が、高温で焼かれた際の、あの噎せ返るような死の臭いだけだ。
――乾いた、無機質な破裂音。
視界の端で、前の席に座っていた男の頭部が、出来損ないの柘榴のように弾け飛んだ。消しゴムを貸した、借りた、その程度の淡い縁。その程度の記憶すら、たった一発の弾丸によって「清算」される。飛び散った鮮血が盤の頬を汚したが、彼はそれを拭うことすら忘れていた。
「な……に、これ……。嫌だ、帰して、お願い……」
誰かの掠れた嗚咽が、埃っぽい空気を震わせた。
そこはもう、朝、欠伸をしながら潜った教室の扉の向こうではなかった。窓硝子はことごとく粉砕され、剥き出しの鉄骨が、断末魔を上げたまま硬直した肋骨のように突き出している。広大な廃墟。コンクリートの床に幾層にも塗り重ねられた黒ずんだ染みは、この国が百年続けてきた「選別」という名の暗部を物語っていた。
そして、生き残った者全員の首には、鈍く光る黒い首輪。
『静粛に、諸君。これより、第七次国家戦将棋適性試験――通称【プログラム】を開始する』
頭上から降り注ぐのは、感情を去勢された人工音声だ。
『かつて、この国が列強の軍靴に踏みにじられた際、我々の祖先は知略のみで独立を勝ち取った。その英知を継承する権利を、君たちの命を対価として証明せよ。君たちはこれより、祖国の「駒」となるのだ』
ざわめきが怒号へ、怒号が絶叫へと変わる。
「ふざけるな!」「法に触れるぞ!」
――再度、破裂音。
抗議の声を上げた少年の首が、内側から爆ぜた。首輪から噴き出した高熱の火花が、隣の女子の白い頬を容赦なく焼く。彼女は声も出せずに、広がる血の海へと膝をついた。
『命令違反、および無断発言は「不備」と見なす。次に口を開くときは、戦術を提言するときのみと心得よ』
暴力的なまでの静寂が、廃墟を支配した。
その極限の沈黙の中で。
天城盤だけが、ひび割れた椅子に深く腰掛けたまま、静かに息を整えていた。
(……なるほど。これが「歴史」の継承か)
異常なことに、盤の心拍は劇的に落ちていた。
彼の視界が、ゆっくりと変質し始める。ひび割れた床の上に、青白い燐光を放つグリッドが走る。縦と横、九×九。廃墟の空間が、巨大な将棋盤へと書き換えられていく。
幼少期から、彼はこの「病」と共にあった。
盤面を前にすると周囲の雑音が消え、世界が数字と最適解だけで構築される。今、その対象が、人間という名の肉塊に変わっただけだ。
(歩兵、弓兵、騎兵……配置は明治期の陣立てを模しているのか。だが、入口付近の密度が高すぎる。あそこに固まっている連中は、初手で一掃される。悪手だ。あまりに、素人以下の悪手)
盤の首輪が、短く振動した。網膜にシステムメッセージが浮かぶ。
【役職:歩兵】
【特性:前方一マスへの移動許可。敵陣深部への到達による「成」が可能】
「……最弱か」
唇の端が、わずかに吊り上がる。
周囲では、「鉄砲兵」の役職を得て錯乱した虚勢を張る者や、「王将」の指定権から逃れようと他者を売り渡す者たちが、醜く争い始めていた。昨日までの「クラスメイト」という絆が、わずか三秒の恐怖で溶け落ち、剥き出しのエゴが廃墟に充満する。
(既に盤面は、血で汚れているな)
その時。
遥か彼方、廃墟の闇の向こうで、冷徹な火線が走った。
「敵襲だッ!!」
隣接する『B組』が、既に軍を動かしていた。容赦のない精密狙撃。崩れ落ちる壁。
「逃げろ!」「嫌だ、死にたくない!」
無秩序に走り出し、遮蔽物のない通路へ飛び出すクラスメイトたち。彼らは駒ですらない。ただの、散らばる不純物だ。
(このままでは、三〇秒で全滅する。文字通り、詰みだな)
盤は、静かに立ち上がった。
近くでパニックになり、腰を抜かしている大男の肩を掴む。ラグビー部のフォワード、佐藤だ。部活帰りに一度だけ、一緒にラーメンを食べた記憶が疼いたが、盤はその「ノイズ」を脳の隅へと追いやった。
「おい、佐藤」
「あ……あまぎ? なんだよ、お前、その顔……! なんで笑ってられるんだよ!」
「走れ。あの五メートル先、錆びた円柱までだ」
「はあ!? 死ぬだろ! 狙撃されてるんだぞ!」
「お前が走れば、あいつは必ず撃つ。あいつの銃は『三八式改』、リロードに一・二秒の硬直が発生する。お前が撃たれた瞬間が、唯一の隙だ」
盤の声には、温度がなかった。
それは命令ですらなく、ただ確定した未来を告げる神託のように響いた。
佐藤は蛇に睨まれた蛙のように、盤の瞳に宿る狂気に突き動かされ、転がるように走り出した。
――乾いた音が響き、弾丸が佐藤の太ももを貫く。
「ぎ、あああああッ!!」
(計算通りだ。一・二秒、開始)
盤は既に、地を蹴っていた。
絶叫し、崩れ落ちる佐藤の背中を、文字通り「踏み台」にする。肉の沈み込みをバネに変え、爆発的な加速で敵の死角へと滑り込む。銃声の残響が壁に反射し、敵の意識が獲物を仕留めたという高揚感に固定されている、その刹那。
敵の鉄砲兵の背後。距離、ゼロ。
道すがら拾い上げた、鉄筋の切れ端。盤はそれを、最短距離の刺突で敵の延髄へと叩き込んだ。
ぐしゃり、と嫌な音がした。
頭蓋が陥没し、脳を破壊された敵兵が、糸の切れた人形のように崩れる。
盤は、その手からまだ熱い銃を奪い取った。返り血が顔全体を覆ったが、瞬き一つしない。
(残弾、三。この距離なら、後方に控えている『角』の脳漿をぶちまけるのに十分だ)
盤の瞳は、もう人間の熱を宿していなかった。
彼に見えているのは、友の死体でも、敵の絶望でもない。ただ、最適解へと続く、光り輝く筋道だけだ。
「歩は、後ろへは下がれないんだ。一歩ずつ、死を積み上げるしかない」
彼は、足元で呻く佐藤を一瞥することもなく、銃口を闇の向こうに潜む『王』へと向けた。
「三手で、この盤面を掃除する」
その口元には、残酷なまでに美しい微笑が浮かんでいた。
それは救世主の笑みではない。
戦場という名の極限の盤面を、狂おしいほどに愛してしまった、一人の棋士の悦楽だった。
「――チェックメイト。これは、詰みだ」




