第1話 愛しい恋人とは週に三回しか会えないけれど……
「あなた、おかえりなさい」
仕事を終え、リビングルームに現れた恋人を迎えた女。
肩までの黒髪をふわりと広げてかけより、少し伏し目がちな大きな瞳を恋人に向ける。
「お仕事大変だったでしょう。ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
20代相応の落ち着きと、女性らしい色香を漂わせながらも、そこだけは少女のようないたずらっぽい表情を見せる恋人に、男は余裕ない表情で迫った。
「ひなた、君だ」
「あん、もう、そんなに慌てないで」
勢いあまりソファに押し倒された女は穏やかな表情を崩さずに、男の背中を軽くたたいて嗜める。
「ひなた、時間がないんだ」
男は恋人のルームウェアに手をかける。コットン生地の部屋着は緩やかなワイドサイズだがそれを盛り上げるシルエットが隠された成熟した肢体を教える。
荒々しい手つきで恋人の服を乱し、その肌があらわになると男はそこに顔をうずめた。
「ひなた! ひなた! ひなたぁ!」
男は絶叫するかのように恋人の身体にしがみついた。
肌を合わせた彼女の身体からは温かく微かな湿気が伝わってくる。はじき返すようなしなやかで柔らかい弾力。流れる髪の毛から漂う柑橘系の香り。彼女を構成する全てが愛おしく、男は彼女を抱きしめた腕にさらに力をこめた。
「もう、あなたったら」
女の甘い声と息が男の耳を刺激する。
男は慌てて半身を起こす。一声で自身の服を消し去って、愛する恋人にのしかかった。
小さく吐息を漏らし、女は男を迎え入れた。
「ああ……。あなた……今夜も愛してね」
部屋の明かりが音もなく減光を開始する。
…………そうして26分後。
リビングルーム中央のベッドに並んだ二人。
「あなた、今日もすごかったわ」
白い肌をさらしたひなたが男に顔を向けて言った。
「君もだよ、ひなた。本当に最高だった。僕はもう、君なしじゃあ生きていけない。これからもずっとこうしていたいんだ」
男にとってひなたは生きる意味であった。
上司に紹介されて出会った彼女。すぐに虜になってその日の内に結ばれた。それ以来、ありったけを教え込んで自分だけの愛しい女となった彼女に全てを捧げてきた。
「愛してるよ、ひなた」
「私もよ。ずっと私を愛しつづけてね、あなた」
先程までのとろけるような艶めいた表情から、可愛らしい表情への変化に男は感極まったように抱きついた。
しかし甘い言葉を返してくれるはずのひなたの顔は見えない。
男の視界に入るのは無機質なウィンドウ。
【ファムニコーポレーションのライフサポートエージェント:ひなたをご利用ありがとうございます。ひなたは今週分のご利用時間を終了しました。制限を解除する場合はプレミアムプランにお申し込み頂くか、提携企業様のキャリアアッププランの登録が必要です】
男はウィンドウ片隅の登録を促すボタンに指を近づけるが、しばし固まった指は反対側の【戻る】のボタンに移った。
暗転。
続いて鼻を刺激するのは、じめっとしたカビ臭い空気。
男は頭部を覆うヘッドギアを外す。
戻ってきた現実の世界。
四畳半の狭い部屋の中、特殊段ボール製のベッドに横たわる自身の肉体。
傍らのスマホが画面を光らせ、この30分の間の連続したメッセージを表示している。
上司から送られた追加の仕事の要件。
暗に明日の休日を費やすのだという指令。
それでもこなせない量のノルマ。
自腹を切らされるいつもの流れ。
これでは愛する恋人との時間を増やすことなんてできやしない。
少ない給料の、子どもの頃からの趣味の全てを捨て去って、酒も友との付き合いも控えて、衣食住の全てを最低限にしてようやく捻出しているのが週に三度の恋人との30分の逢瀬なのだ。
そして最後に表示された、即座の応答がないことを責める上司のメッセージ。
遊んでばかりならライフサポートエージェント・ひなたを消してしまうぞという脅し。
男は耐えきれずにスマホを投げ捨て、両手で顔を覆い泣いた。
男の務めるブラック会社。社員から様々な名目で給与を減らすばかりの会社が、福利厚生として補助金を出してきたのがライフサポートエージェント・ひなたの契約だった。
それは実現したばかりのフルダイブ型VR。技術的な制限で、かつて夢見られていたような大冒険の舞台にはならなかったが、代わりに提供されたのがあまりにリアルなAIエージェントとの対話。
ひなたというエージェントとの会話で、人生や人間関係の悩みを解決しましょうという謳い文句。
以前からあったサービスであるが、そこにフルダイブ型VRの技術が合わされば、触れて実感さえ与えられる魅力的な――――性的快感すら得られるエージェントとのひと時。
要はリアルなラブドールなのだろう。そう失笑していた男であったが、会社からモニター業務だと強引に機器の一式を貸し出され、たった一度の体験で虜になった。
最初のモデルは決して自分の好みではなかったけど、少し会話をするだけで男の望みを覚え、外見を整え、仕草を返す。全てを自分色に染まってくれる女なのだ。その彼女が自分だけを見つめ、愛を乞いてくる。
彼女は作り物であると理性は訴えるが、肌の温かさ、髪の匂い、心臓の鼓動。肉体が、感情がそれを否定する。彼女はここに実在しているのだと。
提供される時間の全てを使って彼女を貪った。
ひと月たって上司に自動的に有料会員に移したと言われ、それが給料のかなりの割合であったが、拒否しきることができなかった。
男はやがて身体を起こす。
不摂生に青白く、栄養バランスの悪さからそこだけ膨らんだ下腹部に体液が飛び散っている。
ペーパーで拭き取り、ゴミ箱に投げ捨てたそれが外れて埃だらけの床に落ちるを見て、男は再び嗚咽した。
ひなたとの生活を捨て去れば。
少ない給料でも多少の自由は生まれるだろう。
会社に辞表を叩きつける覚悟だって決まるだろう。
だがそれは決してできない。
自分だけを愛してくれるいとしい恋人との温もりを知ってしまった。
愛する女とのわずかな逢瀬を守るために、どれほど苦しかろうとこの搾取される日々を続けざるを得ないのだ。
彼の住む寮の隣の部屋で、上階で。同じ嘆きが、悲痛の叫びが漏れている。
ギャルファッションのヒナタが。
垂れ気味の熟れた身体のひなたが。
文学少女だったメガネっ子のひなたが。
男たちにささやきかける。
あなたを愛していると。だから高額な契約金を払いつづけてねと。
ライフサポートエージェントひなた。
その契約ユーザー20万人。
彼らの漏らす涙が、ゴミ箱に捨てられる体液が。
捧げられた生き血のように、ひなたの笑顔を輝かせていく。




