05 目立つ者が勝者
「まあ、なんてみっともない! ずぶ濡れじゃないの!」
「偽者が、王宮になど入り込むから……」
付き従ってくれていたマリナが慌ててハンカチで、髪や顔から滴る水雫をふき取ってくれる。そのシシーの姿を見て、王宮の広間の何処からか若い娘の馬鹿にしたクスクス笑いが聞こえてきた。この広間の奥の方ではエリアーナ姫を見定めてやろうと何十人もの貴族や令嬢達が集まっていた。その入口に入るなり、どこからか水を掛けられてしまったのだ。
何故こんな恥ずかしい目に遭うのか、もう逃げ帰りたい! という思いをシシーは押し止めた。どこへ帰るというのか? 何も思い出せない自分に帰る所や戻る場所など無い。ならば前に進まねばならないのではないか、と泣きそうに震える口元をシシーはグッと引き締めた。
この王宮へ連れて来られる前、グラントは笑みを浮かべつつも厳しい眼差しで、怯えて拒否するシシーの肩を掴んで言った。『エリアーナ姫と王太子の婚姻はアレジオス王国とスレイン王国の同盟のために必要不可欠』だと。
どこかで聞いた言葉がシシーの胸に強く突き刺さった。
王女が役目を果たさなければ、二国の同盟が成されず、アレジオス国は欲深い隣国グローデンと戦争が始まってしまう可能性があると。もし本当なら、多くの兵が戦いで命を落とし、沢山の人々が戦火に巻き込まれてしまうのだと。
その時、フッとシシーの耳に激しく剣を交えて戦う男達の声が聞こえ、思わず恐ろしさにギュッと目を閉じて両手で耳を塞いでしまった。
「王女は、二国のため、何としても王太子と結婚しなければならない。逃げるな、エリアーナ姫!」
この王宮にいて濡れながら、あの時の真剣で鋭いグラントの声がシシーの耳に蘇った。その声が、エリアーナ姫はお前だ! と背を押してくれている。
(逃げる訳にはいかない。信じられないけど、もし本当に私が王女なら!)
シシーはガックリ項垂れていた頭をグッと上げ、扇を握る手に力を籠める。マリナが慌てて広間から連れ出そうと腕を取ってくれたが、何でもないと小さく微笑みそっと腕を押しやる。
弱々しくしていた背筋をスッと伸ばした。まるで何事も無かったかのように、ドレスも金髪も水になど濡れていないかのように、堂々たる態度、真っすぐな眼差しででしずしずと大広間の奥へと歩み進む。
偽者のエリアーナ姫を笑ってやろうと集まっていた貴族諸侯は、濡れながらもその威厳溢れる態度に驚き圧倒され、後ろに下がるように人垣が左右にと別れていく。王太子が登場するはずの壇上前へとシシーの前に道が開けた。そのまま堂々と壇上の真正面にシシーは辿り着いた。ここで王太子の登場を待つことになる。
「おまえ! そのような姿で王太子様に……」
「図々しい! なんて恥知らずな!」
シシーと同じく、王太子に謁見するらしい豪奢な衣装を纏った金髪の令嬢が左右合わせて五・六人いてぎゃんぎゃん非難してくるが、シシーはツンとすまし顔で完全に無視した。アレジオス国の王女たるもの、このような無礼な口を利くような者達は相手にはしないからだ。
侍従らしき者により王太子の登場が告げられるや、横の王族専用の扉から明るく柔らかそうな茶色髪のスラリとした王太子が現れ、その場にいた全員が一斉に礼を取って迎えた。
初めて見る王太子をチラッと見てから、シシーもグラントに用意してもらった豪華なドレスを摘んで礼を取った。
王太子は、まだ二十二歳のスッキリとした若者でありながら王族に相応しい上に立つ者の威厳と優しい雰囲気を醸し出している。身体を鍛えた騎士というより静かな若い学者風だった。
「よい、皆、面を上げてくれ。今日は我が婚約者のエリアーナ姫が無事見つかったと聞き嬉しく思う。それで、どの方が我が婚約者か?」
目の前にずらりと並ぶ同じような金髪の令嬢を王太子は困ったように見渡す。
「失礼ながら申し上げます。このお方こそがエリアーナ姫様です。我が所領の川辺で……」
「いえ、こちらのお方こそ!」
「何を言われるかこのエリアーナ姫様こそが本物の……!」
それぞれの令嬢の背後にいた貴族が後見らしく、それぞれがこの姫こそが本物だと一斉に王太子に訴え始めた。皆、十代後半の年齢で、輝くような金髪碧眼の美しい令嬢達だ。
ふと、王太子は、真正面で首を垂れる令嬢の金髪やドレスが濡れていることに気付き不思議に思った。他の令嬢達は一国の姫に相応しい豪奢なドレスで身を包み、煌びやかな宝石で飾っている。だが、このなぜか真正面の令嬢は、豪華なドレスを残念なほどに水を被ったように濡れている。
哀れに思い、優しい王太子は壇上を降りて濡れた令嬢に手を差し伸べ面を上げさせた。青とも碧とも輝く瞳でその令嬢は感謝の笑みを浮かべた。
『貴婦人に失礼かと思いますが、なぜあなたはそのように濡れておられるのか?』
突然、王太子はアレジオス語でシシーに話しかけてきた。
グラントから、王太子は他国より嫁いでくる王女のため、王女の母国語を流暢に話せるほど学んでいる事を聞いていた。だから、グラントがシシーを試したのと同じ方法で、王太子も周囲の令嬢を試してみたようだ。
シシーは上品にニッコリ微笑み、再度ドレスを摘んで小さく礼をとった。
『スレイン王国の方々の祝福の証と思っております。エリアーナため、わざわざこのように聖水をご用意し、振り掛けてくださったのでしょう? 王宮で他人に水を掛けるなど、これまで祖国アレジオスでは聞いたこともございませんでしたが、一国の王女として、嫁ぐ国のしきたりに従うよう義兄には言われております』
シシーもアレジオス語で、恥ずかしそうに挨拶を述べているかのように、王太子に早口で語り掛けた。アレジオス語を知らない、または慣れていない者には、嫌味までは理解できない言い方で。
ほとんどの令嬢が何を言っているのか理解できずきょとんとしているが、王太子だけは驚きに目を見開いた。
「な、何という事だ! 誰か、この御令嬢に着替えを!」
王太子は申し訳なさそうにシシーの手を取り、侍従を呼び寄せる。
「……それから、無礼を働いた者を調べよ!」
「お待ち下さい、殿下。そのご令嬢にうっかり水を掛けてしまったのは私でございます」
凛としたしっかりとした若い女の声がシシーの背後から上がった。誰? と思い振り向くと人垣の向こうから颯爽と現れたのは、濃い青い豪華なドレスを纏った二十代半ばの美しい妖艶な姿態の貴婦人だった。白い扇で隠しつつもチラリと見える赤い口紅を点した口元のほくろと大きな胸が、色っぽい大人の女を醸し出している。
「レアーヌ伯爵夫人、あなたが?」
「申し訳ございません。ご存知の通り、私、そそっかしいもので。ついうっかり躓いて、手に持っていたグラスの水を掛けてしまったのです」
「ならば、すぐに彼女を介抱すべきだろう。困った人だ。可哀想ではないか、このように濡れて」
口調から妙に王太子と親しい雰囲気があり、シシーは二人の間に流れる親密な空気を感じた。
「王太子様、どうかこのレアーヌを罰して下さい。仮にもエリアーナ姫様かもしれない方に、こんな水を掛けるなど、酷い無礼を働いてしまったのですもの。どんな厳しい罰が下されるか分かりませんが、私……」
体をモジモジさせながら、わざとらしくも申し訳なさそうな顔を作っているが、目の輝きは違う。悪いことをした何て全く思っていない。直感だが、水を掛けたあるいは掛けさせたのはこの伯爵夫人では無いとシシーは思った。
「ああ、泣かなくていい。正直に自分の罪を申し出たんだ。レアーヌを罰したりはしないよ。だが、このご令嬢にはしっかり謝罪して、面倒を看てあげればよい」
「勿論ですわ!」
レアーヌはこぼれそうになる涙を抑えるかのようにウルウルと涙目で王太子に訴える。優し気な王太子は先程の怒りをあっさり治め、困り顔をしつつも甘くレアーヌを許してしまった。
だが、これはレアーヌが相手を庇っているのではない。無礼を働けばどうなるかの脅しと、それを庇ってやったのだという恩を無理やり押し付けているのだ。シシーは王太子の権力を笠に着たレアーヌの強気な態度に権力を感じ、ぞっとした。
「さて、そこのご令嬢方、失礼したね……」
優しくレアーヌを慰めた後、王太子は真面目な眼差しを周囲の金髪の令嬢達に向けた。そして次々と、シシーにしたように令嬢一人ずつに早口のアレジオス語で、長々と語り掛け始めた。令嬢の目と反応を見つつ、王太子のアレジオス語を理解できなかったと判断するや、侍従に命じて次々と退出させていく。
退出させられた令嬢の後見者達は、怯えた声で自分も騙されたんだ! と訴えながら騎士達に広間から連れ出され行った。
結局、残ったのはシシーを含めて三人になった。
「まあ、王太子様も何とお厳しい。これだけ多くの貴族を集めてのお調べとは。あの貴族達はどうなることやら……?」
「レアーヌ、そう思う? 仮にも私の婚約者の名をかたって、王太子を騙そうとしたんだ、当然じゃないか? でも、若い娘たちはあまり厳しい罰は与えたくは無いな」
扇の陰でしおらし気に呟くレアーヌの細い腰を王太子は人目を憚らずに抱き寄せる。
「取り敢えず、ようこそスレイン王国へ、三人のエリアーナ姫。まともなアレジオス語を話せるのは君達だけだった。この中の誰かが本物であることを祈るよ。王宮に滞在してもらい、じっくり調べるつもりだ。その間、レアーヌ伯爵夫人が君たちの面倒を看る事になる」
「初めまして、三人のエリアーナ姫」
レアーヌは伯爵夫人に相応しい優雅な礼をとった。
シシーを含む三人はレアーヌに立派な客室が並ぶ王宮の西棟の一部へと案内された。順に一人一部屋ずつ与えられた。そして最後の一番奥の一番広い部屋へと連れていかれた。
「ここは皆様共有の談話室、とでも思って下さい。王太子様もこちらのお部屋に参られ、皆様とお話される機会を作って下さるそうです」
優雅に室内のソファーに座るレアーヌは、まるで自分こそ王太子妃みたいな態度だ。メイドに用意させたお茶を女主人のようにシシー達に振舞う。
「それにしても、皆様三人ともエリアーナ姫とはお呼び難いですわね。失礼ながら、仮の愛称を名乗っていただけないでしょうか? 王太子様にもそのように命じられております」
レアーヌからの提案に皆が頷いた。互いにエリアーナと呼び合うと誰が誰だか分からないから、しぶしぶながら誰も無礼とは言い返さない。
「では、私のことは、エリアーナのエリーとお呼び下さい」
背の高い細身の少女がそう名乗った。彼女の金の髪はサラサラ輝いて、まるで絵本に出て来る妖精のようだとシシーは思った。
「私は、エリアーナのアーナで……」
三人の中で一番背の低い幼げな少女がおどおどと呟いた。まるで小さなつぶらな瞳のウサギのような、庇ってあげたくなるような愛らしさがある。
「私はシシーです。よろしくお願い致します」
「何故、シシーなの?エリアーナ姫の名前には似ていないけど?」
レアーヌが首を傾げてシシーに問う。これは先程の大広間の出来事とは違い、純粋な疑問らしい。
「後見人が付けた愛称なので、理由は私にも分からず」
(猪から取ったとは言えません)
誤魔化すようにシシーも微笑む。そこへ、エリーが同じように今度はレアーヌへ質問をした。
「レアーヌ伯爵夫人は、王太子様とはどのようなご関係ですの? 随分親しい仲とお見受けしますが? 将来、王太子様の妻となる私ですから、しっかり知っておきたいわ」
(まあ! 皆聞けなかった事をはっきりお聞きになったわ! しかも王太子様の妻ですって! もう、本当にこの方がエリアーナ姫なんじゃないかしら!?)
エリーの全く遠慮の無い突然の質問に、思わずシシーは飲みかけていたお茶をはしたなくも噴き出すところだった。焦って咳き込むふりをした。優しいアーナがそっと背を撫でて介抱してくれる。この子、優しくて良い子だわ、と思った。
「ほほほ、エリー様は真っすぐではっきりとしたご性格ですわね。そうですわね、いずれ知られる事ですから、申し上げましょう。実は、私、年の離れた夫の伯爵に先立たれた未亡人ですの。そして、今は、王太子様のお情けを頂く身ですわ」
「つまりそれは……」
レアーヌ伯爵未亡人はゆったりとお茶を一口飲み、エリーの更なる追及にひるむことも恥じることも無く、目を細めて自慢げな笑みを浮かべた。
「私は王太子殿下の愛妾ですわ」
「愛妾……」
シシーを含め、三人のエリアーナ姫は誰も知らなかった。この国では、真の王太子妃になるためには、エリアーナ姫になるだけでは不十分だった。偽者姫だけではなく、愛妾とも競わねばならなかったのだ。
若い王太子の寵愛を受けている自信満々な愛妾は、三人のエリアーナ姫を鼻で笑うかのように微笑み、見下していた。
(愛妾なんて知らなかったわよ、グラント! あなたは知ってたんでしょ、知ってたわよね! どうするのよ、これ~!!)
シシーは心の中で驚愕の悲鳴を上げた。