手を繋ぐ
ナカジマが来ない。
ユキはドアの前を、意味もなく何度も往復していた。
朝から何度時計を見たかわからない。
いつもなら朝のうちに着替えを持ってくるのに、昨日も来なかった。
今日も、もう昼を過ぎている。
(別に…来なくても困らないのに)
自分に言い聞かせるように呟く。
それでも足は止まらなかった。
ドアノブに手をかけては離し、廊下を覗こうとしてやめる。
自分が待っているみたいで、嫌だった。
(なんで、こんな不安になるんだろ……)
ナカジマがいないだけで、部屋が広く感じる。
落ち着かない理由を探そうとすると、余計に胸の奥がざわついた。
二日。たった二日なのに、生活のどこかが欠けたみたいに、うまく呼吸が合わない。
――コンコン。
控えめなノック音に、心臓が跳ね上がる。
「……どうぞ」
扉が開く。
ナカジマだった。
いつものように畳まれた服を抱えている。
けれど顔色が悪い。
目の下にくっきりと影が落ち、明らかに寝ていない。
「着替え、持ってきた」
声は平静を装っているが、どこか掠れている。
ユキが受け取ろうと手を伸ばすと、そのまま視線が絡む。
視線が、やたら重い。
まるで足りなかったものを補うみたいに、何度も何度も見てくる。
そして、しばらく沈黙が少し続いた。
「……遅かったね」
ユキが先に口を開く。
「ああ」
どこか上擦ったみたいな短い返事だった。
「何してたの」
「……考え事」
曖昧な答えの割に、視線だけは逸らさない。
さっきから、ずっと見ている。
正直、異様だ。
この男に限っては、これが通常寄りではあるが。
ユキは少しだけ眉を寄せた。
「ずっと私の事見てない?」
やっと本題に触れる。
ナカジマは一瞬だけ目を伏せ、それから観念したように戻す。
「……自覚はある」
そう言いながら、ナカジマはため息を吐く。
「あるんだ」
「ああ」
その肯定に、部屋の空気がわずかに変わった。
ユキはベッドに腰を下ろし、ナカジマを見上げる形になる。
「なんで?」
問いかけは軽いが、視線で逃げ道を塞いでいる。
ナカジマは答えを探すように、数秒黙る。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……足りなかった」
「なにが」
「ユキを見る時間が」
ナカジマの指先が、わずかに震えているのが分かった。
その言葉は不器用で、正直すぎる。
ユキの喉が、ひくりと揺れる。
「麻婆豆腐と笑ってただろ」
声は低いが、抑えきれていない。
「帰ろうと思った。邪魔だと思って」
ユキの呼吸が止まる。
「でも帰ってから、ずっと頭から離れなかった」
「俺の前では、あんな顔しないって考えたら……寝れなかった」
自嘲気味に、わずかに口角を上げる。
「情けないだろ」
「……そんなに、私の事好きなの?」
ナカジマの呼吸が止まる。逃げ道はない。冗談に流すこともできる。曖昧に笑って誤魔化すこともできる。今までなら、そうしてきた。
「…………」
沈黙が落ちる。ユキは視線を逸らさない。責めていない。ただ、待っている。
「じゃなきゃ、こんな顔で見ない」
小さく、絞り出すように。それでもまだ、どこか逃げ腰だ。ユキはゆっくりと瞬きをする。
「でも、ちゃんと告白されたことない……」
静かにユキは問いかける。
その一言で、ナカジマの背筋が伸びる。
ああ、と思う。
ちゃんと言わなければならない。
曖昧な視線でも、態度でもなく、言葉で。
ナカジマは椅子から立ち上がる。
逃げない。
ユキの正面へ歩き、真正面に立つ。
そして、視線を合わせる。
「好きだ」
今度は逃げなかった。
どさくさに紛れたり、何かの延長みたいに言ってた時とは違う。きちんとした告白。
「死ぬほど好き。ユキが骨になっても離れない」
重い。
分かっている。
だが、誤魔化さない。
ユキは、ナカジマの真剣な表情を見ながら瞬きをひとつする。
そして、息を吐く。
「……ほんと、重い」
「言わせたのはお前だ」
耳が赤い。
けれど視線は逸らさない。
ユキはその赤さを見て、なぜか安心する。
「ねえ」
「何だ」
「手、つなぐ?」
一瞬、ナカジマの呼吸が止まる。
「……え」
「出して」
そう言って、ユキはなんの臆面もなく手を差し出してくる。
ナカジマは一瞬息を呑んだ。
ユキの手が目の前にある。
触れたい。でも、自分が触れていいのか、とも考えてしまう。
やがて、覚悟を決めたように深く息を吐くと、その手をゆっくりと包む。
指が重なる。
絡めない。
ただ重ねるだけ。
それだけなのに、体温が直で伝わる。
ナカジマの顔が一気に赤くなる。
「顔、赤い」
「うるさい。からかうな」
声が掠れている。
ユキは、その反応を見て胸の奥がじわりと温かくなるのを感じる。
前まで、この視線は怖かった。
重さが気持ち悪いと思う瞬間もあった。
必死さに、どこか生理的なざらつきを覚えたこともある。
けれど今、指先が触れているこの瞬間、あの嫌悪はどこにもない。
あるのは、不器用な大人の男が、必死に理性を保っている姿だけだ。
逃げない。触れない。けれど離れない。
それが、思ったよりずっと優しい。
ユキはほんの少しだけ指に力を込める。ナカジマの呼吸が乱れる。
「……ユキ」
「なに」
「これ以上は、危ない」
真顔。その我慢している顔に、胸がきゅっと鳴る。
「もっとギュッてしないの?」
小さく言う。ナカジマの瞳が揺れる。それでも、ほんの少しだけ握る力が強くなる。限界の手前で止める。ナカジマは視線を逸らし、深く息を吸う。
「……来なくて、不安だったか」
唐突な問いだった。
ユキは一瞬だけ言葉に詰まる。
視線を外す。
「別に」
短い。軽い。
けれど声の奥が、わずかに揺れている。
ナカジマはその揺れを見逃さない。
指先が、重ねた手をほんの少しだけ強く包む。
「俺は不安だった」
低く、はっきりと。
誤魔化さない声。
「会えない二日で、あんなに落ち着かなくなると思わなかった」
ユキは瞬きをひとつする。
否定もしない。慰めもしない。
「そっか」
それだけだった。でも逃げない。
その温度に、ナカジマの呼吸が乱れる。
片方だけが踏み込んでいる距離。
ユキは指を離さない。
かといって、絡めもしない。
曖昧なまま。
でも、ナカジマには今それだけで十分だった。




