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弁当

相変わらず麻婆豆腐が来ると、干し肉の匂いが部屋を占拠する。

麻婆豆腐はユキのベッドに半分寝転がるようにして、勝手に持ち込んだ干し肉を齧っている。

靴はきちんと脱いでいるが、態度は完全に自分の部屋のそれだった。


机に頬杖をついたユキは、どこか得意げな顔で振り返る。


「でさーagjtmの顔、めっちゃ悔しそうだった」


口元が、隠しきれない“してやったり”の形に歪む。自分でも子どもじみていると分かっているのに、抑えきれないようだった。

麻婆豆腐もつられてニヤリと笑う。


「ナイスーw俺もあの自信過剰野郎の鼻っ柱折れた面、拝みたかったわ」


干し肉を噛みながら肩を揺らす。

その軽薄な笑いは、どこか本気で嬉しそうだ。我が物顔でベッドの住人になっている麻婆豆腐を見て、ユキは呆れたように言い返す。


「で、ほぼ毎日私の部屋入り浸って……あんた暇人か」


麻婆豆腐は顔すら向けずに鼻で笑った。


「お前も暇人だろ。来てやってることにありがたく思え」

「頼んでないけど」

「心の奥では泣いて喜んでるくせに」

「ないない」


いつもの軽口が飛び交う。

けれど追い出そうとはしないし、麻婆豆腐も当然のように居座る。

いつの間にか、この距離が当たり前になっていた。

部屋の中には干し肉を噛む規則的な音だけがしばらく続き、塩気の強い味が妙に落ち着く。


やがて、麻婆豆腐が天井を見たままぽつりと呟いた。


「……そういや」


噛みかけの干し肉を口の中で転がしながら、わざとらしく間を置く。


「最近、ナカジマの方はどうなんだよ」


声は軽い。

だが目は天井ではなく、横目でユキの反応を探っている。

ユキは一瞬だけ視線を止め、それから何でもないふうを装って机の上の指先をいじった。


「どうって?」

「毎日来てただろ、あいつ。洗濯だの何だの理由つけて。今日、見てねーなと思って」


その言葉で、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。

さっきまでの軽さが、わずかに沈む。

ユキは窓の方へ視線を逃がした。


「……昨日から、見てない」


その声は、思ったより小さかった。麻婆豆腐の噛む音が止まる。


「は?」

「昨日、来なかった」


淡々と言おうとしているのに、どこか引っかかる響きがある。


「毎日来るのに」


その一言で、自分がどれだけ“毎日”を前提にしていたかが露呈する。

麻婆豆腐はゆっくりと体を起こした。ベッドの軋む音が、やけに大きい。


「へぇ」


短く返すが、顔は笑っていない。

ただ、興味深そうにユキを見ている。


「珍しいな」


ユキは肩をすくめる。


「忙しいんじゃない」

「お前に言わずに?」


軽く投げた言葉だが、筋は通っている。

ユキは答えない。

代わりに指先が、机の縁をなぞる。


「……別に。来なくても、困らないし」


そう言いながら、視線が扉の方へ一瞬だけ向く。

ほんの一瞬だった。

それでも麻婆豆腐は、そのわずかな動きも見逃さなかった。


「ふーん」


わざとらしく鼻を鳴らす。


「毎日来てたやつが急に消えたら、ちょっとは気になるだろ」

「気になってない」


間髪入れずに反論する。

二人の間に、沈黙が落ちる。

麻婆豆腐はしばらくユキを見て、それから小さく笑った。

軽い調子に戻す。


「まぁいいけどな。どうせあいつ、勝手に戻ってくるだろ。あのストーカーが諦めるわけねーし」


冗談めかした言い方だった。

だが、その言葉にユキの喉がわずかに動く。

毎日来ていた足音が、昨日からない。

それだけの事実が、ユキの心の片隅にわずかな空白を作っていた。


ユキは何も言わない。

ただ、机の上に置いたままの干し肉を見つめていた。

麻婆豆腐も、それ以上追及はしなかった。

けれど、その横顔はわずかに鋭くなっている――来ない理由がある。

そんな予感だけが、静かに部屋の空気に混ざっていった。


そして、その“来ない”という単語が、麻婆豆腐の中の別の記憶を、ひどくあっさり連れてきたみたいに口から落ちる。


「……来ないって言うとさ」


天井を見たまま、いつもの軽い声で続ける。


「確かに参観日も運動会も、ほとんど来なかったな」


どうでもいい話を投げるみたいな言い方だった。

だが、その言葉のあとに残る沈黙が、ほんの少しだけ長い。

ユキは横目で見る。


「一度も?」

「ほぼゼロ。父ちゃんは海外飛び回ってたし、母ちゃんも店の切り盛りで忙しかったし」


肩をすくめる仕草はいつも通りだが、視線は天井に貼りついたままだ。


「ふーん」


興味なさそうに返しながらも、ユキは彼から目を逸らさない。


「別に恨んでねーよ。金はあるし。家デカいし。欲しいもんは大体買ってもらえたし」


言い切ったあと、ほんのわずかに間が空く。


「母ちゃんは弁当だけは毎日作ってくれたけど」


ぽろりと落ちた言葉は、本人の意図を追い越していた。

ユキの視線が止まる。


「毎日?」

「毎日。高校までずっと」

「冷食?」

「いや、普通に手作り。やたら彩り気にするタイプ。意味わからんくらい赤と緑入れてくる」


その記憶を語る声は、どこか柔らかい。

ほんの一瞬だけ、少年の横顔がのぞく。

ユキは静かに言った。


「それさ、愛されてるよ」


麻婆豆腐の手が止まる。


「……は?」

「忙しくても毎日弁当作るって、めんどいよ」


淡々とした声音。説教ではなく、ただの事実。


「参観日って年に何回?三回とか四回?でも弁当は、ほぼ毎日だよね」


ユキは一度息を吸ってから、麻婆豆腐を見つめた。


「どっちが労力かって話」


麻婆豆腐の視線がわずかに揺れる。


「でも来なかったのは事実だろ」


少しだけ声が強くなる。

少し口を尖らせたその姿が、拗ねた子どもみたいだった。


「俺が走ってるとこも、転んだとこも、見てねー」


そこにあるのは怒りよりも、取り残された感覚だった。

ユキは肩をすくめる。


「来なかった。だから寂しかった」

「でも、弁当は来てた」


その対比は残酷なほど単純だ。

矛盾すら感じる。

麻婆豆腐が視線を逸らす。


「……毎日って、そんな大層か?」

「大層」


即答だった。


「熱ある日も?」

「うん」

「弁当箱忘れたとき、母ちゃん車で学校来たわ」


思い出すように呟く。

ユキは短く言う。


「それ、重症レベルで愛されてる」


麻婆豆腐が思わず笑う。

だが目の奥は、わずかに赤い。


「なんかムカつくな」

「なんで」

「俺の“かわいそうポイント”奪うな」


ユキは小さく笑う。


「かわいそうじゃないほうがいいじゃん」


そして静かに続ける。


「寂しいと、愛されてないは別」


その言葉が部屋の中央に置かれ、静かな重みを持つ。

窓の外の光が少し傾き、干し肉の匂いがより濃く感じられる。

麻婆豆腐は黙って干し肉を噛み続ける。味がいつもより塩辛い気がする。


「……知らんわ」


小さく吐き捨てる。


「そんなの」


否定したいのに、言い切れない声だった。

やがて息を吐く。


「まぁ……ゼロでは、なかったかもな」


愛されてた、とは言わない。

認めきれない。

でも、完全に突っぱねもしない。


ユキは頷かない。

ただ、椅子に座りながら干し肉を齧る。

それ以上追い込まないし、救い切らない。


部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らぐ。

麻婆豆腐は天井を見たまま、もう何も言わない。

けれどその横顔から、さっきまでの棘がわずかに抜けていた。

agjtmの悔しそうな顔を笑い合ったあとの、静かな温度のまま。


今はまだ半信半疑。

それで十分だった。

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