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毒の反撃


 ナカジマは悟った。影で刺すつもりだった一手は、既に光で薄められ、形を失っていた。モユルは争わない。争いの種を土に埋め、芽が出る前に水を吸い上げ、何もなかった顔で花壇を整える。周囲は「平和になった」と勘違いする。だが平和ではない。秩序だ。秩序を作った者が勝つ。秩序の中では、異物だけが目立つ。異物とは、波紋を起こそうとした者のことだ。

 ナカジマの胃が、じわじわと痛み始めていた。自分が仕掛けたはずの筋書きが、相手の掌で“美談”に変換された瞬間から、背中に貼り付いた冷汗が落ちない。感謝の言葉で縛られ、善意の輪の外側へと押し出される。目に見える暴力はない。ただ空気だけが変わる。空気が変わると、人は自分から黙る。黙った人間から居場所が消える。

 それでもナカジマは、引けなかった。引いた瞬間に終わる。終わるだけならまだいい。モユルに「いい人」として整理され、ユキに「お世話になった人」として感謝され、以後、最も近づけない距離に固定される。そんな“安全な他人”の位置に封じ込められるくらいなら、いっそ嫌われた方がマシだ。嫌われれば、まだ感情は届く。嫌悪は関心の裏返しだ。届かないより、ずっといい。

 だからナカジマは、毒になることにした。影は光で消えるが、毒は残る。残った毒は、誰かの舌に触れる。触れた瞬間に表情が歪む。歪めば、そこに感情が生まれる。感情が生まれれば、秩序にひびが入る。ひびが入れば、モユルの整えた庭に、雑草が生える。雑草が生えた庭は、見栄えが悪い。見栄えが悪くなれば、ユキは息苦しくなる。息苦しくなったユキは、逃げ場を求める。そこに俺がいる。そういう計算だ。

 最低な計算だと分かっている。分かっているのに、指が勝手に動く。頭が勝手に回る。嫌いだ。嫌いなのに、欲しい。欲しいのに、壊したい。壊したいのに、救われたい。矛盾だらけのまま、ナカジマは次の獲物を探した。獲物なんて言葉を使った時点で自分が終わっているのに、止まらない。

 狙うのは“男”だった。女同士の牽制はモユルの領域だ。女の情緒に、モユルは熟知している。だが男の嫉妬は、もっと単純で、もっと汚い。汚いものは転がしやすい。転がしやすいものほど、勢いがつくと止まらない。止まらない勢いは、火種になる。

 ナカジマは、麻婆豆腐を選んだ。五位。イキリ。語尾に草。失敗したら運営を罵って逃げるタイプ。だが、プライドだけは一丁前。プライドが高い奴は扱いやすい。適当に褒めて、適当に煽れば勝手に暴走する。

【ナカジマ→麻婆豆腐】

 最近ユキ、モユルさんに囲われすぎじゃね?www

 あれ、普通に「ゲーム内私物化」っぽい空気出てきてるけど大丈夫?w

 麻婆豆腐の返事は早かった。犬笛に反応する犬の速さだ。

【麻婆豆腐】

 それなwww

 ユキって9位のくせに女に守られてイキってる感じあるwww

 来た。矢印が立った。ナカジマは、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。悪い快感だ。誰かの悪意に火を点けると、自分の悪意が正当化される気がする。自分が一人じゃなくなる。孤独な悪意は苦しいが、集団の悪意は遊びになる。最低だ。

【ナカジマ→麻婆豆腐】

 そうそう。しかも今、仮想ログアウトあるからさ。セーフティで囲ったら実質“逃げ場”なくなるじゃん?

 本人がいいならいいけど、ユキって断れないタイプじゃん。

 誰かが言ってやんないと詰むと思うわ。

 “ユキのため”という言葉を、毒に混ぜる。毒は甘いと飲まれる。麻婆豆腐は即座に「確かにwww」と返し、そのまま全チャに飛び出した。ナカジマは息を止めた。頼む、飛ばせ。燃やせ。秩序にひびを入れろ。

【全チャ:麻婆豆腐】

 ユキさ〜最近モユルのペット感あるけど大丈夫?www

 囲い込みキツすぎだろwww

 一瞬、広間が静まった。沈黙は、燃料だ。次に来る言葉が全てを決める。誰かが笑えば冗談で終わる。誰かが怒れば戦争になる。ナカジマは、喉が乾くのを感じながら、画面を見つめた。

 最初に反応したのは、アル中だった。

【全チャ:アル中】

 お前それ、冗談でも言い方考えろ。本人いるだろ。

 麻婆豆腐が「え?w」と返すより早く、みっふぃが割って入る。

【全チャ:みっふぃ】

 麻婆豆腐くん、それはないかなぁ♡

 ユキに失礼だよ♡そういうの、やめよ?♡

 やめよ?♡

 柔らかい言葉の形をした刃だ。みっふぃは“味方側”に取り込まれている。つまり今の彼女は、モユルの庭の花だ。花が毒を嫌う。毒を嫌う花が笑顔で叩く。麻婆豆腐は花粉症みたいにむせるしかない。

【全チャ:麻婆豆腐】

 は?w みっふぃもユキの囲い組?w

 空気が、わずかに揺れた。ここでモユルが出てくると最悪だ。モユルが正義を取る。正義を取ったモユルは強い。だが、ナカジマの願いとは裏腹に、モユルは出てこなかった。出てこない。いつも通りだ。出てこない方が怖い。モユルは炎上に参加しない。炎上の“後処理”だけをする。後処理の人間は、最後に勝つ。

 その時、ユキが全チャに言葉を落とした。短く、穏やかに、しかし逃げ道を作らない文体で。

【全チャ:ユキ】

 僕は誰のものでもないです。

 でも、そういう言い方は、少し困ります。

 たった二行。それだけで、場が凍った。ユキは殴らない。怒鳴らない。泣かない。ただ「困る」と言う。「困る」と言われた瞬間、相手は悪者になる。悪者になった相手は言い訳を始める。言い訳を始めた瞬間、負ける。ユキの優しさは、鈍い刃だ。本人は刃だと思っていない。だが刺さる。刺さって血が出る。

【全チャ:麻婆豆腐】

 え、いや冗談じゃんw

 遅い。もう遅い。

 ユキの「困る」で空気が決まった。みっふぃはユキを守る。アル中はユキの側に立つ。Laylaは「ユキが傷ついた」を自分の痛みとして抱え込む。シャンプーは口ではツンとしながらも“ユキが傷つく空気”を嫌う。誰もがユキを守る側に回る。

 そして、守る側に回った人間は、無自覚にモユルの庭の住人になる。

 ナカジマは気づいた。

 これ、俺が作りたかった“ひび”じゃない。

 これは、モユルが作りたかった“整列”だ。

 まるで、見えない号令がかかったみたいに、全員の立ち位置が揃っていく。ユキを中心に、守る者が集まる。守られるユキが固まる。固まったユキの隣に、最後に立つ者がいる。

 モユルだ。

 モユルは、ここで初めて全チャに現れた。

【全チャ:関ヶ原モユル】

 麻婆豆腐さん、言葉を選んで。

 この世界、軽口で済まないことが増えてる。

 ユキは疲れてるの。これ以上、負担かけないで。

 丁寧語。穏やか。正論。

 しかしそれは宣告だった。

 “ユキは疲れてる”。

 “負担をかけないで”。

 この二つの文は、ユキを盾にして相手を斬る文章だ。モユルは怒っていない。怒りの形をしていない。だから反論できない。反論したら、疲れている人間を追い詰める悪人になる。

 モユルは、場を整えた。たった四行で。

 麻婆豆腐が沈黙した。数秒後、捨て台詞のように「はいはいw」と打ってログアウトした。逃げた。逃げた人間は、負けた人間だ。負けた人間は、今後の発言権を失う。

 ナカジマの計画は、そこで崩れた。麻婆豆腐を火種にして秩序にひびを入れるはずが、火種は即座に水をかけられ、灰になった。しかも、その灰は“ユキを傷つけた悪者の灰”として床に落ちた。床に落ちた灰は掃除される。掃除する者は、モユルだ。

 ナカジマは、背中が冷たくなった。

 今の流れを見て、誰が得をした?

 ユキは「困る」と言って、被害者の位置を確定した。

 みっふぃは“守った女”として評価を上げた。

 アル中は“まともな男”として安心を得た。

 そしてモユルは、“ユキを守る正義”を、最小コストで手に入れた。

 対して、失ったのは麻婆豆腐だけ。

 いや、違う。

 もう一人、失っている。

 ナカジマだ。

 ナカジマは全チャに出ていない。出ていないのに、空気が彼を指し始める。何故か。麻婆豆腐が暴走する前に個チャで誰かと話していた可能性。火種を焚きつけた誰かがいる可能性。そういう“可能性”が漂い始めると、群れは嗅ぐ。嗅いで、弱い所に噛みつく。

 そして群れを誘導できるのが、モユルだ。

 ナカジマの個チャが鳴った。送り主は、モユル。

【関ヶ原モユル→ナカジマ】

 ナカジマさん、少し話せる?

 短い。絵文字もない。

 それだけで、胃が沈む。

 呼び出しだ。裁判だ。処理だ。

 ナカジマは笑いながら返そうとした。「何ですか?」と軽く返せばいい。だが指が止まる。軽く返した瞬間に、“軽い人間”として処理される気がした。重く返したら、“後ろめたい人間”として処理される気がした。

 どちらでも処理される。

 モユルに呼ばれた時点で、もう詰んでいる。

 セーフティゾーンの端で、モユルはユキの隣に立っていた。ユキは何も知らない顔で、アル中と雑談している。いつもの穏やかな笑い方。あの笑い方は、誰の心も柔らかくする。柔らかくなると、人は防御が下がる。防御が下がったところへ、モユルは秩序を流し込む。

 ナカジマは、ふらりと近づいた。足が自分のものじゃないみたいに重い。

「呼びました?」

 モユルは、にこりと笑った。

 その笑みが、怖い。優しいのに怖い。優しいから怖い。

「うん。麻婆豆腐さん、急に暴れたね」

「そうですね……」

「ねえ、ナカジマさん。最近、ユキのこと、心配してくれてる?」

 質問の形をしているが、確認だ。ナカジマの返答次第で処理が変わる。

 ナカジマは、喉が鳴るのを感じながら頷いた。

「……心配です」

「そっか。優しいね」

 優しいね。

 褒め言葉が、鎖になる音がした。

「でもね」

 モユルは声を落とした。周囲に聞こえない程度に。聞こえない程度の声で、最も刺さる言葉を選ぶのが上手い。

「心配って、“手を伸ばす理由”にもなるよね」

 ナカジマの背筋が凍った。

 見抜かれている。

 いや、見抜かれたのではない。

 “そういう可能性”として、こちらを分類された。分類された時点で負けだ。モユルの中で、ナカジマはもう「ユキに手を伸ばす男」というカテゴリに入っている。カテゴリに入ったものは、処理される。処理は静かに行われる。誰にも気づかれないまま。

「誤解です」

 ナカジマは反射で言った。

 言った瞬間に、さらに胃が痛む。誤解という言葉は、防御の言葉だ。防御は、攻撃を前提にしている。攻撃を前提にしている時点で、こちらの“やましさ”が露呈する。

 モユルは、笑みを崩さない。

「うん。誤解なら良かった」

 軽い。軽いのに重い。

 そして続けて、最も残酷な言葉を落とした。

「ユキ、あなたのこと信頼してるみたい。だから、お願い。余計なことしないで」

 お願い。

 お願いという形の命令。

 余計なことしないで。

 それはつまり、「あなたの手は要らない」ということだ。

 信頼してる。

 その信頼すら、モユル経由だ。モユルがユキに「ナカジマは信頼できる」と教え、ユキがその通りに信頼している。信頼が“自発”ではなく“教示”だと気づいてしまったナカジマは、もう自分の立ち位置がどこにもない。

 ナカジマは、笑おうとした。口角が上がらない。

 息を吸う。胸が痛い。

 その時、遠くでユキがこちらを見た。心配そうな目。優しすぎる目。

 その目に見られた瞬間、ナカジマの中で何かが切れそうになる。

 言いたい。叫びたい。俺は悪くない、って。俺だって苦しい、って。俺だって、って。

 だが言えば終わる。終わるのは自分だけではない。ユキが怯える。ユキが怯えればモユルが正義になる。正義になったモユルは完全に勝つ。

 ナカジマは、唇を噛んだ。

「……分かりました」

 それしか言えなかった。

 モユルは満足げに頷き、そして最後に、微笑んだまま刺す。

「ありがとう。いい人でいてね」

 その言葉で、ナカジマは完全に理解した。

 モユルは自分を“いい人”に固定する。

 いい人に固定した相手は、悪になれない。悪になれない相手は反撃できない。反撃できない相手は消える。

 消えるのは、声だ。居場所だ。関係だ。

 ナカジマの反撃は、始まる前に終わっていた。毒を撒いたつもりで、毒の瓶ごと取り上げられ、さらに「毒を持つのは悪いことだよ」と笑顔で諭されたのだ。

 その瞬間から、ナカジマの視界には二つの道しか残っていない。

 “いい人”として黙って消えるか。

 “悪い人”として自爆するか。

 そしてナカジマは、黙って消えるほど、綺麗な人間ではなかった。

寝られなくなったので上げました。

TS、GL、BL、ガチ病み、地雷原を裸足で歩いてるような話に付き合って下さって感謝です。

これからも精神リンチ施設でストレス耐久テストして頂けると嬉しいです

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