舌根が渇かぬうち……
「……しばらく、距離置くわ」
その言葉を打ち込んだのは、昨日の夜だった。
モユルに半ば強制されて送った言葉。
個人チャットの入力欄に、何度も書いては消して、ようやく決めた一文。
余計な装飾も、言い訳も、感情も削ぎ落とした、できるだけ“他人行儀”な文章。
――これでいい。
そう納得するしかなかった。
そもそも俺はユキが嫌いだ。 だから、これでよかったんだ。
これ以上、あいつの周りでうろついて、無意味に感情を揺さぶられるのは、時間の無駄だ。意味がない。俺にとっても、あいつにとっても。
……そのはずだった。 翌日の昼。 ナカジマは、セーフティゾーンの片隅で、壁にもたれながら、ぼんやりと空を見上げていた。
雲ひとつない青すぎる空。 こちらの気持ちなんて、何一つ考慮してないのがわかる。
(……暇だな)
昨日までは、こんな時間帯でも、何かしらユキとやり取りしていた。
狩場の相談、装備の話、どうでもいい雑談も。
別に、楽しかったわけじゃない。 断じて。
ただ静かで、落ち着いてて、無駄に踏み込んでこない、あの距離感が、少しだけ、楽だっただけ。
ナカジマは、無意識にメニューを開き、フレンド一覧を表示した。
一番最初に目に止まるのはユキの名前だった。
「…………」
視線を逸らす。
いや、見るな。 昨日、自分で言っただろ。 距離を置くって。 関わらないって。 もう、終わりにするって。
なのに、指が勝手に動く。 個人チャット欄を開いてしまう。
(……いや、違う)
(別に送るわけじゃない)
(見るだけだ)
意味の分からない言い訳を、脳内で量産しながら、入力欄を眺める。
空白。
何もない。
昨日の「距離置くわ」で、会話は終わっている。
既読はついていた。
返事は、なかった。
(……当たり前だろ)
(俺が勝手に距離置くって言ったんだから)
(向こうから話しかけてくる理由なんてない)
分かっている。 理屈では。
なのに。
胸の奥が、じわじわと重くなる。
気づけば、三十分が経っていた。 何もせずに。 ただ、個チャ画面を開いたまま。
(……何やってんだよ、俺)
スマホを放り投げるように閉じて、立ち上がる。 歩く。 意味もなく。 セーフティゾーンを一周する。 戻る。 座る。 また開く。
「……は?」
自分で自分に引いた。 キモすぎる。 ストーカーか。 いや、ストーカー以下だ。 相手に何もしてないのに、勝手に執着して、勝手に苦しんでるだけの、ただの不審者。
(……送らない)
(絶対、送らない)
そう決めた。 決めた、はずだった。
――二時間後。
ナカジマは、また個チャ画面を開いていた。 風呂も入った。 飯も食った。 仮眠室に入った。
なのに、頭の中から、ユキが消えなかった。
何してるんだろう。 誰といるんだろう。
考えるたびに、胸がざらつく。
(……クソ)
(どうでもいいだろ)
(俺には関係ない)
入力欄に、文字を打つ。
「この前の狩場さ」 消す。
「……あの場所」 消す。
「効率悪くね?」 消す。
打っては消し、打っては消し。 まるで、告白前の中学生みたいな挙動。 最終的に残ったのは。
『この前の狩場、効率悪くね?』
どうでもいい。 どうでもよすぎる。
距離置く宣言の翌日に送るには、あまりにも意味不明な内容。
(……これなら、セーフだろ)
(業務連絡みたいなもんだ)
(別に私情じゃない)
震える指で、送信。
――ピロン。
音が鳴った瞬間、全身が硬直した。
「…………」
やった。 送った。 やってしまった。
(何してんだ俺!?)
(距離置くって言ったの俺だぞ!?)
(馬鹿か!?)
スマホを伏せる。 布団に顔を埋める。 呻く。
「……終わった……」
五分後。 通知音。 ピロン。
恐る恐る、画面を見る。
『あー、確かにちょっと微妙かも。今度変えよっか』
ユキだった。 いつも通りの、柔らかい文章。
距離を置くって言った自分を責めるわけでもなく、いつもと変わらない態度で返してくる。
「…………」
胸が、きゅっと締まる。
(……なんで、普通なんだよ)
(昨日、あんなこと言ったのに)
(なんで、変わらないんだよ)
怒りでも、嫌悪でもなく。 湧き上がったのは、訳の分からない安堵だった。
ああ。 まだ、切られてない。 まだ、話せる。
(……最低だな)
距離を置くと言いながら、結局、安心したくて連絡している。 自分の弱さを、他人で補おうとしている。
しかも、無自覚に。
ナカジマは、スマホを握りしめた。
(嫌いだ)
(こういう自分が、一番嫌いだ)
(ユキみたいな奴も、嫌いだ)
優しくて。 距離感がうまくて。 誰にでも同じで。 だからこそ、誰のものにもならない。 なのに、惹きつける。
(……最悪だ)
返信を打つ。
『まあな。考えとく』
素っ気なく。 これ以上踏み込まないように。 必死で。 画面を閉じて、天井を見る。 深く息を吐く。
(……俺は、離れる)
(次こそ、本当に)
(もう、送らない)
そう誓った。 誓った、はずだった。
――その夜。 ナカジマは、またユキに個チャを送っていた。
終わりは、まだまだ遠かった。




