表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/45

私は逃がさない


 ユキが崩れ落ちたあの瞬間から、セーフティゾーンの空気は「事件」になった。誰かが倒れた、というより、皆が当然のように薄く共有していた“ユキは優しいから大丈夫”という前提が、音を立てて割れたのだ。割れた破片が、噂として床を滑り、誰かの靴底に貼りつき、広がっていく。

 抱え上げたのはモユルだった。迷いなく、当然のように。腕に重みを感じても、表情は崩れない。ただ、抱く力が強い。逃がさないための抱え方だと、誰かが直感したとしても、口には出せない。彼女は守っているように見える。守っているという物語が、一番強い。

「セーフティの奥、使う」

 モユルは周囲に言い放つ。相談ではない。誰も止めない。止めたら、自分が“ユキを傷つけた側”になるからだ。みっふぃが一瞬だけ口を挟みかけたが、モユルの視線を受けて黙った。優しい声ではなかった。冷たく、淡々とした圧。サーバー一位の圧は、言葉より早く相手を黙らせる。

 アル中が追いかけようとして、足を止めた。追いかけたら、余計に燃える。胃が痛い。それでも、放っておくのも怖い。結局、彼はその場に立ち尽くし、遠くから眺めるだけの人間になった。眺めるしかない。ここにいる大人は、皆そうだった。

 奥の休憩スペースは静かだった。保護フィールドの光が薄く揺れている。外のざわめきが水の底みたいに遠い。ユキは寝台に寝かされた。呼吸は浅い。唇が白い。手が冷たい。意識はあるのに、意識が追いついていない顔をしていた。目を開けているのに、目が何も見ていない。

「大丈夫。今は休む」

 モユルはそう言って、ユキの額にかかった髪を指で払った。触れ方が優しい。けれど優しい触れ方は、時に一番危ない。相手が弱っている時、優しさは絆ではなく、鎖になる。

 ユキの喉が鳴る。何か言おうとして、言葉が出ない。代わりに小さく震える息が漏れる。彼の中には「謝らなきゃ」が渦巻いている。倒れたこと、騒ぎを起こしたこと、誰かを不安にしたこと。謝らなきゃ。謝れば許される。謝れば終わる。そういう世界で生きてきた人間の癖だ。

「……すみません」

 かろうじて出た声は擦れていた。

「謝らなくていい」

 モユルは即答した。

「悪いのは、あなたじゃない。あなたを利用する人間」

 その言葉は正論の顔をしている。だが同時に、線引きでもあった。“利用する人間”の中に誰を入れるかは、言った本人が決める。みっふぃも、Laylaも、ナカジマも、そしてモユル自身も。全員がユキを使っているのに、彼女だけは自分をそこから外している。自分は守っている側。救っている側。だから正しい。

「……僕、何か……」

「あなたは何もしてない」

 否定が強いほど、ユキの中の罪悪感は逃げ場を失って膨らむ。罪悪感は、否定されると消えるものではない。責任が欲しいのだ。自分の中に“原因”があれば、対処できる。自分が悪ければ、我慢すればいい。それが彼の生存戦略だった。

 モユルはユキの手を取った。指先が冷えている。彼女はそれを両手で包み込む。温める、という目的の形をした拘束。手を離させないための包み方だった。

「聞いて。今から、あなたは私の言う通りにする」

 命令の言い方は静かだった。静かだから、拒絶しにくい。

「まず、全チャは見ない。個チャも、私が確認する。あなたは返さない」

 ユキの眉が僅かに動いた。抵抗の芽。だが、彼は抵抗を言葉にできない。言葉にしたら、相手が傷つくかもしれないから。

「……でも、返さないと……」

「返さない」

 モユルは重ねる。断言。議論の余地を残さない。

「あなたが優しいから、相手は付け上がる。今は、私があなたの盾になる」

 盾。甘い言葉。守ってもらえるという安心。けれど盾の裏側は狭い。盾の外へ出られなくなる。

「……わかりました」

 ユキは小さく頷いた。頷いてしまう。彼はそうやって生き延びてきた。相手の要求を飲めば、その場の嵐は止む。止むなら、飲む。飲み続けた結果どうなるかは、明日考える。

 モユルの口元が少し緩む。勝ち。今ここで、ユキの行動権を一つ奪った。奪ったことを“守った”に変換できる形で。

「よし。じゃあ次。デイリーは私と行く。基本固定」

「……固定……?」

 ユキが小さく反応する。

「あなたが混乱しないため。あなたが壊れないため」

 理屈は完璧だ。完璧な理屈は反論しにくい。ユキが求めているのは「誰も傷つけない道」だ。その道があるように見せれば、彼はそこへ進む。

 外では、すでに第二の戦が始まっていた。

 Laylaの全チャは燃えている。燃えながら、形を変えている。最初は泣き言。次は被害者宣言。最後は裁判だ。

《私、死んだほうがいいんだって》

《優しい人だと思ったのに》

《みんな、気をつけて》

 “みんな、気をつけて”。その一文が最悪だった。個人の問題を公共の危険にする。ユキは危険人物。関わると傷つく。そういうレッテルが、ゆっくり貼られていく。

 ナカジマは、その火の近くに立ち、火に触れずに風だけ送っていた。彼はどこまでも柔らかく、どこまでも正しいフリをする。

「誤解が広がる前に、ユキくん説明した方がいいよね」

「でもユキくんって、黙っちゃうタイプだから……」

「誰かが代わりに言ってあげないと」

 代わりに言ってあげないと。救済の顔。だがその実、ユキの口を塞ぎ、周囲の口を使ってユキを形作る下準備だ。

 みっふぃはみっふぃで、別の方向に動いていた。彼女は涙を武器にしない。女という武器を、計算で振る。ささやくように、周囲に言う。

「ユキ、ああ見えて優しいから…女の子放っておけないんだよね」

「でもさぁ、あれは女の子側が悪いよ」

「ユキ、絶対傷ついてる」

 “ユキは傷ついてる”。そう言えば、自分が慰めに入りやすい。自分が“理解者”になれる。彼女の目的は、ユキの支配ではなく、ユキを使った甘い満足だ。けれど結果は同じ。ユキの周りに人を増やし、逃げ道を塞ぐ。

 そして、アル中だけが気づいていた。全員が違う顔で同じことをしている。ユキの周りに柵を立て、勝手に餌をやり、勝手に「可哀想」と言いながら、自分の心を満たしている。

 その夜、ユキが少し落ち着いた頃、モユルはログを確認した。個チャの山。全チャの燃え方。言葉の流れ。空気の流れ。彼女は計算する。感情だけでは勝てない。勝つために感情を使う。

 モユルはユキに見せず、ユキの代わりに“世界”へ返答を作った。

 全チャではない。全チャでやり返せば、火が大きくなる。彼女が選んだのは、静かな制圧だった。噂の中心にいる人間を、個別に黙らせる。

 まず、みっふぃに個チャ。

【モユル→みっふぃ】

今はユキに近づかないで。あなたが良かれと思っても、燃料になる。

ユキが落ち着いたら、こちらから連絡する。勝手に動かないで。

 次に、ナカジマ。

【モユル→ナカジマ】

あなたの“心配”は余計。ユキはあなたの慰めを必要としていない。

誤解を広げるなら、あなたを止める。

 言葉が丁寧で、脅しが入っている。彼女は上手い。彼女の“守り”は、実態としては戦争だ。

 最後に、Layla。

 ここだけ、少し間を置いた。モユルは最初からLaylaを敵と断定していない。敵は利用できる。敵を潰すより、敵を“無力化”する方が効率が良い。Laylaは燃える。燃えるが、制御できれば使える。

【モユル→Layla】

あなたの言っていることは事実ではない。

ユキはあなたに死ねとは言っていない。

これ以上続けるなら、あなたは保護対象ではなく危険対象になる。

止めて。

 冷たい。正しい。容赦がない。Laylaが一番欲しいのは“自分は大事にされている”という感覚だ。その感覚を、モユルは一切与えない。与えないことで、Laylaの居場所を消す。

 Laylaは、数分後に返した。

【Layla→モユル】

モユルさんって冷たいね

ユキくんのこと、本当に好きなの?

私、ユキくんのためなら何でもできるよ

 “何でもできる”。その言葉で、モユルは確信した。Laylaは止まらない。優しさで宥めたら、さらに膨らむ。彼女は境界を壊すタイプだ。なら、境界を鉄で作るしかない。

 翌朝。モユルはユキを連れ、デイリーへ向かった。誰も近づけない速度で。誰も割り込めない距離で。ユキの腕を取り、当然のように隣を固定する。周囲の目が刺さる。刺さる目を、モユルは“正しい私”で受け止める。

「……ごめんなさい」

 歩きながら、ユキが小さく言った。誰に対してか分からない謝罪。

「謝らない。あなたは悪くない」

 モユルは繰り返す。繰り返すほど、それは呪文になる。ユキはその呪文に縋る。縋って、息がしやすくなる。息がしやすくなるほど、彼は外へ出にくくなる。

「ユキ。あなた、私に任せて」

 任せて。優しい声。支配の言葉。

 ユキは頷いた。頷くしかなかった。守られたいわけじゃない。ただ、これ以上燃えたくない。これ以上、誰かを泣かせたくない。これ以上、自分が壊れたくない。

 モユルは、ユキが頷いた瞬間に確信した。

 もう逃がさない。逃がせない。逃がしたら、この世界はユキを食い尽くす。ユキを守れるのは自分だけだ。そう思える瞬間に、人は一番強くなる。強くなった人間は、優しく見える形で、相手を閉じ込める。

 セーフティゾーンの遠くで、アル中がその背中を見ていた。胃が痛い。けれど、目を逸らせない。

「……守ってるんじゃねえな、あれは」

 誰にも聞こえない声で呟く。

「……囲ってんだ」

 だが、囲いが必要な時もある。囲いがなければ、ユキは今夜も全チャで殺される。囲いがあれば、ユキは息ができる。その代わり、自由は削れる。

 優しさという檻が、きれいに組み上がっていく。

 その檻の外で、ナカジマは笑っていた。

 柔らかく、静かに。

 孤立の完成まで、あと少しだと計算しながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ