30.笑い合えること
それから、二人でたくさんの話をした。
でも、あの夜のことはまだ話せていない。
「すべてを話さなくてもいいですよ」
ノア先輩はそう言ってくれる。
「でも……」
「いつか、話せるときが来たら教えてください」
「……こなかったら?」
「う~ん。では、一つだけ教えてください。
あなたは、自分自身で何か恥ずべきおこないをしましたか?」
恥ずべきおこない……、あれは、あの夜は、私の人生において一番恥ずべきことだ。
「何かに巻き込まれたのではなく、あなた自身のおこないですよ?」
私は……私はただ、病人かと思って駆け寄っただけで。酔っ払いであっても放っておけないから、人を呼ぼうとしただけ。本当に、ただ、それだけだった。
もし、同じことがまたあったとしても、きっと駆け寄ってしまうだろう。今度は大声で人を呼んだりと対策はするだろうけど、それでも見捨てたりはできないと思う。
だって、人として当然の行動でしょう?
「私は恥ずべきことは、一切しておりません」
聞いてくれてありがとう。私は何も間違ってはいなかったのだと思い出すことができた。
「はい、あなたを信じます」
迷いのない眼差しと言葉。それは同情ではない、彼の本当の気持ちだと伝わってくる。
「だから大丈夫ですよ、話せなくても。もし、聞いてほしいと思ったら話せばいいですし、言いたくなければそれで。
あなたは? 私に聞きたいことはありますか?」
私は素直にトレイシー様のことをどう思っていたかを聞いた。たとえ過去のことでも、思いを残しているかどうかは気になってしまう。
「トレイシーは……」
先輩は少し言い淀んだ。それは、彼女への思いを誤魔化すというよりは、別の事を気にしているようだった。
「ラザフォード家では大切だけど大切ではなかった?」
私がそう言うと、先輩は少し驚いた顔をしつつも、そうだね、と話を続けた。
「ラザフォード家は貴族らしい考えの家でした。当主の意見は絶対でしたし、嫡男であるユージーン殿をなによりも大切にしていました。
もちろん、トレイシーが粗雑に扱われていたわけではありません。ただ、一番は家。そして当主、嫡男。
トレイシーは意見する立場にはいなかったんです」
思っていた通りのようだ。その教育方針で妹を大切にできたユージーン様はすごいのかも。
「だから、家族の会話でもいつも聞き手でした。相槌を打ちながら微笑むだけ。何かをやる時は、やりたいかどうかではなく、指示されるとおりにするだけです。
すでに決定したことを告げられるだけ。トレイシーもそれが当然だと……」
「……先輩?」
どうしたのだろう。まるで何か痛みを我慢するかのような、
「先輩も無理しなくていいですよ」
つい、そう言ってしまった。だって気が付いてしまった。先輩は今まで一人で耐えて来た人なのだと。
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「私も誤解されるのは嫌ですから」
そう微笑まれると、続きをお願いしますとしか言えなかった。
「婚約したのは15歳。初めて会った彼女は、何だか硝子細工みたいでした。
外見もですが、微笑んでいる顔がまるで作り物みたいで、硝子玉のような感情の見えない瞳が少し苦手でした」
意外だわ。もっと好意を持っていると思っていたのに。
「だから、聞いたんです。トレイシーはどうしたいか、どう思ったのか。
最初はきょとんとしていて。まるで、異国の言葉を聞いているような顔でしたね。
それでも諦めずに会うたびに色々と聞いて。少しずつ、あの子も自分の気持ちや出来事を話してくれるようになりました。人形みたいだった彼女が普通の女の子になっていくみたいで、私は妙な達成感を感じてしまいました」
「分かる気がします。私も気難しいと有名な後輩が懐いた時は、よし! と拳を握りましたから」
「もしかして、今、宰相閣下が扱いていて、殿下にイジられてる彼ですか」
「……あはは、そうですね?」
ごめんなさい、メイナード。でも宰相閣下は貴方に期待しているの。殿下も手応えがあって楽しいのよ。全部貴方ができる子だからなの。今度何か差し入れしよう。
「だから、恋愛という感情ではなかったですね。もちろん、大切にしようと思いましたし、幸せにしたいとも思っていました。いつか愛することができればと……。でも、そこで終わりました」
「そうなのですね。でも、トレイシー様も?」
嫌だな。思ったよりも私は嫉妬深いのかも。
でもだって、死を覚悟したときに手紙を送ったのが先輩なのだもの。最後に愛の告白とかだったらと考えるとモヤモヤしてしまう。
「それはないな」
思ったよりも冷たい声だった。冷たくて、でも傷付いた、そんな声。
「最後の手紙は愛などではなかったから。
……でも、ごめん。これは私だけの話ではなくなるから話さなくてもいいかな」
……そうね。彼女が先輩に宛てた手紙だもの。全部を知りたがるなんてよくないわね。
「大丈夫。恋愛じゃなかったって知れたから」
「一度目も二度目も、惹かれたのは同じ女性だったよ」
「なっ!?」
何この口説き文句は。落ち着け、負けては駄目よ。殿下にも負けなかった自分を思い出して!
「ノア。そうやって少しくだけた話し方のほうが嬉しいです」
ニッコリと微笑みながら伝える。
初めて名前で呼んでしまった。そういえば、迂闊なことはするなと言われた気もするけど仕方がない。負けてばかりは悔しいもの。
「それは、私を好きだということ?」
しかしまさかの攻撃がやってきてしまった。
「……まあ、私から言わせるのですか」
どうしよう。引っ込みがつかなくなってきた!
そんな私の動揺をよそに、彼は私の前で跪いた。
「シャノン・クロート嬢。あなたをお慕いしています。正式に婚約の打診をしてもいいですか?」
……彼は本気だ。本気で私との結婚を望んでくれている。
「……私も、あなたを好ましく思っています。でも、その気持ちとは別で、……その、夜の営みに恐怖を感じてしまいます。いくら好きでも……無理かもしれません」
……言ってしまった。とうとう言ってしまったわ。女性として欠陥品だと伝えてしまった!
分かっていたかもしれない。それでも、本当にそうだと知ったら、彼はどう思うの?
「言い難いことを言葉にしてくれてありがとう。でも、それは私も同じです」
「……え?」
「トレイシーのことを知ってから、そういうことに嫌悪感を持ってしまって。……その、一度も試したことがないので、正直分からないのだけど。ですから、焦らずに二人でゆっくりと頑張ってみませんか?」
え? 試したことがないって……?
あら。また真っ赤になっているわ。
「ふふっ」
「傷付くから笑わないで」
「だって真っ赤なのだもの」
「……あなたのために大切に取っておいたとでも思ってくださいよ」
「あははっ、絶対に嘘なくせに!」
結局は二人で大笑いした。
欠陥品である告白をして、こんなふうに笑い合えるとは思いもしなかった。
それからしばらくして、私達は正式に婚約した。