49. 桃源郷という牢獄
― 前回のあらすじ ―
魂の壺から天津神使徒の二人は解放される
美言の願いで、睦樹たちは糸をたどり、迷宮の深部へと向かった
一方那美と瀬織津姫もまた、妄鬼たちの後を追って
歌舞伎城地下深部へと馳せる
まるで時が静止したような美しい庭園で、初老の男と孫娘にも見える少女が、静かに釣り糸を垂れていた。
少女の装いは、やや露出度の高い黄緑色をベースにしたプロテクター。
髪は二つの団子に可愛くまとめている。
それに比べ、白髪の交じる男の衣装は、モノトーンを基調としており、ぐっとシックで落ち着いている。
幽玄の美を湛える庭園は、これまで悠久の時を越えてきたかのように、ただ静謐にそこにあり続けた。
何も加えられず、何も損なわれずに。
二人とも腹が減ったり眠くなったりはするので、世界の変化はなくとも時間は経過しているようだ。
食事はここを管理する隠世人が用意してくれる。
ときおり釣った魚を渡して調理してもらう。
眠くなったら館のベッドで眠る。
夜の来ない黄昏前の黄金色の世界で、この繰り返しを何度もループしていた。
こうしてここに幽閉されてから、何日経ったのだろう……。
少女は寝た数を三十まで数えていたが、もう止めてしまって久しい。
しかし現実世界での光陰が過ぎ去ったのは、たったの二回……二日が経過しただけである。
ここでの時間の流れは、現世の十五倍以上……実際のところ二十倍と、通常の隠世より、かなり時間の進みが速い。
あまりに変化の無い世界に、彼女の時間感覚はとっくにおかしくなっていた。
その少女、劉蘭花はぼうっと水面を見つめながら、時間の意味に関して何度となく思い巡らしていた。
しかし、今までこれぞという結論を得ぬまま、思考は飽くことなく堂々めぐりを繰り返していた。
この庭園の空間がループで閉じられていると同じように、もしかしたら時間も繰り返しているなんてことはないだろうか?
一日経ったら、すべてリセットされているみたいな。
そうすると、自分は永遠に若いままだ。
ここは常若の国ということになる。
自分と老師は、すべての仙族たちの目標である不老長寿を手に入れたことになる。
それってかなり素敵なことに聞こえる。
けど、ここには新たな出会いも無く、庭園を巡ることで得られる発見も、やがては陳腐な粘土細工みたいに感じられるだろう。
そしてあらゆる出来事が無味乾燥となり、完全なる虚無に近づいていくのではなかろうか。
不老不死を得たというのに、自分自身さえも無意味に、心も体も空虚になっていく……それはちょっと怖い。
もっと怖いことを思いついた。
時間があると思っていること自体、思い込みなのではないだろうか?
自分の心がこの空間で正気を保つため、時間がある振りをしているだけとか?
隣に佇む老人を、虚ろな瞳で眺める。
聖仙とまで呼ばれたこの老師――王義明ですら、時間の罠に囚われているのに気が付かず、無い時間を在ると勘違いしているのだろうか。
それともすべてを知った上で諦めているのかもしれない。
しかしその姿からは、何も読み取れない。
阿公は、相も変わらず、黙って釣り糸を垂れるだけだ。
そういえば、じっちゃんは何か外からくる救い手の可能性があるかも知れないと言っていた。
その救いの手は誰の手か?
(誰だったっけ? ええっと……ウチにとってもすごく大事と思う人だった気がする……のデス)
何故思い出せないのか、それはこの閉じられた世界のせいだと蘭花は思った。
しかし、その本質的な問題は別にあったのだ。
相馬吾朗が隠世で死し、妄鬼化したことにより、彼の存在はもともとこの世界には無いものとされた。
現世においては、相馬吾朗が存在したというあらゆる痕跡が失われていた。
人々との絆は断ち切られ、皆が彼の存在を忘却してしまうのだった。
彼と親しい使徒たちだけが、隠世というモラトリアムな世界を通じて、その絆に残された僅かな残滓――細く頼りない一本の糸のように、辛うじてその思い出を持ち続けることができるのだった。
今、蘭花がゴローのことを思い出せないのは、確かに外との絆が絶たれた閉鎖空間による影響があるだろう。
だが、それは追加の効果にしか過ぎなかった。
「うー……じっちゃん、あれって誰だっけ?」
「何じゃね、蘭花……」
呼ばれた老師――王義明は、沈んでいた浮きが、再び水面に表れるように、瞑想状態から意識を浮上させた。
彼はアストラル体での突破が叶わぬのならば、さらなる上位状態でならば世界を抜けられないか、それを試していたのだった。
時間だけは充分あった。
この歳になって再び修行とは、と自嘲もしたが、試す価値があると思われた。
そして研鑽を積み重ね、何度も新たな試みを繰り返し、ようやっと上位の意識状態に移行できるようになったのだ。
その意識状態――アストラル体よりさらに希薄な魂の状態は、時を遡ることをも可能とした。
そして老師にして求道者王義明は、猛烈な速度で飛び去るような過去の時空へと、辛抱強く焦点を定めていった。
何度も大きく時空の狭間を揺れながら、ようやく彼らがここに連れてこられた過去へと戻ることに成功した。
そして一瞬だけでも外との繋がりが得られないかと、意識を放った。
そして遂に彼のシン――申公豹に短いメッセージを伝えることができたのだった。
つい彼を強くイメージして「道友、請留歩」の一言が浮かんだ。
古にあって彼が良く語った言葉だった。
それをそのまま発してしまったが、果たして通じただろうか?
彼の意識を引き寄せる効果は、充分あったと思われるのだが。
しかし、ここがどこで、自分がどうしているのか、そしてどうして欲しいのか……肝心なことは何も伝えられなかった。
それで彼が動けるものか……。
とはいえ申公豹は、境界を司り、それを越境できる者である。
彼がこちらに渡ることが出来る可能性に、今は賭けるしかない。
そこで老師は追加の言葉を伝えるべく、再び時空の焦点を合わせようとしていたところだった。
そこを不意に呼び戻されて、良く分からない。
「急に……何のことを言っておるのじゃ?」
そんなこととはつゆ知らず、蘭花は無邪気に話しかけてくる。
「ほら、じっちゃが外の世界から、助けの手を差し伸べてくれるとしたら、あの人だって!」
「ああ、そうじゃ、そうじゃ。確かにそう言うたわな。しかし、誰だったかの……」
申公豹のことは蘭花に話していない。
彼女から監視役の隠世人に、漏れる可能性があるからだ。
ゆえに別の誰かだが……言われて思い出したのは、恐らく強力な使徒のことだったと思う。
しかも仙族ではない者……そう、出会ったのはつい最近のことで……。
「じっちゃも思い出せないの? あ、だいじょぶだいじょぶなのデス。耄碌したとは思わないのデスよ」
「フン、お前も思い出せないのだから、この閉じられた桃源郷のせいというわけじゃな」
「そうなのデス……でもじっちゃんでも思い出せないとなると、いよいよ深刻デス」
「いや、思い出すぞ」
「え! できるのデスか? どうやって?」
「気合じゃ!」
「了、き、気合なのデス!」
「むむむむ……」
「ぷしゅみゅみゅむむむぅぅ……」
「蘭花、その空気の抜ける音は、気が抜けるから止めい」
「了! ………みゅむうううう」
老師も申公豹に念を送るのを一時中断し、別の救い手の可能性が誰であったか、己の記憶に潜って探ることにした。
記憶にまで干渉する密閉の機構に対抗することで、何らかの構造の隙を突けるかもしれないと考えたからだった。
「うーん、思い出せないよ阿公啊ぁ~。こんなときゴローがいてくれたら……」
「それじゃ!」
「え? どれじゃ?」
「お前、今、ゴローと言うたぞ」
「嗚呼、それじゃ~! ゴロー、ゴロー、ゴローなのデス!」
「相馬吾朗……彼奴なら、と考えておったのじゃったな」
「そうなのデス。もう一回ゴローに助けを願ってみるのデス! ゴロー、蘭花たちをどうか助けて!」
「うむ、ならばわしは、また別口にも当たってみようかの」
手を合わせて祈る蘭花を横目に、老師は再び瞑想を始めた。
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~~ ハイキング編 その2 ~~
中央線下りの始発は、けっこう人が乗っていた。
多くが徹夜で飲み明かした酔客だが、中には登山スタイルのハイカーもいる。
あや「で……那美さん、私たちはどこに向かってるの?」
那美「終点だよ」
えにし「え、終点って……高尾駅?」
あや「まさか……高尾山を登ろうとかいうの?」
那美「あれ? 言ってなかったっけ?」
皆「「「聞いてね~~!!」」」
蘭花「ぐーぐー」
あや「でも、なんでこんな早朝に?」
那美「それはあとのお楽しみ~~」
えにし「どうしてこうなった……」
吾朗「うーん、あやがなんか、上手いこと那美の口車に乗せられたんだと思う」
えにし「あやさま、どういうことですの?」
あや「なんか、国津神の魔術的秘儀を見せてくれるとかなんとか……」
那美「そのとおり! 出血大サービスの無料ご招待プランだよ!」
えにし「あ、怪しすぎる……あやさま、よくそんなので騙されましたね」
あや「え? 私騙されたの?」
那美「ぜんぜん騙してないよ。失礼ね、えにしちゃん!」
吾朗「そうだぞ、那美は人を騙すようなことはしない。簡単に騙されるけど!」
那美「吾朗さんもたいがい失礼ね!」
吾朗「いや、ゴメ……」
(いかん、本当のことをつい言っちまう。俺の悪いところだ)
蘭花「ぐーぐー……ゴローはしつれいくない……」
えにし(蘭花、聞いてるっての?)
高尾山ハイキングは、真の目的地を知らされないまま、
中央線の心地よい揺れとともに始まった。
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50話は令和8年5月10日日曜日更新予定
どうぞお楽しみに!!




