第2話 扇の使い方
ラマール子爵は時刻通りに来た。
玄関先で父が迎える声がして、廊下を歩く二人の足音が近づいてくる。子爵の歩調は均等で、履物の底がよく馴染んでいる。私は応接間の椅子の端に座り、膝の上で扇を閉じたまま待った。
扉が開いた。
五十代、肩幅が広く、礼装の釦の間隔がやや不均等だ。左の第三釦を急いでかけたか、仕立て直しを先延ばしにしているか。どちらでもいいことだが、観察の癖は止まらない。ラマール子爵は父と握手を交わし、それから部屋に視線を走らせ、私のところで一瞬だけ止めた。伯爵令嬢、と認識した目の動きだ。
微笑みの形を顔に乗せる。
これは難しい作業ではない。十七歳の春からの習慣で、今では特に意識しなくても応接間の空気に合わせた表情が出てくる。それを「笑顔」と呼ぶかどうかは定義の問題だ。
「魔法被害補償法」の申請について、二人は話し始めた。
建前上、魔法被害補償法は魔法による財産被害を受けた者が王宮へ補償を求める制度だ。認定には教会の魔法認定書と貴族二名の証言が必要で、認定されれば国庫から補填が出る。ラマール家の屋敷の納屋が先月火災で焼けた。それを「魔法的な原因」によるものとして申請したいということだった。父は相槌を打ちながら聞いていた。眉の形が穏やかなままだ。政治家の表情はこういう場面で動かない。
話を聞きながら、私は部屋の隅から二人を見ていた。
子爵の話し方に特別な力みはない。「納屋が焼けた」という事実を落ち着いて述べている。どこか疲れたような声色だ。長い交渉を経た後の人間の声に、これは似ている。申請を決めるまでに何かがあった。それが何かは、まだわからない。
書類が卓の上に広げられた。
私は父の斜め後ろからその書類を視野の端に入れた。申請書の写し。父が事前に入手していたものだろう。日付が二つある。申請の相談日と被害認定日。
相談日が被害認定日より三日早い。
被害認定日の前日に納屋が焼けたとすれば、その三日前に相談は存在し得ない。単純な誤記かもしれない。あるいは、そうでないかもしれない。
自然な仕草で扇を開いた。
ラマール子爵の顔にかすかな乱れが見えた。輪郭の端が薄く欠けているような。そこだけ色が薄いと言った方が近いかもしれない。綻びだ。大きくはない。しかし確かにある。
扇を閉じた。
今日の役割はそれを指摘することではない。
父が「前向きに検討いたしましょう」と言った。子爵の肩から力が抜けた。私は微笑みの形のままお茶を一口含んで、沈黙を埋めた。会話が終わりに向かっている、という空気だ。
帰り際、子爵が私に会釈をした。「お嬢さんも今日はありがとう」
「いいえ」と私は答えた。それだけだ。
それ以上を言う必要がない。今日はそこで終わる。
しばらくして、父がラマール子爵を玄関まで見送りに出た。
応接間が静かになった。窓の外で風が鳴っている。卓の上の書類の端が暖炉の熱でわずかに反っている。私はその場に座ったまま、日付の矛盾を整理していた。
申請書の写しは父の手元にある。それ自体はすぐに確認できない。ただ日付の数字は視野に入れた時間で十分だった。目で見たものを疑う理由がない。少なくとも、今の段階では。
「ミラヴェル!」
廊下から声がした。
扉が開くより声の方が早かった。滑り込んでくるようにして入ってきたのは金色の髪を緩く結った少女だった。服の装飾が多く、丸みのある顔が笑みで細くなっている。父がいないことを一瞬で確認してから私のそばまで来た。椅子に座るより先に口が動いている。
「聞いた?」
「何をですか?」
「グロワール子爵家のこと」
「ソフィー、子爵家の揉め事は一月に複数件あります」
「違う違う」ソフィーが身振りで急かした。「こっちよ。先月亡くなった方。ちゃんと聞いて、これはミラヴェルが好きそうな話だから」
私は扇を膝の上に置いた。ソフィーが「ミラヴェルが好きそうな」と言う場合、大抵は本当に好きそうな話を持ち込む。精度の問題はある。それでも、この人間が「おかしさ」を嗅ぎつける鼻の良さは認めないわけにはいかない。
「聞かせてください」
「グロワール子爵家、揉めてるの。先月亡くなった子爵が遺言で長男に宝石を譲ったんだけど、次男が『偽物だ、魔法でどこかとすり替えられた』って言い張って。ねえ、ミラヴェルが好きそうでしょ、これ?」
私は何も答えなかった。
「魔法で宝石がすり替えられた」
これは三つの意味で興味深い主張だ。
一つ、物理的に不可能に近い。
二つ、しかし否定する手段がこの社会にはない。
三つ、誰かがそう主張することに、何らかの動機がある。
三つ目が最も重要だ。「魔法だ」と主張することで得をする人間がどこかにいる。それが次男自身なのか、別の誰かなのかは今の段階ではわからない。
「ミラヴェル、聞いてる?」
「聞いています」
扇を一度だけ開いて閉じた。
廊下に足音がした。父の歩調だ。ソフィーは素早く椅子から立ち上がり、両手で「後で」という仕草をして見せた。それから扉の隙間から廊下へ滑り出し、消えた。速い。音もない。
率直に言って感心する。
父が戻ってきた。
「まだいたのか」
「はい」
父は卓の上の書類を手に取り、ざっと確認してから二つに折った。書斎に持ち帰るつもりだろう。来客が終わった印だ。
「ご苦労だった、ミラヴェル」
「いいえ」
私は立ち上がって椅子を元の位置に戻した。動作の中で今日確認したことを並べる。ラマール子爵の申請書の日付の矛盾。扇が見せたかすかな綻び。何の嘘かは判然としない。ソフィーが持ち込んだグロワール家の件。魔法で宝石がすり替えられたという次男の主張。その確信が本物かどうかは、また別の問題だ。
それぞれは今のところ別々の場所に立っている。
ただ全部「魔法被害補償法」という一本の糸の周辺にある。偶然かもしれない。偶然でなければどこかで繋がる。
「何か気になることでも?」父が振り返らずに言った。政治家の勘というものはそれなりに精度がある。
「いいえ」と私は言った。「今日は興味深い一日でした」
それは事実だ。噓をついていない。
父は少しだけ目を細めてから書斎へ消えた。応接間に一人残った。暖炉の薪が静かに燃えている。窓の外の石畳は一月の白さのまま変わらない。
もう少し詳しく調べてみる必要がある。




