プロローグ:遠い記憶
鉄と硝煙の匂いがまだ残る。
昨日までの雑踏を、踏まれた土はよく覚えている。
けれどもいまはなにもない。 鳥の囀りも、蝶番の鳴き声もない。ただ静寂という事実のみがわたしの頭蓋の中をうるさいくらいに駆け回っている。
わたしは行く当てもなく、彷徨っていた。
ふと、道の端の小さな水たまりが目についた。
夜の間に雨が降ったのだろう、朝の冷たさに晒されたその表面には、薄く氷が張り、その中に小さな氷晶を浮かべている。
わたしはしゃがみこんで、氷晶の真ん中を指先で押してみた。ほんの悪戯心だ。すると氷はあっけなく、ぱきりと割れて、黒い水面が顔を覗かせた。
錫色の髪を垂らした自分と目が合う。煤を被った髪は、ところどころが絡まり、頬の産毛に積もった埃が、白く浮いている。唇は色を失い、爪の色とほとんど変わらない。
瞳は以前よりますます色が薄くなった気がする。川底に沈む石のような、くぐもった灰緑色。まつ毛の影こそ落ちても、そこに光は差さない。
波紋だけが、わたしの口角をわずかに揺らす。
可愛らしいとは言い難い。きっと天候のせいだ。
わたしはすぐに立ち上がった。まったく、辛気くさい顔を見ていると気が滅入る。
――
ふらふらと。荒廃した街を眺めていた。
見飽きた街路樹に、有刺鉄線が巻き付いている。
刺が食い込んで傷つき、まるで血を流しているようだ。佇んでいるだけのものが、いったいなにをしたと言うんだろうか。
その光景が、なんだか奇妙で、わたしは思わず目を凝らした。朝霧と粉塵に目が慣れた頃、うっすらと浮かんできたのは花だった。赤子を包む毛布のような、布に描かれた朱色の花だった。次に見えたのは、それが立体であるということ。布はなにかを包んでいるみたいだ。最後に、それが木の幹に、有刺鉄線によって巻き付けられているということ。
中身は犬だろうか。いや、たぶん犬じゃない。気味が悪いのであまり考えないようにする。
街角には、教会がある。親のいないわたしが育った教会だ。
息苦しくて、あまり好きな場所ではなかった。歴史のある教会だとよく聞かされていた。思えば、場違いなほどに豪奢だった。なんでも、この街区が封鎖されたとき、ただそこにあったという理由で巻き込まれたらしい。
わたしはそれが不幸な話だと笑った。だがそうではないと、真剣な顔で答える大人たちを覚えている。曰く、これは神様が与えてくださった試練だと。
その時は納得したふりをして、いい子にしていたけれども。そんな言葉は子供だましだと、滑稽に思った感情を、なんとなしに覚えている。
不信心なわたしは、よく噛みついていた。結局、神様は助けてなどくれないと。聖書の慰めは誰も救わないと。飛べも、動けもしない天使像を馬鹿にして石を投げたときには、こっぴどく叱られたものだ。
その哀れな天使様も、いまは台座ごと傾いて。首から上を、油の溜まった側溝に転がしている。
――油なんて、いったいどこから。移り気なわたしの、危険な好奇心が白い階段に流れる油の跡をつい、辿ってしまった。
思い入れがないわけじゃない。けれどもわたしは、それ以上探らず、決して耽らず、足早に教会の前を通りすぎた。
ただ、油を辿った先、視界の端に映った焼け落ちた扉の、その奥の、重なりあってできた黒い塊がなにか、わかってしまいそうだったから。
――
やがて、広場にたどり着いた。
十字路の中心。この街区のおおよそ中央にあたる場所だ。わたしは広場の真ん中にある、今はもう枯れている噴水の傍らに立ち、それぞれの通りを見渡していた。
生者の気配など、一つもない。
はずだった。
ふと、広場の外れから、足音がひとつ近づいてくる。 その歩き方は一定で、ためらいがない。靴底の鋲で石畳を鳴らすその音はあまりに無遠慮だった。
人は誰しも静寂に包まれたとき、たちまち孤独と不安に支配されるだろう。ならばその振る舞いにもおのずと遠慮が滲むはず。
ためらいが無いとすれば、それをしまえるだけの確信があるということだろうか。
まるで忘れ物を取りに、来た道をまっすぐ戻っているかのような。 そんな呑気な歩みならいいけれど。
不意に、背後に気配を感じた。 足音の正体がこんなにも近かっただなんて思いもしなかった。少し考えに耽りすぎていたのかもしれない。
わたしは咄嗟に振り返る。咄嗟のつもりだった。 けれどもきっと、自分で思っていたよりもだいぶ長く、惚けていたのだろう。気配のほうに視線をやったころには、それはとっくにわたしの背後を通り過ぎていた。 わたしはもう一度、半ばヤケになって、反対側に体ごと思い切り向く。
ようやく、わたしの背後を素通りしたそれを視界に捉えることができた。それはさらに二歩進み、止まり、そしてこちらへ向く。
靴底を擦って、まるで朝露を払うかのように。 その動きは、一瞬の邂逅劇からは考えられないほど、緩慢だった。
穏やかな動きに気を緩めそうになった瞬間、わたしは気付いてしまった。腰から下がる拳銃に。
体の大部分を隠す外套、目元を覆うように深々とかぶったフード、それじゃあなにもわからない。 けれど、銃を下げられる身分なんだろう。ならば彼も帝国の軍人だろうか、民族主義者なんだろうか。また、“魔法使い”を消しに来たんだろうか。
誰も傷ついてなんて欲しくないんだけどな。
そう思いながら、わたしは後ろ手に印を結んでいく。 指の関節が冷えて、空間がわずかに歪んでいく。
そう。彼らがわたしたちを魔法使いと呼ぶ所以。 自然法とはまったく異なる法則。物理に囚われない力。まさしく魔なる法。 だれも正しく名辞することはできない、その必要もない。
わたしが思えば、思うだけで。たちまち彼らが生きる一つの現実は歪み、その存在を空間ごと引き延ばすだろう。 簡単な話、けれどもそれは彼らにとっての死を意味する。
「やっと、見つけた」
不意にそれが言葉を放つ。 嘲笑うかのように。こちらを警戒するそぶりなどまったく見せず。
懐から、手も出さずに。
「御免だよ、もう一度、見失え」
わたしは反射的に言葉を返した。 これが不幸なすれ違いを招きかねないことに気付いたときにはもう、言葉はわたしの唇から離れていた。 ああ、しまった。 わたしは彼が、君は魔法使いか。と尋ねなかったことへの感謝を、第一に伝えなければならなかったのかもしれない。
自分の過ちに気づいたときには、わたしはもう、準備を済ませていた。そこから先は、力の奔流に任せるだけだ。わたしの体はきっと、それが懐から拳銃を取り出す様を、臆病なまなざしで、見ているのだろうか。
一瞬だ。
わたしの視界が大きく歪む。 けれども真に歪んでいるのは視界のほうじゃない。 奥の時計塔がよじれ、早朝を差す短針が曇天に向いている。鉄の街灯が裂け、雨が屋根を貫く。次に、 音が遅れて届く。鐘が裏返った音か、硝子が溶ける音なのか、判別がつかない。舞い上がった塵が、やがて結晶となり、雪となり、地面に積もる。
――わたしは目を疑った。
晴れた視界のなかに、人の輪郭があった。
歪んだ世界のなかに、それは引き伸ばされず、ただ立っている。その異様な光景に、わたしは立ち尽くすことしかできなかった。
――
「記憶があるんだ。もっとも記憶は嘘をつき、ときに主人さえも騙すが」
「しかし、嘘の癖とは変わらないもので、その癖を見抜けたとしたら、そのときは真に自分を信じてやることができるはずだ」
彼は状況に驚くこともなく、それどころか全くもって意に介さない。そう言いながら懐から何かを取り出した。ゆっくりと、弛緩した所作で。
拳銃じゃない。 懐中時計。
「この回りくどさこそ、昔から変わらないな」 彼は自分の言葉に、小さく笑った。 この人、自分で言ったことで笑ってる。
そして、懐中時計を開いて見せた。針は、止まっていた。
状況が全く読めない。もはや、この男がただ悪趣味なだけとしか思えない。けれどもそんな奇妙な現実に、わたしの表情は少しだけ緩んでいたのかもしれない。もしくは、考えを巡らせることすら馬鹿馬鹿しいのか。けれども、今この時をもって互いが少し、対等になった気がした。
不意に、意識が遠ざかる。驚いた、けれども同時に安心している自分がいる気がした。
わたしのなかに、たくさんの記憶が流れてくるような感覚と、わたしがわたしから離れて、 遠ざかっていく感覚。大きなものと混ざって、溶けて、それから暗闇へと沈んでゆく。
――
長い。長い夢を見た。 なんだか、とても、懐かしい気がした。
カビと蒸気の匂いが鼻を突く。 まつ毛の隙間から、灰色の光が差す。微睡みの中から這い出せないまま、雨粒の音に誘われて窓の外へと目をやった。工場の、煙突から上る煙が雲と混ざる、空と石の境目が曖昧な街。
わたしは、もう一度、静かに目を閉じた。
霧の都、ラプチャーの、湿気の多い街の朝だ。




