1 「ねぇ」
御徒町の酒場『GG』と「ヨウジ」の物語
「ねぇ」
「ん、どうした……?」
「鳥はなんのために飛ぶんだと思う?」
平日の午後、待ち合わせて食事をしたあとだ。
ふたりの目の前には、すみだ川が流れている。
ヨウジは、鳥たちが水面で跳ねているのを見ていた。
(ユカリは何を言いだすんだろう)と思った。
彼女は、ヨウジにじかに話しかけるというよりは、どこか別の方向にむかってコトバを投げかけている。
いつも、そんな感じがする。
「なんでって……暖かい場所に移動したり、獲物を探したり、逆に大きな動物から身を守ったりとかさ」
空は晴れていて、水面からの照り返しはまぶしく、ずっと河を見ていることはできない。
ヨウジはユカリのほうを見た。
「そんなとこだろ……詳しくは知らないけど」
緩やかな風があって、昼間の光のなかで、彼女の輪郭はやわらかい。
「ちがうよ」
ユカリは嬉しそうに笑った。子どもがなぞなぞを出している時の顔だ。
「じゃあ、なんのためにだよ」
「鳥はね、飛びたいから飛んでるんだよ」
「……そうか?」
あまり太陽の下に出ることのない彼女の頬や首筋のあたりの皮膚は、白いというより半ば透き通っている。
「ただ飛びたいから飛ぶ、か」
ヨウジはとくに逆らわなかったが、感想を言った。
「でも、それにしちゃ鳥って忙しすぎるよな、小さな虫を探して食べたり、木の実をつついたりさ、ずいぶん効率悪そうじゃん」
「それでもだよ」
「ふーん」
ユカリは、そう思ったから、そう言いたくなっただけなのだと思う。
妙に強く確信をもってはいるけれど、べつに何かの例えでもない。
いつからか、そんなふうにヨウジは理解していた。
それでも、聞き流しているようで、彼女の言うことは自分のからだの中に残る。
「もう仕事の時間じゃないの?」
「ああ、もう少しだ……メシうまかったか? 今度は寿司でも食べるか」
「わたし、生魚は食べられないんだってば」
「おまえ、好き嫌い、多すぎるぞ」
叱っている調子にならないように気をつけてヨウジは言った。
子どもをあやしているわけではない。ユカリは二十六歳の女だ。
ヨウジは、女性を甘やかせて、それでよしとするというタイプではない。
しかし、彼女のペースに合わせて、それが苦にならないのでそうしている。
(ほんとは強いんだよな、この女)
(おれ、負けてるんだろうな)
ときどきそう思う。
この女にだけは負けっぱなしでいい、そう思っているのだ。
駅の改札口で別れた。
それが最後になるとは思わなかったし、いまでも終わった気はしていない。
ただ、それから会っていない。
正確にいうと、一度だけ見かけた。
朝、新宿駅の改札を出たところで、どこかに走っていくのを見た。
新人OLふうのスーツを着て、肩から大きなバッグを下げていた。
見間違えるはずはないと思って、声をかけようとした。
なぜだかそうしないほうがいいと判断したのは、急いでいる様子だったからか。
そのうち連絡がくるだろうと思った。
自分からしてもいいのだが……そう考えているうちに半年が過ぎた。
なんとなく。
その日ヨウジは、甥っ子のひとりに会った。
甥といっても十も上の姉の子どもで、もう十九歳だ。
ちょっと素行が悪かったのだが居酒屋の勤めに落ち着き、やっと半年が経った。
姉に様子を聞いてやってくれと頼まれたのだ。
上野に昔からある、ミドリ色のパフェが目印のパーラー2階。
「けっこうやり甲斐ありますよ、ヨウジさん」
「そうか? だったらよかったじゃないか」
「最近、焼くほうを任されるようになったし、これがけっこう奥が深いっていうか」
ヨウジも酒場のカウンターにいるから、言っていることはわかる。
「焼き鳥だって難しいんすよ。とりかわってあるでしょう?」
「うんうん」
「普通の焼き鳥と違って、すぐ焦げちゃいますからね。目が離せないし、こまめに回さないといけなくて」
眼を輝かせて焼き鳥の話をしている甥っ子の顔を見ながら、ヨウジはマスターの話を思い出していた。
『おめえ、多少カクテル作んのが好きだって、それで満足してんじゃねえぞ。
男だったらてめえの店もつことを頭においてな、人の話だってぼうっと聞いてんじゃねえぞ、何でも吸収できるもんはしなくちゃな。
そういうのをなんて言うか知ってっか? モチベーションっていうんだ。学のないおめえらには分からないか』
言葉だけだとすごく口が悪いみたいだが、あったかいオヤジだった。
ヨウジをバーテンで飼い殺しにしてはいけない、一人前にしなければと考えてくれていたのだと思う。
自分が死んで、ヨウジが店を切り盛りすることまでは予定に入っていなかっただろうけれど。
店の権利はまた別の人間が持っていて、ヨウジがずっとあとを継ぐと決まっているわけではない。
ヨウジは(おまえ、一生とりかわを焼いているわけじゃないんだぞ)と説教する自分を思い浮かべてみた。
せっかく仕事に熱中しはじめた甥っ子にいま言うことではないし、自分にはまだそれは似合わないと思った。
「まぁ頑張ってくれよ、今度うちの店の連中と一緒に食いに行くから」
そう言ってヨウジが伝票を取り、二人は喫茶店を出た。
「ご馳走さまです! 自分、頑張りますから!」
甥っ子は、多少グレていたと言っても根は体育会系で、礼儀正しいし、素直だ。
(ねえさんが心配することはないんだよな……そりゃ親だから心配はするか)
(おれも店に行かなくちゃ……ジロウ、ちゃんと仕込みしてんだろうな)
ヨウジたちの店はワンショットいくらで酒を飲ませるスタンドバー『GG』だ。
いまどき珍しい営業形態だが、上野から御徒町の辺りには何軒かこういう店がある。
高い料金を取れる店ではないのだが、亡くなったマスターの好みで、内装にはそれなりに凝った。
開店の時にどこからかもらってきて取り付けた、重い木製のドアを開ける。
ジロウはいて、カウンターの中で真面目に仕込みをしているようだった。
「お疲れさん……」
ジャケットを椅子の背に投げて、着替えにかかる。
「ヨウジさん、ユカリさんとデートだったんすか」
「……知らねえよ、ずっと会ってないし」
「おれ、ユカリさんのほうがヨウジさんに夢中だと思ってたんすけど」
「バカ言ってんじゃねえよ」
手をあげてジロウを叩くふりをして、やめた。
ふたりとも笑った。
「おまえ、そんなことばっかり気がいくんだな」
ヨウジは、ライムの切れ端をとって口に含んだ。
酸味とほろ苦さに顔をしかめる。
「……何やってんすか」
「今日のライムはどうか、味をみてんだよ」
「いつもそんなこと、しない……」
言いかけて、自分が喋りすぎていることに気づいたジロウは、仕込みの続きに戻っていった。
(知らねえって、あんな女……)
ヨウジは、ふだん仕事前は吸わないことにしている煙草をとりだして火をつけた。ライムで灼けた口の中を煙の味が刺す。
(鳥は飛びたいから飛ぶ……そりゃあそうかもしんないけどな)
あと五分ほどで夜が始まる。
まだ若いヨウジと相棒ジロウ
よろしくお願いします




