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ひとひらびより  作者: 追川雪乃(追兎電鉄広報部)
お嬢様も、いつもの駅で

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宿題できてない


 夏休み最後の日は、夕方になるほど落ち着かない。


 明日から二学期。

 机の上には、新しい時間割と、筆箱と、きれいにたたんだ制服。

 やることは、ちゃんとやった――はずだった。


 マリーは、自分の部屋で腕を組んだまま、机の上を見下ろしていた。


「……うそでしょ」


 その声は小さかったけれど、かなり本気だった。


 ノート。

 教科書。

 終わったプリント。

 自由研究のまとめ。

 計算ドリル。

 漢字の書き取り。


 どれもこれも、ちゃんと終わっている。

 終わっている、のに。


「読書感想文……ない」


 ないものは、ない。


 机の上にもない。

 鞄の中にもない。

 引き出しの奥にもない。

 そしてもちろん、書いた記憶もない。


 途中までやっていた、ではない。

 少しは読んだ、でもない。


 きれいさっぱり、忘れていた。


「なんで!?」


 マリーは思わず頭を抱えた。


「なんでこれだけ忘れるの!? いちばん先に片づけるつもりだったのに!」


 でも、そういう“いちばん先にやるつもり”のものほど、最後まで残ることがある。

 マリーにとっては、まさにそれだった。


 焦っても原稿用紙は埋まらない。

 叫んでも本は読めない。

 そして、助けてくれそうな相手は限られていた。


「うさちゃん……!」


 次の瞬間には、マリーはもう立ち上がっていた。




 追川家は、お隣だ。


 だからマリーが玄関のベルを鳴らす時、遠慮なんてほとんどない。

 今日だって、半分は勢いのまま押していた。


 ピンポーン。


「うさちゃん! たすけ――」


 扉が開いて、マリーは言葉の途中で止まった。


「あら、マリーちゃん」


「……雪乃さん」


 出てきたのは、うさぎではなく雪乃だった。


 マリーは一瞬だけがっかりした。

 でも、そんな顔をしている場合でもなかった。


「うさちゃんいないの?」

「朝から出かけてるわよ」

「ええーっ」


 マリーはその場で崩れ落ちそうになった。


「どうしよう……」


 雪乃は、そんなマリーの様子を見て、少しだけ目を丸くした。


「これは、なかなか切羽詰まってる顔ね」

「切羽詰まってるよ!」

「読書感想文だけ、まるごと残ってるの!」

「あら」

「“あら”じゃないの!」

「明日から二学期なんだよ!?」


 雪乃は少しだけ笑って、それから扉を大きく開けた。


「とりあえず入りましょうか」

「立ったまま慌てても、感想文はできないもの」


 その言い方が妙に落ち着いていて、マリーは少しだけ息をついた。


「……うん」



 追川家の居間で、マリーはぐったりしながら机に突っ伏していた。


 雪乃が冷たい麦茶を出してくれる。

 そのやさしさが、逆に今はしみる。


「まず確認だけど」


 雪乃は向かいに座りながら言った。


「本は一冊も決めていないの?」

「うん」

「読んでもいない?」

「うん」

「すごいわね」

「感心しないでよ……」


 マリーは半分泣きそうな声で言った。


 雪乃は、でも、困ったようには見えなかった。

 むしろ少しだけ考えるように視線を上げて、それから静かに立ち上がる。


「待ってて」

「え?」

「たしか、書庫に短編が何冊かあったはずだから」


 そう言って、雪乃は奥の部屋へ消えた。


 しばらくして戻ってきた時、その腕には何冊かの本があった。


「はい」


 机の上に並べられたのは、どれも文庫本くらいの薄さの本だった。

 短編集や、比較的短い作品ばかりらしい。


「時間がない時は、短いものをひとつ読むほうがいいわ」

「全部を大作にする必要はないもの」

「雪乃さん……」


 マリーは、ほんの少しだけ感動した顔になる。


「神?」

「そこまでではないわね」


 雪乃は笑った。


「でも、今のマリーちゃんにはたぶん救世主に見えるでしょうね」

「見える」


 マリーは即答した。


「超見える」


 そして机の上の本を見比べて、すぐに一冊を手に取った。

 いちばん薄い本だった。

 雪乃が目を細める。


「そんな理由でいいの?」

「いいのいいの」


 マリーは本気でうなずいた。


「いまは時間がないからね」

「潔いわね……」

「で、これ!」


 マリーが表紙を見せる。


「『賢者の贈り物』」

「いいと思うわ」


 雪乃はうなずいた。


「短いけれど、ちゃんと心に残る話だから」

「よし、じゃあ読んでみる」


 マリーは本を開いた。


 最初のうちは、ちゃんと読むというより、勢いで追いかけている感じだった。


 ページは薄い。

 文字もそれほど多くない。

 これなら間に合うかもしれない。


 そんなことを考えながら読み進めていたけれど、物語が進むうちに、マリーの眉がだんだん寄ってくる。


「えっ」


 ページをめくる手が止まる。


「いやいや、ちょっと待って」


 雪乃が向かいで麦茶を飲みながら顔を上げる。


「どうしたの?」

「いや、だって」


 マリーは本を指さした。


「アタシだったら、そんなことしないよ」

「そこでそれ売っちゃうの?」

「ふふ」

「いや、笑いごとじゃないって!」

「こういうのって、もっと別のやり方あるでしょ」

「ちゃんと相談するとか、もっと安いやつ探すとか、いろいろあるじゃん」

「そう思ったのね」

「思ったよ!」


 マリーは椅子の背にもたれた。


「なんかこう……」

「話としてはわかるけど、アタシだったらそんな遠回りしないなって」


 雪乃は少し考えるようにして、それからやわらかく笑った。


「じゃあ、読んでみようか」

「え?」

「わたしが夫役をするから、マリーちゃんは妻役ね」

「……なにそれ」

「お芝居みたいで、少しは楽しいでしょう?」


 マリーは、一瞬きょとんとした。

 それからすぐに目を輝かせる。


「え、楽しそう」

「でしょう?」

「やるやる!」


 さっきまで感想文に追い詰められていたとは思えない勢いで、マリーは本を持ち直した。


「じゃあ、アタシが妻役ね」

「ええ」

「雪乃さん、ちゃんと気持ちこめてよ?」

「そこはマリーちゃんもでしょう」

「よーし」


 マリーはなぜかすっかり乗り気になった。



 読み始めた最初のうちは、たしかに少しお芝居みたいだった。


 マリーはわざと声を変えてみたり、雪乃の台詞に大げさな反応をしたりする。


「……なんか、ほんとにお芝居みたいだね」

「でしょう?」

「こういうの、ちょっと楽しいかも」

「ならよかった」


 そんなふうに笑いながら読んでいた。

 でも、少しずつ変わっていった。


 台詞を声に出して読むと、登場人物の気持ちが、思ったよりも近くに来る。


 妻は本気で夫のことを思っていた。

 夫も本気で妻のことを思っていた。


 お互い、損をしようとか、我慢しようとか、そんなふうに考えたわけじゃない。

 ただ、自分の大切なものを手放してでも、相手に贈りたかった。


 そこに“もっと上手いやり方”を入れたら、たぶんもう別の話になる。


 読んでいるうちに、マリーはだんだん口数が減っていった。


 さっきまで

「アタシならこうする」

「もっと別の方法ある」

と勢いよく言っていたのに、途中からそれが出なくなった。


 読み終わったあと、しばらく居間は静かだった。


 外で風が鳴っている。

 どこかで車の音がして、すぐに遠くへ消える。


 雪乃は急かさなかった。

 感想を言いなさいとも、書きなさいとも言わない。


 ただ、静かに待っていた。


 マリーは本を閉じて、表紙を指でなぞる。


「……アタシだったら」


 ぽつりと呟く。


「もっと上手くやるって思った」


 雪乃は黙って聞いていた。


「ちゃんと相談するとか」

「別の方法探すとか」

「そういうの、いっぱいあるじゃんって思った」

「うん」

「でも」


 マリーは、少しだけ視線を落とす。


「それじゃ、だめなんだね」

「どうしてそう思ったの?」

「だって」


 マリーはゆっくり言葉を選んだ。


「このふたり、上手くやりたかったんじゃなくて、相手にあげたかったんだよ」

「損したとか、失敗したとか、そういう話じゃなくて」

「“あげたい”のほうが先なんだ」


 そこまで言ってから、自分の言葉に自分で少しだけ驚いたような顔をする。


「……なんか、そういうのって」

「ずるいよね」

「ずるい?」

「うん」


 マリーは少し笑った。


「そんなの、強いじゃん」


 雪乃も、やわらかく笑った。


「そうね」

「たぶん、その気持ちが“贈り物”なのよ」


 マリーはしばらく黙って、それから原稿用紙を引き寄せた。


「……書けるかも」

「うん」

「たぶんじゃなくて、書ける」

「それはよかった」


 雪乃の声は、あくまで静かだった。

 でも、ちゃんと嬉しそうだった。


 書き始めてみると、思ったよりペンが止まらなかった。


 最初は「感想ってなに書けばいいの」と思っていたのに、今はもう書きたいことがある。


 最初は納得できなかったこと。

 自分なら別の方法を考えると思ったこと。

 でも、お芝居みたいに声に出して読んだら、ふたりの気持ちが思っていたよりまっすぐだったこと。


 損をした話じゃない。

 相手のために、自分の大切なものを差し出した話。

 だから“贈り物”なんだと思ったこと。


「……できた」


 マリーは、最後の一行を書き終えて顔を上げた。


 外はもう、かなり暗くなっている。


「おつかれさま」


 雪乃が言う。


「ほんとに終わった……」


 マリーは感想文を見下ろした。

 ちゃんと、自分の字で埋まっている。

 しかも、思っていたより悪くない。


「雪乃さん、すごい」

「マリーちゃんの中に、ちゃんと答えがあったのよ」

「それを見つけただけ」

「いや、それがすごいんだけど」


 マリーは素直にそう言った。


 その時、玄関のほうで音がした。


「ただいまー」


 うさぎの声だった。


 少しして居間をのぞきこんだうさぎが、マリーの姿を見て目を丸くする。


「……あれ、マリーちゃん?」

「おかえり、うさちゃん!」


 マリーは感想文を持ち上げて、にっと笑った。


「ふっふっふ、終わらせたよ」

「えっ、なにを?」

「読書感想文!」


 うさぎは一瞬きょとんとして、それから雪乃とマリーの顔を見比べた。


「……もしかして、宿題やってたの?」

「そう!」


 マリーは得意げにうなずく。


「雪乃さんと一緒にね」


 うさぎは半信半疑の顔で原稿用紙をのぞきこむ。

 そして少しだけ目を見開いた。


「……ちゃんと書いたんだ」

「失礼だなあ」

「いや、だってマリーちゃんだし……」

「それ褒めてないよね?」


 うさぎがもう一度感想文を見る。

 少しだけ本気で感心したような顔になる。


「でも、ほんとにちゃんとしてる」

「でしょ?」


 マリーは少し得意げに胸を張った。

 でもすぐに、その顔のまま雪乃のほうを見る。


「雪乃さんがすごかったんだよ」

「なんか気づいたら、書けるようになってた」

「そんな大げさなことはしていないわ」


 雪乃は笑う。


「本を読んで、ちゃんと感じたのはマリーちゃんだもの」


 その言葉に、マリーは少しだけ照れたように笑った。


 帰る前、感想文を大事そうに抱えたまま、雪乃を見る。


「雪乃さん、また宿題手伝って」


 雪乃は、くすっと笑った。


「宿題は、もっと早く気づいてほしいけどね」

「えへへ……次は、たぶん大丈夫」

「その“たぶん”がいちばん怪しいのよ」


 うさぎが横から言うと、マリーは「うっ」と小さく肩をすくめた。


「まあでも」


 うさぎは少しだけ笑う。


「今回はちゃんと終わってよかったね」

「うん!」


 マリーは元気よくうなずく。


 夏休み最後の日の、大ピンチ。

 それは、追川家の居間で、思っていたよりずっとあたたかく終わったのだった。

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